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魔法使いの娘  作者: 青井するめ
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地獄の王


 熱い湯に身を沈めて、ネスカールはこわばった身をほぐした。たらいに張った湯の量は少なく、裸の肩にかけていくうちにたちまち冷めていった。浴場は寮の二階、一番奥まったところにあって、誰でも使ってよいことになっていた。ただし湯を沸かす施設はなく、自分の魔法の力だけが求められる。だからいつまで立っても魔法に修練できない新入生は、悲惨にも行水だけですますことになる。水は、屋上近くにある雨水槽から降りてくる。このあたりは雨の多い地域ではないけれど、実習として学生が年中雨雲を呼ぶので、滅多に涸れたことはなかった。

「娘よ、のんきに湯浴みなどしていてよいのか」

 首の後ろから、肌を焼くような熱い吐息を感じた。「おれは期限を区切った。一週間だ。そのことを忘れるなよ」

「延長を申請したいのだけれど」

「それはおまえの働き次第だ。せいぜいがんばるがいい」

 熱い吐息は消えて、寒気だけが残った。すっかりぬるくなったお湯を首筋にかけて、ネスカールは湯船から腰を上げた。


 眠れるとは思わなかったので、ネスカールはロビーに降りて、暖炉前のソファに腰を下ろした。

 暖炉の中の火蜥蜴は睡眠中で、黒い熾のような身体から、鈍い熱を放っているだけだった。それを見つめながら、ネスカールは自分の身に何が起こったのか、改めて反芻した。あの炎は、この火蜥蜴と同じく人界のものではなく、原初から来る炎だった。


 *


「おれはアーブランナンスランカイル。地獄の王だ」

 そう言って人影は、ネスカールを見下ろした。「おまえの名を聞こう」

「あたしは……あたしは、ネスカール」

 答えてしまってから、いよいよのっぴきならない事態に自分が立たされたことを否応なしに知った。魔界の住人に名を知られるということは、魂を奪われたのと同じこと。自分の底抜けの間抜けさに、もはや驚くことしかできず、ただ呆然とそこに立ち尽くすしかなかった。

「ネスカール。つまらぬ名だ。おれに何のようだ?」

「あの……あの……あたしは、インプを呼び出そうとして、というか、そのつもりだったんだけど」

 人影の視線が……その額にある割れ目が眼だとして……ネスカールの持つ魔法書に向いた。人影は笑い声をあげた。「インプを召喚する契約の呪言は、とっくの昔に失効している。知らんのか?」

「え?」

「こちらの暦ではどのくらいだか知らんが、最低でも百年は経っておろう。召喚はあくまで相互契約だ。契約が切れれば働かぬ。近頃の魔法使いは、そんなことも知らんのか」

「えと……あの……」

 じゃあなんで、こんなことになっているのか。ネスカールの疑問を口に出すまでもなく、人影が答えてくれた。

「境界に穴があいたのも久々だから、つい見に来てしまったが、呼び手がこんな小娘とは。徒労だったな」

 人影は首を振った。「おい娘。用はないのか。ないなら、貴様の魂を貰って帰るが」

「まって。ちょっとまって」

 ネスカールは泣きそうになるのを堪えて言った。「あたしは、母さんのことを知りたかったの。居場所を教えて貰おうと」

「居場所? 貴様の母親?」

 人影は言った。「ふん、おやすいごようだ。では、先払いとして貴様の魂を頂くがいいかな」

「まって。お願いだからまって」

 ネスカールはその場にへたり込んでしまった。恐怖で体の芯までしびれて、何をしていいかわからなかった。

 人影は、呆れたようにため息をついた。「貴様の魂は、恐ろしく軽いな。人間が下側に降りてこなくなった理由がよく分かる。こんな魂では、原初の風に吹かれたらちぎれてなくなってしまう。娘、そのちっぽけな魂が惜しいか?」

「……」

「惜しいのか、と聞いている」

 泣くのを堪えるのが精一杯で、声も出せなかった。ネスカールは必死にうなずいた。

「なら、貴様はほかの魂を用意する必要がある。ちょうどいい。おれの失った魂のひとつが、まだ地上にあるはずだ」

 ぐい、と人影が首をもたげた。細い針のようなものが、頭のてっぺんからずぷりと身体に入り込み、それは腰のあたりまで降りてきて、そこで折り返し、首の後に留まった。そこから声が聞こえた。

「それを探し出せ。はやいうちにな」


 *


「……ネスカール? 起きなさい。あなた、大丈夫?」

 肩を揺すられている。

 ゆっくりと目を開けると、まず眩しいほどの日差しが目をくらませた。とっさに片手で日差しを遮り、短く悲鳴を漏らした。頭の中心がしびれて、ここがどこなのかとっさに分からなかった。

 すぐ近くに、アーロッテの心配そうな顔があった。ここは……ロビーにある暖炉前のソファで、火蜥蜴はもうすっかり目を覚まして、自身を赤々と燃やしていた。どうやら自分は、考え込んだままソファで寝てしまったらしい。高い窓から差し込んだ光で、ロビーは明るく照らされている。

「ネスカール、こんなところで寝ていたら風邪を……」

 そう言いかけたアーロッテが、言葉を切った。「なんだか、顔色が悪いわ。もう風邪を引いたんじゃない?」

 ネスカールは答えず、顔をうつむけた。アーロッテの顔を見る気になれなかった。アーロッテの冷たい手が、額に当てられた。

「熱はないみたいだけど」アーロッテは言った。「もし具合が悪いのなら、先生を呼びましょうか」

「いい」

 アーロッテの手を振り払って、ネスカールは立ち上がった。「なんでもないと思う。ちょっと、部屋で休んでるから」

「でも……」

「いいってば!」

 自分の声に驚いて、ネスカールは身をこわばらせた。寮中に響きわたったのではないかと思われるほどの金切り声だった。顔が内側からじわりと熱くなるのをネスカールは感じていた。

 もうアーロッテの顔を見る気になれなかった。顔を伏せたまま、ネスカールは足早にその場を立ち去った。


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