名月の塔
靴音も高く、アーロッテは学院の薄暗い廊下を歩いていた。
このところ、ネスカールの姿を見ていない。授業に出ていないだけではなく、寮の自室にも帰っていなかった。時折、まるで陰のように廊下や広間をうろついているのを目にする。後を追っても、いつのまにか姿を消してしまう。彼女はすでに、相当に高度な目くらましの術を身につけていた。近寄らないと分からないくらい自分の気配を消すこともできるし、あるいは逆に自分そっくりの幻影を作り出すことも容易だ。
「いったい、あの子は何者なんです?」
年老いた教導師のひとりが、学院長に話しているのを耳にした。「才能がある子は珍しくない。飲み込みが早く、術式が巧みで、教師のそれをも上回る子だっている。しかしあれは……」
「あのエイルロードの娘なのですよ」
叔母の答えは、ひどく端的だった。「今更驚くほどのことはありますか?」
驚かされることばかりだ……アーロッテが口の中でうめいた。
半刻ばかり学院のなかを探し回って、ようやくネスカールを見つけた。幻影ではない、本物の彼女を。
屋上に近い庭園だった。細い柱のならぶ回廊に囲まれたそこは、教室からも遠く、滅多に学生は寄りつかない。植え込みの低木は、季節はずれなほど青々と葉を茂らせ、巻き付いた蔓には白く小さな花も咲いていた。中央には、大理石の人魚像が所在無げに置かれている。低く灰色の雲が立ちこめた空は、この場所をひどく寒々しく感じさせた。
ネスカールはそこで、石段のうえに腰を下ろし、〈白の書〉を広げて指先で字面をなぞっていた。学生全員に配られる〈白の書〉は、教科書でもありノートでもあった。日付や曜日によって、書かれていることがすべて変わる。油断するとすぐまっさらな白紙になってしまう、この〈白の書〉を使いこなすことが、学生にとって第一の関門といってもよかった。
「何を見てるの?」
アーロッテは問いかけた。
ネスカールは、ゆっくりと顔を上げた。目の下には隈ができていた。その空色の瞳が充血して赤くなっているのをみて、アーロッテは言葉を無くした。ほんの数日のうちに、彼女はまるで年老いて小さくなってしまったかのようだった。
ネスカールは本を閉じて、立ち上がった。
アーロッテはあわてた。「待って」
ネスカールのもとへ駆け寄った。ネスカールは身を固くして立ち尽くしていた。
アーロッテは言った。「ネスカール、あなたに話があるの?」
「塔行きの話?」
その返答に、アーロッテは驚いた。「塔のことを誰に聞いたの?」
「別に……〈塔〉のことは、あちこちから聞こえてくる。耳を澄ませばね」
ネスカールは顔を上げた。彼女は言った。「あの塔は隔離施設って本当?」
「それは誤解よ」
憤然として、アーロッテは言った。「塔は確かに、学院の中でも特別な場所よ。でもそれは、学生の持つ力を正確に、そして十分に見極めさせるための場所だわ。あなたのように特別な魔法の力を持つもののために」
「特別か」
ネスカールは呻いた。「魔法使いってだけで、十分、特別だと思ってたんだけどな」
「そうかもしれない。でも、あなたの力は、それ以上のものよ。だから、なるべく早く……」
「あなたも、わたしを危険だと思ってる?」
その問いに、アーロッテは答えることができなかった。違う、と言いたかった。でもそれは本心なのだろうか? もし言葉に嘘を感じれば、目の前の少女には分からないはずがないのに。
言葉をなくしたアーロッテが目にしたのは、ネスカールの瞳の奥にある、迷い子のような不安と、恐怖だった。
*
〈明月の塔〉は、学院の一番南にある。学院の建つ岩棚の、湖につきだした先端の部分だ。
まず学院の屋根に出て、石で葺かれた屋根の上を、吹きさらしの風を浴びながら歩き、ほっそりとした石の橋をわたって、ようやく塔の入り口にたどり着ける。
