17 香りに誘われて
テラスでの楽しい時間を終えて廊下に出ると、ローゼさんが尋ねてきた。
「今日も夕食をご一緒しませんか?」
その言葉に、昨日の楽しかった夕食が思い出される。
でも、初めての外泊で男爵家のことが頭から離れない。
「すごくありがたいですし、ご一緒したい気持ちでいっぱいです。ただ、お義父さまやお義母さまが心配していないかなって、少し落ち着かなくて⋯⋯。でもローゼさんと仲良くなれたのは本当に嬉しくて」
「そう思っていただけたら嬉しいです。これからも良い関係を続けて、素敵なお友達になりたいですよね」
彼女は、「男爵家は我が家に近いんですもの。またいつでも遊びにいらしてくださいね」と優しく添えてくれた。
帰る前にバルマード様やウィル君に会いたいとお願いすると、ローゼさんが伝えてくれた。
話はすぐにバルマード様に届いたらしく、ウィル君を連れてあの部屋に呼んでくれた。
桜色の室内が灯りを映して柔らかく輝くこの場所は、公爵家にとって特別な部屋。
四人で円卓を囲むと、まるで家族のように扱ってもらえているようで嬉しい。
バルマード様が、ブレンドしたコーヒーの袋を渡してくれた。
「これを男爵家でも楽しんで欲しいんだけど、エストちゃんには私が直に入れるコーヒーも飲んで欲しいから近いうちにまた来るんだよ」
袋から漂う挽きたての香り。
実はこれ以外にもたっぷり用意してくれていて、すでに男爵家の馬車に積み込んでくれているらしい。
「ありがとうございます! バルマード様のコーヒーは本当に美味しいですから。使用人のみんなにも楽しんでほしいし、もっとたくさんの人に知ってもらいたいです」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。もちろん、多くの人たちの気に入ってもらえるなら願ってもないことだよ。実はね、農園の拡大を進めているんだ。希望としては、もう少し需要が上がってくれるとありがたいね。そうなれば新たな雇用も生まれ、人々の暮らしも良くなるだろうし。誰もが気軽に楽しめる品種も増やしているんだ」
その言葉にバルマード様の情熱が伝わってきた。
この匂いを感じるたび、どこか懐かしい気持ちが胸を疼かせる。
--このコーヒーをもっと多くの人に楽しんでもらえたら。
「街に気軽に立ち寄れるお店を開いてみるのはいかがですか? 軽食やお菓子と一緒に楽しめる場所があったら、きっと素敵だろうなって思います」
私は、前世で働いたカフェの軽食やデザートのレシピを全て覚えていた。
ウィル君やローゼさんにも、それらを付け加えながら説明する。
するとバルマード様が「ほほう」と興味深そうにうなずく。
「新しい料理やお菓子と一緒に、いろんなコーヒーを出すってわけだね。面白そうじゃないか。そういう店が上手くいけば需要も上がるだろうし、皇都の娯楽や社交の場にもなるかも知れないね」
「はい! たとえばお菓子は簡単なものはその場で作って、手の込んだものは別に用意したキッチンで焼いて、届けるのはいかがでしょう。形が崩れにくいものを選べば、働く人たちもお客さんに集中できると思うんです」
バルマード様は、真剣に事業化を考えてくれてるようだった。
「アイデアはエストちゃんだから、私は資金面と働く人の手配で協力できると思う。でもその話を詰めるためにも、うちを頻繁に訪れて欲しいんだ。それでいいかい?」
「はい! コーヒーは全てバルマード様に提供していただいて、足りなくなったら売り切れにして特別感を出すはどうでしょう? 私はあの本格的なコーヒーをたくさんの人に味わって欲しいです」
「私がブレンドしたものだけを扱うって事だね。そのほうが品質も安定するし、価格も抑えられそうだ。何より挽きたてのコーヒーを味わってもらえるのが一番だね!」
バルマード様が愉快そうに笑ってくれた。
この世界のコーヒー豆は前世と同じで、バルマード様が育てているのはロブスタ種とアラビカ種とリベリカ種の三種類。
コーヒーの三大原種を全て揃えているのを知って、バルマード様は本物の通なんだって尊敬した。
新しく拡張した農園も三年以上経っていて、安定して収穫できる見込みらしい。
いただいた袋を手に男爵家に戻った私は、ヒルダに近づいてこう頼んだ。
「お義父さまやお義母さま、それにみんなにもコーヒーを振る舞ってほしいの」
ヒルダは優しい笑顔を返してくれた。
彼女は慣れた手つきでネルドリップを準備し、丁寧にコーヒーを淹れていく。
やがて男爵家のあちこちに素敵な香りが広がり始めて、穏やかな時間が流れた。
コーヒーを初めて飲む人には、そのままじゃ少し苦いかもしれないって思った瞬間、ヒルダがさっと動いてくれた。
ミルクと蜂蜜を用意して、私と両親のカップはそのままに、他のみんなにはヒルダオリジナルの優しい味付けを加えてくれた。
彼女の気遣いにはいつも感心させられる。
最初にカップを手にしたのは、メイドのマリーだった。
「このコーヒーって飲み物、なんて香りが良くて美味しいんでしょう!」
彼女の笑顔に、私まで嬉しくなる。
両親は一口飲むと、遠くを見つめるような顔をした。
「相変わらず美味しいな。⋯⋯バルマード様とのあの楽しかった日々を思い出すようだ」
お義父さまが静かに呟いて、お義母さまがそっとうなずく。
きっと素敵な思い出が、二人の中で蘇ってるんだろうな。
翌日、マリーたち使用人が街の食料品店に向かう姿を窓辺から見かけた。
新しいメイド服は街の中ではちょっと目を引く存在だ。
マリーたちは給金を握りしめて、カウンターに並んだコーヒー豆を指さした。
「これをください」と、満面の笑みで注文するその姿に店主がにこっと笑いながら、袋に豆を詰める。
そんな彼女たちの様子は、噂に敏感なご夫人たちの興味をしっかり引きつけたみたい。
通りすがりに聞こえる会話から、そんな気配が伝わってくる。
男爵家でコーヒーブームが起こると、どこからか漏れたのか街に面白い噂が流れ始めた。
「あのバルマード様が、大のコーヒー好きなんだって!」
噂のせいか、裕福な家庭や貴族たちが次々にコーヒー豆を買い求めるようになった。
市場で人気のコーヒー豆は、バルマード様の農園から届いたものだと知り、噂が本当だと実感した。
食料品店の前を通ると、普段はひっそりとした店先が活気にあふれていた。




