竜印の持ち主
村にいた頃、春先になるとよく釣りをした。
クロシマサケの群が、産卵のために川を上ってくるのだ。通常のサケよりずっと小さいけれど、卵を腹に抱えた身は柔らかく、かすかに甘くて、うまい。
エサは、羽虫を捕まえて使った。糸の先にくくりつけて、渓流に投げ入れる。しばらく待てば結果がでる。食いつかれなければ、またやりなおしだ。
たまに根がかりで、餌を失うこともある。困るのは流木にからまったときだ。小さなものでも、こちらが引きずられてしまう。取られまいと踏ん張るうちに、川に引きずり込まれることも稀にあった。
そして今、そうやって引きずられる気持ちになっていた。
どういうわけか、ネスカールの〈眼〉が身体から離れた瞬間、すぐ近くの城壁の中へ……学院内部へと引きずられ、そこに居着いてしまった。
どこで手順を間違ったのだろう。学院の人気のない廊下を、ネスカールの〈眼〉はさまよった。学生も教導師も、とっくに眠りについているのだろう。見かけたのは、なにを探しているのか、ランタンをかかげ廊下を歩く、例の年老いた掃除婦だけだった。
そうしているうち、どこからか声が聞こえてきた。自分の名前を呼んでいた。そこに引かれて進むと、いつのまにかネスカールは、〈塔〉の中にいた。
燭台は赤々と燃え、塔の中は夜中と思えないほどに明るかった。そこでふたりの男女が……どこか寒々しい声で、言葉を交わしていた。
「それで結局、あなたはネスカールのことを、どう捉えるのです」
そう問いかけたのは、学院長だった。背筋をぴんと延ばし、いつものように髪を高くまとめ、紫のローブをしっかりとまとった姿で。「私としては、あなたに彼女の教育係となってほしかった」
「私は教導師ではありませんよ。その資格はないし、そもそも本当に、それが彼女に必要なことでしょうか?」
テーブルの上に本を広げ、そこに視線を落としたまま答えたのは、マハード太子だった。黄金の川のような髪の毛をかきあげ、右目に片眼鏡を当てて、本の紙面に視線を落としている。
学院長は表情を変えず、しかしどこか苛立った口調で、こう言った。「私はあなたから答えを得られると期待していました。なんといってもあなたは、ここの塔守であられますから」
「答えを出すのは〈塔〉であって、私ではない。あなたもご存じの通りだ。それに、どうも答えは、最初から彼女の中にあるような気がしないでもないのです。
私が彼女を教えて、どのようになると思ったのです? そもそもなぜ、彼女にそこまで気を使うか、どうもそこがよく分からない。なんと言っても彼女は、ただの一回生にすぎないんですよ。いくらか素質を持っているといってもね」
「あなたにも、分からないことがあるとは望外でございますわね」
珍しく、学院長の声には皮肉があった。「〈塔〉もそのことについては教えて下さらない?」
「〈塔〉はいつでもだんまりです。その方が静かでいいですが。なにしろ動くとなると色々とやかましいので。ですから、むしろ教えて貰いたいくらいです。どうしてそこまで彼女のことを? わざわざ姪子さんを使ってまで、彼女の身辺を探ろうというのは?」
学院長の顔に、爪をはがされたような痛みがよぎった。「無理強いしたつもりはありません。確かに、あの子にそれとなく促したことは認めますが」
「姪子さんはね、だいぶ傷ついておられますよ。なんといっても彼女は正直なたちだし、同室の子のスパイみたいな真似事をするようにできていない」
「あの子には悪いことをしました」
学院長の声がかすれていた。「ですが、ネスカールは、エイルロードの娘です。万が一にも、彼女が──」
「母親と同じく〈竜印〉の持ち主だったとしたら?」
マハードは笑い声を漏らした。「ありえませんよ。竜の言葉が分かる人間なら、そう珍しくもない。しかし竜になれるというのは……」
「本当に、そうなのですか?」
学院長の声が鋭くなった。「なんといっても、あなたの一族は──」
「私の一族は、もはや〈竜印〉を持ちません。失った、といってもいい。そうでなければ、我々が帝国を追い出されずにいることは難しかったでしょう。もちろんそれを、エイルロードが知っていたかどうかまでは、分かりかねますが。
お話は以上ですか? では、そろそろ失礼いたします。就寝の時間なので」
唐突に話題を打ち切られて、学院長が少なからず気分を害したとしても、それを表に出すことはなかった。学院長は無言で小さく一礼し、その場をあとにした。
……そして、彼女と入れ替わるように、視界にもうひとり誰かが入ってきた。見知った顔だった。
「あまり立ち聞きして楽しい話じゃなかったな」
フーリエは言った。「どう思う? 君はあの学院長の言葉を」
「どうとも」
マハードの言葉は簡潔だった。「ひとりの生徒に肩入れするのは、学院長としてふさわしい行動ではない、ということだけ」
「君が、特定の誰かと親しくするのがふさわしくないように、かい?」
フーリエの声には皮肉があった。「君も、少なからずあの子には興味を抱いているように見えるけど」
「興味がないとは言わない。だからといって、彼女を特別扱いするのは間違いだ」
ようやく本から顔を上げて、彼は少し離れたところに立つフーリエに言った。「あの子は、ここに来なくなったね」
「ぼくと一緒に、さぼってるからね」
フーリエは肩をすくめた。「それとも、ぼくから何か言っておこうか?」
「いや、その必要はない」
本を閉じて、マハードは席を立った。両手で本を脇の下にかかえ、「私は本当に寝るよ。君も部屋に戻りなさい。もう〈塔〉の外は真夜中だよ」
「そうだな」
苦笑いを浮かべて、フーリエは首をふった。「久々に話せて楽しかった。ではまた」
「私もだ」
視線を合わせることなく、マハードはそう言ったのだが、たぶん耳にしたのはネスカールだけだったろう。とても小さい声だったから
意識が急速に引き戻され、目の前の光景がちぎれて消えた。
*
「で、どうだった?」
人影がこちらを見下ろし、結果を求めた。
陣の中で大の字になっていたネスカールは、月と星空と人影を見上げ、言葉をひねりだした。「ぜんぜんダメだった」
「だろうな」
人影の答えはそっけなく、失望も怒りも憤りも感じられなかった。「お前の魔力の使い方は滅茶苦茶だな。ただの一時も集中していない。焼けた鉄の上で踊る鼠を見るようだ」
「そうかな」
自覚はあったので、強く否定できなかった。ネスカールは身を起こし、胸に手を当てた。心の臓が強く鼓動を打っていた。顔に血が上っているのも分かる。いったい、自分は何を聞いていたんだろう? 混乱し、そして動揺していた。
「お前に残されているのはあと六日だ」
親切にも、人影が思い出させてくれた。「急ぐのだな。その軽薄な魂を少しでも惜しいと思うのなら」
その言葉を残して、人影は消えた。背骨に刺さったとげのようなものが消えて、一時的にも身体は軽くなったが、心は重いままだった。月の位置がだいぶ傾いている。夜が明ける前に戻らなければ。
両手で、顔を覆った。いったい自分がどうなるのか。どうすればいいのか。何をしたいのかさえ分からず、低いうめき声をあげて彼女はその場にうずくまった。