灰色の雲の下に建つ〈塔〉を見上げた瞬間から、ネスカールの胸には不安が広がり、体は後込みを始めた。それを無理矢理押さえつけて、足を前に進ませたのは、結局は自分自身への恐怖だった。自分の中の、正体不明の力は恐ろしい。それ以上に、自分の力の正体を知らず、使いこなせずに何か致命的な問題を起こすことが、なによりも恐ろしかった。それはつまり、自分の母親がやったことと同じであると言われるに等しかったから。
先導しているアーロッテの背中を、銀色の長い髪が流れていた。彼女の心に近寄るのが怖かった。相手に近寄ることで、相手の感情をつかみとれる。これも学院にきてから気づかされた、ネスカールの力のひとつだ。怒り、悲しみ、恐怖、そういったものを否応なしに感じる。
だからネスカールはほとんどずっと顔をうつむけたまま、言葉もなく回廊を歩き、橋を渡り、狭い階段を登って、塔の中に入っていった。そして古びた木の扉が開いて、黄金の輝きが彼女を出迎えた。
塔の中に窓は少なかったが、多くの燭台が灯され、その柔らかい明かりで室内は満たされていた。広い部屋だった。天井は見上げるほどに高く、長く頑丈な梁が組み合わされて、その天井を支えていた。巨大な本棚がびっしりと並び、それらのどれも金字の押された皮の背表紙で埋め尽くされていた。床には緋の絨毯が敷かれ、歩くごとに靴音をそれが受け止めていた。
言葉もなく、ネスカールは立ち尽くしていた。空気自体が、塔の外側とは違っていた。暖かく、こちらの心と体をゆっくりと暖めていく。同時に、この暖かさが危うさにつながることもネスカールは感づいていた。この空間は、人を外に逃さないような何かがある。
本棚の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。あまりに部屋が広いので、顔かたちも分からなかったが、近寄るにつれ、男というのにはまだ若い、少年といっていい顔つきであることがわかった。
背はさほど高くなく、やせていて、手に持った巨大な本と比較して、ひどく頼りなく見えた。実際のところ、片足を少し引きずっていることにネスカールは気づいた。髪の毛は日の光のような金色の巻き毛だった。目は深い藍色で、日の沈んだ薄暮を思わせた。その瞳がまっすぐにネスカールに向けられて、彼女は息ができなくなった。
男は巨大な本をテーブルに乗せた。表紙の大きさは、その上で食事ができそうなくらいあった。彼は言った。
「ここに人が来るのは、ずいぶんと久々だね」
「わたしも久々にここに来ました。ごきげんよう、マハード太子」
アーロッテが固い声で言って、頭を下げた。「お変わりないようで、なによりです」
「あなたはずいぶんと変わったね、アーロッテ」
男の声は、黒曜石の断面さながらの、鋭さをもったなめらかさだった。「叔母上から、何か伝言が?」
「そうではありません。あなたも最近の学院の様子くらいご存じのはず」
そう言ってアーロッテは、ネスカールの背を押した。「彼女です。エイルロードの娘です。わたしたちは彼女こそ、塔の中に相応しい人材ではないかと思うのです」
「塔にふさわしい人間はいない。君にも教えたことがあるはずだ」
男がゆっくりと歩み寄ってくる。ネスカールの身は強張り、ほとんどなにも言えずにいた。挨拶くらいしようと口を開きかけたが、かすれ声が漏れただけだった。
男が目の前に立って、そっとネスカールの手を取った。石で打たれたように、ネスカールの身体が震えた。男はネスカールの手をじっと見下ろし、そのあと、ほんのかすかにネスカールに微笑みかけて、言った。
「君がネスカールか。僕はマハードという。君は〈塔〉に立ち寄る権利を得た。次は、どうやって出ていくか、決めるんだ」