夕食会
夕食会は、壁が見えないほど広い部屋で行われた。
比喩ではない。右を見ても左を見ても、壁が見つからなかった。天井から下がったシャンデリアには、きらめく蝋燭が燃えていた。そうした明かりは、この部屋の隅々まで照らすのには不足だった。実際の広さ以上に、魔法で拡張されているのだった。大理石の柱が立ち並ぶ広間に、白いクロスをかけられたテーブルがいくつも並び、その上には料理が、皿からはみでんばかりに盛られていた。
食事の前に、学院長から簡単な教示があった。この学院で生活する上での決まりと心得云々であったが、ほとんど誰も聞いていなかった。テーブルに並べられた料理に、吸い寄せられていたのだ。それを知ってか知らずか、学院長の言葉はすぐに閉められた。
「では、みなさん、料理を頂きましょう。くれぐれも節度を逸することのないように!」
しかしこの世代の男女に、節度を期待できようか?
かくして年若い生徒たちは、山盛りになった料理にかぶりつく羽目になった。壷から、葡萄酒をついで、浴びるように飲むものもいた。水で薄められ、胡椒と蜂蜜で味付けされてはいるが、酔ってしまうものも少なからずいた。食事が進むうち、所々で人が倒れ、救護室へ運ばれていった。
ネスカールは、ローストチキンを銀製のナイフで取り分け、無心で口に運んでいた。思えば、ほとんど丸一日なにも食べていなかった。油まみれの口元を袖口で拭い、陶製のゴブレットについだエールで喉に流し込んだ。葡萄酒はそれほど好きでなかったので、エールがあって助かった。
いくら取っても、皿の料理は際限がないように思えた。だいぶ減ったと見えた皿の上は、いつのまにか補充されて山盛りになっていたし、滴も落ちぬほど空けたはずの杯は、振れば再びなみなみと重い酒精に満たされていた。
おかげでネスカールは、たちまち膨れ上がった腹を抱えて、椅子の背によりかかる羽目になった。生まれてこのかた、これほど腹に物を詰め込んだことなどない。村の家で取る食事は、いつも薬草とキノコと、レンガのように堅い黒パンだけで、肉や卵、魚などは月に一度とればよいほうだったのだ。シフ村の百姓の生活といえば誰もそんなものだったし、彼女としてもそれに疑問を覚えることもなかった。
しかしこの豪華な食卓は、彼女にとってあまり馴染みがないだけではなく、馴染めそうにもなかった。いったいこの豪勢な食事はどこから出てくるのか? 魔法で生み出されているわけではなかった。どこか別の場所、おそらく厨房で作られた料理が、転送の技によって送られてくるのだろう。この大広間には、人だけではなく多くの魔法の生き物が存在した。目に見えぬ妖精が、かいがいしく皿を下げ、新しく満たした杯を運んでくる。遠くの方では、巨大な銅製のゴーレムが、肉の塊を運んでいる。この空間自体に満ちた魔力にむせかえりそうで、いささか気分が悪くなった。
さらに言うならば、こうした贅沢は彼女自身の好みにあわなかった。ネスカール以外の生徒は、みな当然のように肉の塊を切り分け、高価な胡椒や蜂蜜をまぶしたそれを満足そうに口に運んでいる。なんとなく魔法使いというのは質素なものだと思いこんでいたネスカールには、あまりうれしくない光景だった。
「食べ過ぎたんじゃない? 大丈夫?」
そういってこちらを覗き込んでくるアーロッテは、食事を早々にすませて、今は銀杯にいれた蜂蜜酒をすすっていた。彼女も、この食事になにかしら疑問を覚えている様子などなかった。当然といえば当然。アーロッテも魔術の名門だ。
何かを言おうとして、代わりにげっぷが出た。ごまかすために少しせき込んで見せてから、ネスカールは言った。「ここ、わたしの村とはぜんぜん違うわ」
「あなたは、どこで育ったの?」
「シフ村っていうの。ここから東に二百リーグくらい。山間の村でね、北の山脈がよく見えた。みんな貧乏で、小さい畑を耕すか、牛や山羊を飼って暮らすしかなかった……」
いつのまにかネスカールは、自分の生い立ちを語り始めていた。
寒く厳しい冬。乏しい食事。村人からの白い眼。森の動物との会話。自分のことをこうして話すのは、彼女としては初めての経験で、自分がなぜこんなことをしているのか不思議だった。アーロッテはときおりうなずきながら、ほとんど黙ってその話を聞いていた。
「あなたが、エイルロードの娘なの?」
そう声をかけられたのは、ネスカールの身の上話が、だんだん村への愚痴に変わり始めたころだった。
顔を上げると、金色の瞳が目に入った。同世代の少女が、自分を見下ろしていた。丸顔で、紅色の赤毛を髪留めでまとめている。同じ新入生なのだろう。しかし服装は、アーロッテと比較してもさらに金がかかっていた。斑染めのマントを止めるブローチはなんと白銀だし、髪留めにつけられたルビーは親指の爪ほどもある。ぱっちりした大きな瞳が強気につり上げられ、口元には挑戦的な笑みが浮かんでいた。
視界の端で、アーロッテがにこやかに微笑むのが目に入った。彼女が口に出していった。「オルドインの娘のお出ましね」
「ロッサールは今年もあなたひとりなの? アーロッテ」
少女は、アーロッテに視線を移して言った。「大変よね、その年で、ご両親の代わりまでしなくてはならないなんて」
「ご心配なく」
アーロッテは言った。「ご兄弟の多いあなたは、責務を分担できてたいへんうらやましく思いますわ」
少女は何も言わなかったが、その細い眉が危険な角度につり上がるのを、ネスカールは眼にした。ふたりの間には、個人のものではない昔から連なる因縁の糸がいくつも延びていた。その糸が絡まないように、ネスカールは無意識に体を引いていた。
少女がこちらを向いた。「あなた、お名前は?」
気圧されたネスカールは、答えるまでにだいぶ時間を費やした。「シフ村のネスカール」
「あたしはチャンドラ。ブアウン・オルドインの娘。あなた、ご兄弟はいないの? いないわよね。あなたの中には、まるまるひとつの力の存在を感じるわ」
ぐっと身を乗り出してきて、チャンドラの手がこちらの肩口を掴んだ。「ねぇ。それをこのあたしに見せて頂戴。伝説のエイルロードから受け継いだ、その力をね」
「チャンドラ」
アーロッテが身を乗り出す。「いい加減になさい。今は食事中で──」
甲高い悲鳴が、それを遮った。
目を丸くしたアーロッテの目の前で、チャンドラが身を引いた。その手に、何かが絡み付いている。黒々とした、巨大な蜘蛛だった。
「力って何なのかな」
ネスカールが言った。
蜘蛛は、水で洗い流したかのように消えた。ネスカールは、チャンドラの金色の瞳をじっと見つめて言った。「わたしは、それを学ぶために、ここに来たのだと思う。あなたはどうなの?」
チャンドラは答えなかった。
彼女は顔をそらし、身を翻して去っていった。その後姿を見つめていると、ネスカールの肩にそっと手が置かれた。
「ネスカール」
アーロッテは言った。「今のは、あなたが──? いったいどうやって」
「分からない」
呟くように、ネスカールは言った。「だって、それを学びに来たんだもの」




