覚悟と出立
夜気が白い靄となって流れていた。
その夜、ネスカールはひとり、森の中を歩いていた。夜半をすぎ、空気は身を切るように冷たかったが、彼女はそのことに気づいていなかった。無意識のうちに、熱を周囲から遮断していたのだった。
月が途方もなく明るく、見上げると痛いほどだった。木々の葉の隙間から、夜を切り取って、月光が森の大地を照らしていた。
いつのまにか、ネスカールのすぐ横を大きな猪が並んで歩いていた。煮詰めた炭のように黒い毛の、太く曲がった牙を持った猪だった。ネスカールは下を向いたまま言った。
「久しぶりね、なんだか」
「なに、別れの挨拶と思ってきたのだ」
その言葉に、ネスカールは思わず横を向いた。猪の小さな栗の実のような目は、こちらではなく、どこか遠くを見ていた。
はっと顔を上げると、この場にいるのはどうやら猪だけではなかった。少し離れた木立に、白い大狼の姿が見えた。その後ろに従うように、豊かな枝振りの角を持った大鹿の姿も。
彼らは……雄と仮定しての話だが、ネスカールが森を歩いているときに出会う、森の動物たちだった。たいていの動物はネスカールが話しかけると逃げてしまうのに、彼らは自分からやってきて、しばしば話し相手になってくれたのだ。
だが彼らがこうして、一堂に会しているのを見て、今更のように彼らがただの動物ではなく、特別な何かであるということに思い至った。
困惑して、ネスカールは言った。
「あんたたちは?」
「君の御母堂には世話になった。その礼といってはなんだが、我々は森の中で、小さい頃から、君の様子を見守ってきた」
大猪は言った。その言葉は、驚き以上に、大きな困惑をネスカールにもたらした。彼女は言った。
「わたしのお母さんを知っているの?」
「知っている」
「なら、教えてくれてもよかったのに」
「聞かれなかったからな」
大猪はすましてそう答えた。
それが諧謔や皮肉などではなく、本心であることが、ネスカールには分かった。大猪は話を続けた。「君の御母堂は傑物だった。彼女が、生まれたばかりの君を持って、この森にやってきたときは驚いた。それと同時に、納得もした。ああいう人間が、人間の中に混じって生きていくことは、なかなか難しい」
「今の君は、若い頃の彼女とよく似ている」
木立の向こうで、白い狼が言った。
「じゃあ」
口に出そうとすると、のどの奥で言葉がつっかえそうになった。「お母さんが追放……されて、わたしをここに預けた理由、知っているの?」
「知らぬ」
素っ気なく、大猪は言った。「ただ、ろくなことではないだろうと想像はつく。人間の世界の下らぬ仕組みが、それを決めたのだ。彼女はそのくだらなさもよく知っていたから、追放に逆らいもしなかった。彼女のなかでは、それよりも重要なことがいくつもあったのだろう」
「…………」
「何を悩んでいる?」
黙っていると、不意に猪が問いかけてきた。「別離の挨拶とともに、祝いの言葉でもかけてやろうと、わざわざ我々はやってきたのだがな」
「だって……それは」
再びネスカールは言葉につまった。自分の胸の内を言葉にすることが、とても難しいのだと、今更のようにネスカールは思った。
「わたし、学院に誘われて、そこに入ることになったんだけど」
「うむ」
「それが、いいことなのかどうか、分からない。だって」
言葉を探して、両手をふらふらと動かしながら、「だってそこは、お母さんを追放したところなんでしょう? わたし、学院というものがあって、そこで魔法を学べると知って、最初はすごくうれしかった。だってちゃんとした魔法使いになれば、こんな山の中の村で、みんなに白い目で見られるような生活をしなくていい。単純にそう思った。でも、おばあちゃんはそこが、お母さんを追放した、とんでもない連中の溜まり場のようにいう。わたし、何が正しいのか分からなくなった」
「正しいものなどはない」
猪の答えは明確だった。「できるのは、正しくあれと願い、行動することだけだ」
ネスカールは月を見上げた。すがすがしいまでに眩しく輝く月を。
「決めた」
ネスカールは言った。「わたし、魔法使いになってくる」
「そうか」
「その上で、どうしたらいいか決める」
ネスカールの口元はきゅっと結ばれ、まなじりはきつく研がれて夜空をにらんでいた。
「なんであろうと学んでやる。そして本当の魔法使いになる。母さんがどうして追放されたのかも教えてもらう。その上で、母さんを捜す」
