帰郷
「姉上が死んだ?」
思わず、大声を出してしまっていた。
滅多に使われることのない、学院の応接間。天井が高く、床には高価な絨毯が敷かれている。綿入りのソファに浅く腰掛け、不安そうに肩を揺すっているショーロードは、返答の代わりにうなり声をあげ、うなずいた。
フーリエにとって、ショーロードの顔を見るのは五年ぶりとなるが、その歳月はこの執事を十分に痛めつけていた。浅黒い肌には多くの皺が刻まれ、元はフーリエと同じ濃い灰色だった髭は、ほとんど白に近づいている。
そのショーロードが、咳と一緒に言葉を吐き出した。「まことに残念無念、流行病でございました。医師を呼んだときは、もはや手の施しようもなく……」
「姉上が、死んだ」
もう一度繰り返してしまうくらい、実感のない言葉だった。姉とはもう十年近くもあっていない。血族と累系が、愚にもつかない政治劇を繰り広げる郷里で、ひとつの親兄弟が離れた場所で育てられるというのは通例だった。そもそもフーリエからして、この学院に送り込まれたのはそれが原因だったのだ。
フーリエは言った。「叔父上は、何と言われている」
「この期に置いては、もはややむを得まい、と」
「まあ、そう言うほかはあるまいよ」
自分の声に、隠しようもない皮肉と諦観をかぎとって、フーリエは密かに絶望した。自分もまた、あのくだらない盤上の駒となるために、戻らなければならないというのか。
「では、今すぐにでも帰郷しろというのだな」
「さようでございます」
頭を下げるショーロードの、白髪に覆われた頭部を見下ろして、自分の胸中にあるものがなんなのか。改めて見つめなおしても、それを具体的に表すことがフーリエにはできなかった。ずっと前から燃えている、泥炭のようなこの怒りを、フーリエはやはりぐっと押しとどめて、薄暮の彼方にある自分の未来に思いをはせた。
*
乾いた砂のようになってしまった鎖鎧を、拾い集めるのをついにあきらめて、男は立ち上がった。鎧下だけになってしまった姿に、冬の風はとても冷たく、無事だったマントを体に巻き付けて凌いだ。
ほかの仲間は、みな騎乗したままだった。乗り手の気持ちが伝染したのか、馬たちも一様に落ち着かず、不安げに足踏みしている。目の前の城門はずっと開いたままだが、その向こう側に足を踏み入れる度胸のあるものは、ひとりとしていなかった。
「遅いな」
誰かが呟いた。同意しようとしたが、実際にはまだ四半刻も経っていないのだった。太陽は未だ高く、不自然なほど陽気にあたりを照らしてはいたけれど、そうであればこそ、この不安と恐怖に、自分たちがどうにか耐えていられたのだった。
「あれが魔女か」
また、誰かが言った。「なんという、恐ろしい力だろう。いったいなぜ、こんな奴らが野放しにされているのだ」
「こんな城、焼き払ってしまえばいいのに」
「そうだ」
また誰かが同意する。「やつらを、皆殺しにしてしまえ」
「滅多なことを言うな」
たしなめるように、別の男が言った。「奴らが、聞き耳を立てていたらどうするんだ?」
それを聞いて騎士たちは、恐ろしげに周囲に視線を巡らせた。北アーカイルの騎士といえば、勇猛さでこそ知られてはいたけれど、魔法の力に対しては全く疎いのだった。彼らにとって魔法使いとは、不気味で、恐ろしくて、不吉なものに他ならなかった。
だからこそ、フーリエの学院行きは大きな問題となった。王であるフーリエの父は、そのことに強く反対していた。それを王弟、フーリエにとって叔父である、宰相のイーケが強引に進めたのだ。魔法使いたちに取り入るのも、国勢を考える上で必須であると。
それは決して間違いではなかったが、大方の人々は、宰相がフーリエを遠ざけ、自分の宮廷内での地位を脅かす要因を減らすのが目的だったと噂した。
だがフーリエの姉の急死により、全てが変わった。隣国との結びつきを強めるために、誰かしら婚資が必要だったからだ。常識的に考えれば、一番ふさわしいのはフーリエだった。下にいるのは、男兄弟ばかり三人で、しかもみな五歳に満たない。
誰かが言っていた。「あんな男女でも、王の娘だ。いないよりはマシさ」
だからこそ、自分たちはこんな寒空の下、妖しき魔法使いたちの巣を訪れることを命じられたわけなのだが……。
「ねぇ」
すぐそばで、子供の声がした。
いつのまにか一行の近くに、ひとりの娘が立っていた。背が低く、歳は十二か三か、そのくらいの小娘だ。秀でた額に、空色の大きな瞳。くしゃくしゃに乱れた象牙色の巻き毛は、肩の上あたりで短く切られていた。着ているものは、灰色のローブの上に、毛皮の上掛け。その毛皮は、風もないのにぴくぴくと動いている。
一瞬の沈黙のうち、ざわりと騎士たちが沸いて、娘から距離を取った。いつ現れたのか全く分からなかったし、そもそもこんなところに普通の子供がいるはずもなく。
(魔女か?)
