召喚術
終わる頃には、またしても右腕があがらなくなっていた。
「そろそろ日が暮れるな」
フーリエが言った。「今日はこれまでにしようか」
ネスカールは息を切らしてうなずいた。言葉も出てこなかった。落ち葉のつもった地面にへたりこみ、しばらくは呼吸を整えることに費やした。
「大げさだなあ」
フーリエは呆れていた。「体を動かすのが苦手な魔法使いは多いけれど、君は格別だよ」
そんなこと言ったって、と反論したい気分だったが、激しい運動が得意ではないのは確かだった。昨日と同じく、木からつり下げた木片を突くことから始めたのだけれど、途中からふたりで木剣をもっての突き合いに変えた。するともうだめだった。矢継ぎ早に繰り出される剣先をさばくだけで精一杯だ。フーリエとは年齢差も、体の大きさの違いもあるけれど、向こうがことさら手加減しているのがわかるだけに、もどかしくも動かない自分の体を嘆くことしかできなかった。
「相手の先端を狙うんだ」
フーリエは繰り返し、そう言っていた。「つまり手だ。相手が剣を落とせば、あとは勝ったも同然だ。相手の急所、喉とか、胸とか、腹を狙うのは、その次にやることだ」
疲労困憊のネスカールは、ろくに聞いていなかった。生まれ故郷では、野山を歩くことは好きだったけれど、積極的に体を動かしたことはない。こうして懸念は現実のものとなった。自分などは、魔法の力がなければ、何もできない子供だ。
「寮に戻ったら湯を使って、手足をほぐしておくこと」
へばっているネスカールを見下ろし、フーリエが言った。「そのうえで快復の呪を使っておくと、なおいい」
「ねえ」
うまく動かない指先をこすりながら、ネスカールは言った。「魔法の力って、どこからくるの?」
「君は基礎魔法論の講義も受けていないのか?」
ネスカールは首を振った。フーリエはうめいた。「たいていの魔法使いは、親から手ほどきを受ける際に教わる。僕のような係累に魔法使いのいないものは別だが……世の中にはマナの流れという、大きな根元の力がある。そこから、風を受けて風車を回すように、力を引き出すのが、我々のいう魔法使いだ」
「ふぅん」
「マナの流れは、場所によって異なる。だから国や地域が変われば、魔法のかかりかたも変わってくる。聞くところによれば、マナが一切流れない、不毛の地もあるそうだ。もちろん、そこでは、どんな魔法も働かない」
「……」
「今の時代は、前よりマナの流れ自体が悪くなっているという。古代のような大魔法使いが滅多にいないのは、それが理由だと。神々が去ることで、流れが大きく変わってしまったんじゃないかという説もある。実際のところはわからないけれど。それに古代は、平気で神々や地底の悪魔を呼び出して、好き勝手に力を使っていたとも言うしね。まさかとは思うが……」
フーリエの目が、樹の根本に置かれていた本に向いた。表紙の『初級召喚術』という字を隠すかのように、ネスカールはその本を持ち上げた。
「ありがとう。じゃあ、またあした」
*
そしてネスカールは、寮に戻らず、日が暮れるまで森の中にとどまった。
どこかでフクロウが鳴いていた。空の色が濃くなり、藍色から黒へと変わって、星々が冷え冷えとした光を投げかけていた。
ネスカールは綿入れにくるまり、堅いパンとチーズの切れ端をかじって、ひたすら待った。前よりも注意して身隠しの術を使っていた。自分を捜しに来る人間はいないだろうが、念には念を入れてだ。
月が中天に登り、傾いた笑い顔をさらし始めたころ、ようやくネスカールは立ち上がり、綿入れを取って、自分の熱で生暖かくなった『初級召喚術』を開いた。
内容はほとんど暗記していたけど、念のため逐一本と照らしあわせながらネスカールは儀式を始めた。木の枝で地面に陣を描く。錬金実験室からくすねてきた水銀をそこかしこに垂らす。香を焚き始めると、思った以上ににおいが強くて肝を冷やした。近くに誰もいなくても、このにおいが残ったらどうしよう。
ゆうに半刻近くかけて、ようやくにして陣が完成した。あとは呪文だ。
心の臓が胸の中で存在を主張していた。自分が何をやっているのか、正直なところ説明がつかなかった。これから行おうというのは召喚術のなかでも初歩の初歩、インプの召喚だった。限られた力しか持たなくても、第六階層の住人であり、術者の望みを叶えるのに十分な力はある。万が一、失敗したとして……どうなるのだろう。そのあたりは、ちゃんと読んでいなかった。
震える体を鎮めるために、深呼吸をした。そして呪文を唱え始めた。
なぜ、こんなことをしているのか……自分でも、うまく説明できない。頭に浮かぶのは、ただ顔も知らない母親のことばかりだ。母親は、何をしたのか。なぜ、したのか。そして……一番重要なこと。一番知りたいこと。
なぜ、母親は失敗したのか。
最後に、インプの真名を発して、その存在を縛った。陣がぼんやりと光り始めた。
いつ、手順を間違えたのかわからない。いいや、振り返ってみれば間違えてなどいなかった。間違ったのは、もっと大本、ことを始めた時点だったのだろう。
まずおかしいと思ったのは色だった。赤い。陣のそこかしこが、おき火のように光っていた。その光が中心に集まり、熱を発し始めた。熱い。そう思った瞬間、卵を握りつぶすように、そこから内側に空間が開いた。
ほんの一瞬、刹那の刹那、その向こう側が垣間見えた。どろどろに溶けた岩の海だった。炎が燃えてしまうほどに熱い空間。その中で原初の獣がうごめき、吐息一つで岩を蒸発させていた。
そして、空間が閉じたとき、そこには長身の人影があった。人間よりもずっと大きいが、人間よりずっと細い。山火事で焼け焦げた立ち枯れ木のようだ。しかしその内側は、炉の中のように熱い火があった。それが口をきいた。
「おれを呼んだのは誰だ?」
ネスカールは口も目も開いたまま、その人影を見上げていた。そして間抜けにもこう問うた。「あなたは誰?」
少しでも魔法の知識があれば、腹を抱えて笑うか、目をむいて怒るであろう愚行だった。誰であろうが、向こう側からやってきた『何者』かが自分の名を明かすはずがない。物事を知らぬ間抜けと見られるのが関の山だ。しかし相手は答えた。人影はこう言った。
「俺はアーブランナンスランカイル。地獄の王だ」