猪は何も言わなかった。ただかすかに、そのおとがいを上向かせて、言葉に同意したように見えた
「魔法の力でなんでもできる、なんてことはないんだろうと思う。でもわたしは、それでなにができるか知りたい。この世界のことも。母さんのことも。ずっと知らずに生きてきた。そうだ、なんでもっと知ろうとしなかったんだろう。なんでもっと知りたいと思わなかったんだろう」
「それは、おまえが生まれながらの魔法使いだからさ」
猪はそう言ったが、いつものようにそれは相手に届かなかった。「おまえは生まれながらに何でも知っている。それに気づいていないだけでな。だから、何も知ろうとしないのさ」
「すべてを学んだとき、わたしはここに帰ってくる」ネスカールの言葉は続いていた。
「そうなったとき、わたしは本当にわたしになれる。そんな気がするんだ」
*
竜騎兵のオズバンは、背の低い、無愛想な男だった。銀色の大きな兜を被り、無精ひげのはえた口元を、いつも不満そうにもごもごさせていた。肩に掛けた緋色のマントだけが、不釣り合いなまでに鮮やかだった。
「じゃあ、行くかい」
彼は言った。
村はずれの丘に、ネスカールと彼はいた。緑の丘に生えた草が、いつものように北風に吹かれ、さびしそうに揺れていた。彼の乗ってきた竜が、少し離れた丘の頂上で、羽を畳み、鼻からちろちろと炎を吐いて、二人が来るのを待っていた。
ネスカールは頷いた。「行きます」
「ご両親に、ちゃんと挨拶はしてきたかい」
「両親はいません」
そう答えると、オズバンは目をそらしてそっと舌打ちし、「そういえばそうだったな。俺としたことが」と呟いた。風の精が律儀に伝えてくれなければ、聞こえるはずのない言葉だったが。
オズバンは、こちらに視線を戻すと、
「荷物はないのかい」と聞いた。
ネスカールは身ひとつだった。粗末な毛織りの服を着、その上に革の胴着をつけていた。他には何も持っていない。
「荷物なんてありません。これだけです」
「そうかい」
そう言ったオズバンの視線がそれて、こちらの後ろを向いた。つられて振り向くと、いつのまにか村につながる森の出口に、十人近い村人が立って、こちらを遠巻きに見上げていた。竜を指さし、口々に何かをささやきあっている。
その中には、領主の息子たちも、エウトロもいた。何をしゃべっているかは、さすがに遠くて、風も届けてはくれない。
「どこも同じだな」
その声に振り向くと、オズバンが先ほどよりさらに不機嫌そうな顔をして言った。「魔法使いを見る目だ。恐れ、近寄ろうとしない。そのくせ、困ったときは、我先にとやってきて、助けを乞うんだ。今までのことを忘れてな」
「あなたは違うの?」
ネスカールの問いに、オズバンの目元が、ふっと和らいだ。「俺の両親は魔法使いだった。俺自身には、魔法の才能はなかったがな。俺が学院の仕事を引き受けるのは、主にそれが理由さ」
その言葉を聞いて、ネスカールは、もう一度村人たちのほうを振り返った。
村人たちの端っこで、エウトロが沈んだ表情で、こちらを見ていた。ネスカールのものと似た、荒い毛織りの服。整えられていない、ぼさぼさの黒髪。小柄で、やせていて、吹けば飛ぶような儚さを持った少女。
今更のように、ネスカールの胸に不安がよぎった。本当に、エウトロを残して行ってしまっていいのだろうか? 自分がいなくなれば、彼女の味方は、それこそ誰一人としていなくなってしまうのに。
たったひとりの味方。その味方に何ができる? 自分の心の中の、別の方向から声がする。魔女の娘と蔑まれた、小娘がひとり。今までだって、彼女の助けになんてなったこともないくせに。それどころか、おまえが近くにいるせいで、ますますあの子は蔑まれている。そうじゃないか?
「さあ」
オズバンの声がする。「行くぞ」
「ちょっと待って」
大きく息を吸い込んで、ネスカールはエウトロを見つめた。
(エウトロ。聞こえる? わたしは、戻ってくるよ。ちゃんとした魔法使いになって、戻ってくるよ。だからそれまで……待っていて)
下を向いていたエウトロの顔が、はっと上げられた。心の声が届いたのか、それともただの偶然か。
ネスカールは顔を伏せた。そしてずっと地面を向いたまま、オズバンに連れられて、待ちくたびれたように尻尾を揺らしている竜の方へと歩き始めた。