学院の城門
街に辿り着くまでは四半刻もかからなかったが、その頃にはかなり日が傾いていた。
石造りの街は、夕日を浴びてはちみつ色に輝いていた。さほど大きな街ではないにせよ、山間の田舎に住んでいたネスカールにとっては都も同然で、どんなものも珍しく感じられた。
街の大通りの左右には、多くの店があった。野菜、くだもの、肉、魚、鋳掛けもの、衣服、靴、そうした店が軒を連ね、道行く人々に声をかけていた。
こんな大勢の人を見たことがないネスカールは早くも人酔いしてきた。本当ならばおのぼりさんよろしくあちこちを見て回りたかったのだが、それほど余裕ある状況ではなさそうだった。日が暮れてしまえば、学院が閉まってしまうかもしれない。そうなったら、無一文の自分は、いったいどうすればいいのか?
だからネスカールは、心持ち早足で、大通りを上っていった。正面に進めば、学院にたどり着くはずだ。
それにしても、とネスカールは思った。あちこちから視線を感じる。道行く人々が、目をむいてこちらを見る、ということが一度ならずあった。
みすぼらしい姿の子供ひとりが、日暮れに出歩いているのがおかしいのだろうか? しかしネスカールの髪の毛──象牙色に近い銀髪──を見れば、およそ魔法使いの血筋だと分かりそうなものだ。何しろここは、魔法使いの総本山のようなところなのだから。
町並みを抜けると、目の前に学院が見えた。
上から見たときもそうだったが、こうして地面から見上げるとなると、威圧感のかたまりだった。建物というより、四角い岩そのものだ。しかも……城壁に積み上げられた岩のひとつひとつに、強力な魔法がかかっている。こんな頑丈な城ならば、巨人が蹴飛ばしてもびくともしないだろう。
正面に巨大な城門があった。アーチ型の入り口は、小さな家がすっぽり収まるほどの大きさがある。そして、入り口には角材と鉄を組み合わせた落とし格子が降りていた。それはネスカールに、歯をむいて笑う巨大な生き物の口を思わせた。あたりに人はおらず、どうやってこの落とし戸をあげるのか、ネスカールはしばし、その場に立ち止まって考えなければならなかった。
『何用だ』
いきなり話しかけられて、ネスカールは仰天した。口、と思ったのは間違いではなく、この城門自体がどうやら生きているのだった。城門は、殷々と響く低い声でネスカールに話しかけた。
『ここはデオカリクの魔法学院正門。なんびとたりとも、許可なく立ち入ることは許されぬ。資格を持たぬ者は、立ち去るがよい』
ここでネスカールの負けん気が顔を出し、怒りとともに魔法の言葉を相手に放っていた。
「何という言いぐさ! わたしはネスカール、エイルロードの娘、請われてこの学院に参った身だ。その我を、何故に妨げるか! 必要ならば、ここにお前たちの証文がある。受け取るがいい!」
懐から入学証明書をつかみ出すと、立ちふさがる城門に向かって投げつけていた。証明書は格子に当たり、ひらひらと力なく地面に落ちた。城門はいきなり沈黙し、戸惑うように唸り、結局なにを言うでもなく、あっさりと折れた。目の前の落とし格子が、重々しい音を立て、ゆっくりと上にあがっていくのを、ネスカールは見上げた。今更のように、感情を高ぶらせたことが気恥ずかしく思えてきた。赤面した顔を隠すかのように、顔をうつむかせて、ネスカールは城門をくぐった。
狭い前庭が、ネスカールを出迎えた。
城門と、館の壁に囲まれて、狭いうえにひどく暗かった。隅には、古びた馬車の荷台と、いくつかの木樽が放置されていた。人影はない。いや、屋敷の入り口と思しき扉のそばに、腰の曲がった老婆がいた。老婆は手に持った竹箒で無造作に落ち葉を集めていたが、こちらに不審そうな視線を向けると、すぐに扉を潜って姿を消してしまった。どうしていいか分からず、ネスカールはしばしその場に立ち尽くしていた。
「こんにちは」
すぐ後から声が聞こえた。
いつのまにか、そこに丸顔の女性が立っていた。薄い栗色の髪を編んで、肩から垂らしている。いかにも魔法使いらしい、濃紺のローブに身を包んでいた。その女性は、ネスカールがぶん投げた入学証明書を拾い上げ、広げて、その内容を確認していた。「あなたが、ネスカールね?」
「はい」
ネスカールは、上ずった声でそう答えた。この女性がどこに居たのか、まったく知覚できなかった。非常に高度な、洗練された魔法の技だった。女性は、ネスカールの動揺などどこふく風で、入学証明書を丸めると、さっと両手の中に閉じ込んで、消した。
彼女は言った。「間に合ってよかったわ。あなたで、今年度の入学生は最後なの。さあ、行きましょうか。ほかの新入生たちが、講堂で待ってるわ」
そう言って彼女は、ネスカールに笑いかけた。濃い灰色の瞳だった。
ネスカールは口の中で「お見苦しいところを……」などともぐもぐと口にしたが、けっきょく言葉をそこから継げず、黙ってしまった。女性は笑顔のまま、ネスカールを促した。
彼女は言った。「私はアインハイル。学生寮の寮長をつとめているわ。あなたたち学生の、生活全般を監督するものよ」
「はあ」
