教練
「いったい、なにをやってきたの?」
呆れたようにアーロッテが言った。「泥だらけじゃない」
「ちょっとね」
両腕がしびれて、うまく上がらなかった。情けない思いを噛み締めて、ネスカールは自分の手を見下ろした。
あれから半刻ほど、フーリエとネスカールは、簡単な剣の練習を行ったのだ。木の枝から吊り下げた薪に木剣で突きを入れる。まるで子供の遊びだ、などと甘く見たのがよくなかった。たちまち息が上がり、しばらく木の根元に座って休まなければならなかった。フーリエは、剣の持ち方、構え方などを実演を交えて講釈してくれたが、正直なところほとんど頭に入っていない。残ったのは疲労だけといってよかった。こうして寮の部屋に戻ってきてからも、身体が石になったかのように重い。
顔を上げると、アーロッテが抱えているものが目に入った。
「取ってきてくれたの?」
アーロッテはうなずいた。それをベッドの脇のサイドテーブルにおいた。大判の本が四冊。
「いったい、この本を何に使うの」
アーロッテが不審そうに言った。「悪魔学大全。初級召喚術。魔神召喚の基礎知識。どれも一回生の使う本じゃないでしょう」
「だから、〈白の本〉にのってなかった。まだ謹慎期間中だし、図書館に行くのもよくないから」
古びた革の表紙を指先でなぞりながら、ネスカールは言った。「やっぱり応用召喚術はムリ?」
「あれは院生じゃないと借りられないわよ」
アーロッテは手を腰においた。声が少し尖っていた。「いったい、なにを考えてるの?」
「うん」
上の空で、ネスカールは答えた。「ちょっとね」
「ちょっとって……」
「色々考えてることがあって」
ネスカールは顔を上げた。とたんに、声以上に堅く尖ったアーロッテの表情を見て、思わず身をすくめた。目尻が赤くなり、口元にしわが寄るほど唇を噛みしめていた。
「……わたしは、あなたの味方のつもりだけど」
彼女の声は、壷からあふれる水のように張っていた。「同室のよしみもあるし、友達だと思っていたから。でも、あなたがそうじゃないなら……」
言葉を切って、アーロッテは顔を背けた。そのまま、部屋を出ていった。誰もいなくなった部屋で、ネスカールは閉じた扉をじっと見つめていた。日が暮れて、部屋が暗くなりつつあったが、ネスカールは身じろぎもしなかった。
*
『……そのころには、多くの魔法使いが魔を呼び出し、使役することを目指していた。魔法使い同士の戦いで、ほんの少しでも優位な立場に立つには、それしかなかったのだ。呼び出す悪魔の格によっては、戦う以前に勝負がつくこともあった。
しかしそれには多くの困難があった。多くの未熟な魔術師は、悪魔を使役することができず、魂を食われて地獄へと送り込まれた。かろうじて生き延びたものも、体の一部か、力の大半を失うのが常だった。それほどの困難と引き替えにしても、悪魔の力はあまりに魅力的だった。十二の大悪魔を使役し、封印したソルローンの業績を考えてみるがいい(別紙十四を参照せよ)。
だが時代は流れ、神々は彼方へと去り、悪魔を呼び出そうとする術師はやがてまれになった。魔法使いの時代は終わり、世界は鋼と蹄鉄の支配する世へと変わっていった。シーテッカの崩壊が、それにとどめをさした。もはや上級召還の術は失われ、そのような試み自体が行われなくなった。ごくまれに、力を得ようと魔の召還を試みたものは、いずれも手ひどい代償を払うこととなった……』
「何をしているんだ」
という声に驚いて、ネスカールは顔を上げた。
すぐそばに、フーリエが立っていた。いつものように片手に木剣を下げて。
ネスカールは、自分の体を見下ろした。森の中、フーリエが来るまでの間、倒木の上に腰掛け、借りてきた本を膝の上に置いて読み込んでいたのだった。
彼女は言った。「身隠しの術はかけておいたんだけど」
「そうだな。だけど君の技は完璧ってわけじゃない。ちゃんと意識を集中しておけば、僕にも破れるってことさ」
「そうかぁ」
ネスカールはつぶやいて、本を横に置いた。表紙をみたフーリエが、不審そうに言う。
「初級召喚術? 一回生が使う本じゃないだろう」
「うん。この学科、カリキュラムに無いんだね」
「召喚術の危険性を考えると、若い学生に教えるべきじゃないというのが今の大勢なのさ。三回生になれば基礎召還実習があるが、これも簡単なインプの呼び出しだけだ」
顔をしかめて、「噂によると、昔、学生が召喚術で大きな失敗をしたらしい。それが今も糸を引いてるって話だ」
それを聞いてネスカールは、下を向いてしまった。フーリエが首を傾げた。
「もしかして、君も聞いたことがあるのか」
「うん」
「君の母親が、その失敗の元凶で、それが追放処分を受ける原因だったという、あれ」
「そう」
「僕は眉唾だと思うけどな。噂なんて尾鰭がつくものだ。大エイルロードの追放理由は、いまだ公式発表がない。やっかみで好き勝手言ってる人間は多いだろうけどさ」
「そうかな」
ネスカールの声は、自然と小声になった。フーリエは、本当にそうした噂に疑念を抱いているようだった。そうはいっても、学院長が、真偽のあやふやな噂を口にするとは思えない。
フーリエは、ネスカールを見下ろして、若干じれたように言った。「それで? 今日はずっとそれを読んでいるだけなのかい?」
「いいえ」
ネスカールは立ち上がった。「じゃあ、今日も始めましょう」