(魔女の子供なのか? この子は?)
(気をつけろ、目を合わせるな)
「その、魔女っていうの、やめてほしいんだけど」
ささやき声をかわす騎士たちに、娘は、腰に手を当てて言った。騎士たちは絶句し、それぞれ顔を見合わせた。
「そっちではどうか知らないけど、こっちじゃあんまり、いい言葉じゃないんだよね。それって」
「それは……それは……失礼をした」
鎧を失った男は、かすれた声で言った。「その……お前は、ここの魔法使いか?」
「うん」
娘はうなずいた。「あなたたちは、フーリエの家来?」
「なに?」
「つまり、その……なんていうんだ? 家臣? っていうのかな?」
「おい、ゴート、口を聞くな」
騎士たちのひとりが言った。「魂を取られるぞ」
遠巻きに、口々に言いつのる騎士たちを、ネスカールは睨みつけた。小さく悲鳴があがり、男たちがさらに後退する。
ゴートは……それほどまでに恐れる理由が、分からなかった。彼もまた、北アーカイルで育った一員として、魔法には迷信的な恐怖を覚えている。しかしそれにしたって、目の前にいるのは、どう見ても痩せこけたちっぽけな小娘にすぎない。それを、ここまで恐れる必要があるものどうか。
彼は言った。「娘、お前はフーリエ様のことを知っているのか」
「友達だもの」
そう言った娘の顔は、しかしどこか不安そうだった。友達、という言葉を聞いて、後ろに待避した騎士たちは顔を見合わせていた。フーリエ様が、魔法使いと友達に? ひとりが鼻で笑おうとしたが、皆の険しい視線に射すくめられて、妙な形に顔をひきつらせた。そもそも彼らとて、この学院でフーリエがどのような立場で、どのような扱いを受けていたのか、さっぱり知らないのだった。
「あなたたちは、フーリエを連れ戻しに来たの?」
娘が聞いた。「さっきまでの話を聞いてると、そう思えるんだけど」
「聞いていた?」
思わずゴートは、後ろの仲間たちを振り返った。彼らは顔を見合わせ、ぶつぶつと囁きを交わす。
(聞かれていた? どれをだ?)
(やはりそうなのか。だからこんな所で、のうのうと立ち話などと)
(俺じゃないぞ。俺は何も言ってない)
(外交問題になったらどうする。今後の我が国に対する心証が)
(やめてくれ。俺はヒキガエルなんかに変えられたくない)
思わず、ゴートはため息をついた。すぐ近くで、娘も同じような顔で嘆息する。
ゴートは娘に言った。「恐らくそうなるだろう。フーリエ様の姉上が亡くなられて、現状ではフーリエ様が王室の一番年長となる。万が一にも、こんな場所に置いておくわけには」
口が滑った。ゴートは思わず口を押さえたが、果たして娘は、彼の失言など心に留めていないようだった。
「そう」
とだけ口にすると、顔を伏せて、何か物思いに沈んでいるようだった。今更のように、娘が口にした「友達」という言葉が思い出された。自分たちにとって、これは王国の政治的問題だ。しかしこの娘にとっては、友達が遠くに行ってしまうという、ただそれだけのことなのかもしれない。
ゴートは口を開きかけた、同情か、慰めか、その類の言葉を口にしようとしたのかもしれない。自分でも、何を言おうというのか、よく分からなかった。しかしその前に、門の向こうからふたりの人影が現れて、話を遮断した。
フーリエとショーロードだった。フーリエは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、娘を見て目を見開いた。娘はさっと身を翻し、フーリエの元へと駆け寄った。