曖昧な言葉を、ネスカールは返した。その時になってようやく、この学院に新入生としてやってくるのが自分だけではないことを、ネスカールは思い出したのだった。「あの、新入生って、何人くらいですか」
「今年は十七人。例年より少ないわね」
アインハイルは答えた。「学生全体で、だいたい二百人くらいかしら。もちろん院生、研究師、教導師などを含めれば、もっと多いけれど」
「それがみんな、魔法使いなんですか?」
ネスカールの心が浮き立った。不安もあったが、それ以上に好奇心が勝った。
アインハイルは肯いた。「そうよ、あなたのお母さんと同じように」
母親と同じ──
その言葉が、ネスカールに与えた影響には、アインハイルは気づいていないようだった。彼女は続けてこう言った。「光栄だわ。あのエイルロードの娘を、学院に迎え入れることが出来て」
「あの、母のこと、知っているんですか」
「もちろん!」
アインハイルは言った。「私の知っている限り、最高に優秀な魔法使いだったわ。それに加えて……」
「それに加えて、とても問題の多い魔法使いでもありましたけどね」
その声は、彼女らの背後から聞こえた。
振り向くと、初老にさしかかった白髪の女性がひとり、立っていた。ほっそりと背が高く、細長い首のうえに小さな頭が乗っていた。白い髪は首の後ろできっちりとまとめられ、表情は風雪にさらされた岩の彫像を思わせた。アメジスト色の瞳が、氷の冷たさを持ってネスカールのことを値踏みしていた。
「学院長」
アインハイルは言った。「この子が、エイルロードの娘の」
「ネスカールですか。一目見て分かりました。本当に母親によく似ていますね」
その声もまた、磨かれた岩のような、硬さと冷たさを持っていた。「あなたを歓迎します、ネスカール。ではふたりとも、講堂に向かってください。私もすぐに参ります」
それだけ言うと学院長は、ふっと風に吹かれたように姿を消した。鮮やかな転移の術で、思わずネスカールの口から感嘆の声が漏れた。少し言葉をかわしただけで、あの初老の女性が卓越した魔法使いであることが、容易に察せられたる。
「では、ネスカール、わたしたちも急ぎましょう」
アインハイルが言った。「講堂はこの先です」
しばらく進むと、中庭にたどり着いた。
四角い石が敷き詰められていて、中央には水盤があった。四方を高い石壁に囲まれ、空がひどく遠く見えた。見上げれば、茜色の空には、うろこ雲と、小さな鳥が浮かんでいた。
「あれっ」
思わず声が出た。
鳥ではなかった。小さくもなかった。それがゆっくりと、こちらへと飛んでくる。空がどんどん狭くなる。
隣を歩くアインハイルも、その異常に気づいたようだった。中庭が急に暗くなり、空が落ちたかのような轟音が降ってきた。ネスカールは上を見上げたまま、目と口をまん丸に開いて、そのまま固まってしまった。
さっき用を足しておいてよかった、などとくだらないことを第一に、ネスカールは思った。
巨大な竜がそこにいた。中庭を囲む城館の、屋根にその鉤爪を食い込ませて。先ほどネスカールを背に乗せてきた飛竜とは、大きさも姿形も、全く違う。竜と飛竜は別物だというオズバンの言葉を、改めて思い出した。その竜は長い首をもたげて、上からネスカールをのぞき込んでいた。その両眼は、燃えさかる炎の中心だけをえぐりとったような、明るく透き通った黄色だった。鱗は鮮やかな青で、釉薬をかけた陶器のように、つややかで滑らかだった。
「ネスカール、エイルロードの娘よ」
竜が口を開いた。ごうごうと鳴り響く声が、岩の館全体を揺るがした。「よくぞ学院へ参った。歓待の言葉を述べさせてもらおう」
「それはどうも」
間の抜けた言葉を、ネスカールは返していた。「あの、どうしてわたしの名前を?」
牙をむきだして(その牙のひとつひとつが、大人の手足ほどある)竜は笑った。「ぬしの母御には、だいぶ世話になった。そのとき、わしは誓いを立てたのだ。ぬしか、ぬしの子らが、助けを必要としたとき、竜の力を持ってそれに応じると」
「…………」
沈黙しか返せなかった。
またしても母親だった。いったい自分の母は、いつ竜に恩を着せるようなことをやらかしたのか? 言葉もなく、ただ黄玉のような竜の瞳を見上げることしかできなかった。
竜は、ネスカールの呻吟などどこふく風だった。炎の断片が混じる息を吐き出しながら、
「もし、ぬしが、竜の助けを必要としたときは、わしを呼ぶがよい」
太い声を震わせて、竜は笑った。「サインサイザールの連邦第一総竜がここに誓う。ではエイルロードの娘よ、またの機会を、心待ちにしておるぞ」
竜が身をふるわせた。
そう思ったときには、夕暮れの空に翼をはためかせ、飛び去る竜はたちまち視界から見えなくなっていた。
「……この地に竜がやってくるなんて、三十年ぶりのことだわ」
ネスカールのとなりで、アインハイルがかすれた声を出した。「あなた、いったい竜と何を話していたの?」
「え?」
ネスカールは、アインハイルへと向き直った。「聞こえなかったんですか?」
「竜の言葉を知っているのなんて、古代の魔術師だけよ」
アインハイルの声には、戸惑いと、驚きと、そしてどこか誇らしげなものが混じっていた。「竜の言葉が分かる新入生だなんて。この学院はじまって以来じゃないかしら」