心の中
その日の夕食も終わりに近づいた頃、不意にネスカールがすぐ近くに現れて、アーロッテを驚かせた。
食堂は広く、明るいとはいえなくて、人の顔を遠くから見分けるのは困難だ。長いひとつのテーブルは、なぜだかいくつもに枝分かれて、まるで鏡の迷路の中のように、つながったり途切れたりしながら、どこまでも続いていく。それらのテーブルで、学生たちは明るく会話しながら食事を楽しんでいる。
アーロッテはひとりだった。食欲がわかず、ゆっくりとスープを口に運んでいるうちに、広いテーブルの一端を、ひとりで占領していた。だから唐突に、となりの椅子を引いてネスカールがそこに座ったとき、思わず驚きの声を上げてしまった。
「ごめん」
彼女は言った。「ここ、いい?」
「ネスカール」
アーロッテは問いかけた。「あなた、どうだったの?」
「どうだったって?」
不審そうに、問い返してきた。アーロッテは唖然として、しばし言葉を失った。
そこでようやく、自分が何を聞かれたのか思い至ったのか、あやふやに視線をさまよわせながらネスカールは、「ああ、塔のことね。うん、よく分からない」
「分からないって……」
「簡単に結果が出てくるものじゃないみたい。しばらく、あそこに通ってみる。どうなるかは分からないけど」
そこでネスカールは頭を下げて、「そういえば、心配してくれたんだよね。わたしのこと」
「え」
「ごめん、その、どうするべきか分からなくって、うん」
ネスカールは口ごもった。「あまり、余裕がなかったものだから。ごめんなさい。えと、感謝してるから」
言葉はだんだん小声になって、ついには途切れた。うつむけられたネスカールの顔は、うっすらと赤らんでいた。
胸がいっぱいになって、なんと返すべきか分からなかった。何も言えず言葉がつまり、どうにかして引っ張りだしたのは、
「別にいいよ。友達じゃない」
という言葉だった。のどの奥が乾いて、どうしてか汗をかいている自分に気づいた。
「ありがとう」
そういって彼女は、アーロッテの手を握った。小さくて冷たい手だった。「それで、ええと、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「あそこにいる人、知らないかな?」
体をよじって、後ろの方を指さしている。アーロッテは振り向いた。
少し離れたところに、背の高い学生と、教導師が並んで立っている。ひとりはアインハイルだったし、背の高いほうにも見覚えがある。「あの人がどうかしたの?」
「なんだか気になって」
思わず、アーロッテはまじまじとネスカールを見つめていた。「気になった?」
「うまく言えないけれど」
「そう」
どういう意味かは後回しにすることにして、とりあえずアーロッテは、自分の知っていることを述べた。
「あの人は特待生よ。何年か前の」
「とくたいせい?」
「この魔法の学院には、いろいろと世間的な事情があるの。政治的にね。あの人は、確か北アーカイルの王族よ。フーリエって名前」
「へえ」
「本来なら、学院は魔法の素質をあるものを集め、教育して、言葉を変えれば管理しているわけ。でも、魔法の素質以外の、政治的要因で入ってくる生徒もいる。
魔法使いというのは、世の中から少なからず白い目で見られているから、魔法使い以外が入ることが、少なからず重要だと思われているのよ」
「あのひと、授業をさぼってた」
横目でフーリエを見やりながら、ネスカールは言った。「そういうことなのか」
「もしかしてお仲間と思ったわけ?」
アーロッテは苦笑した。「広い意味ではそうかもね」
「うん」
それだけ言うと、ネスカールは立ち上がった。「ありがとう」
そう言い残して、次の瞬間にはネスカールは姿を消していた。唖然として、アーロッテはネスカールのいた空間を見つめていた。
訳が分からないのは、あの子の力じゃなくて、心の中かも。
アーロッテはそう思った。
*
何日かにわたって、ネスカールは〈塔〉に通いつめた。
マハードの姿を見かけることも、見かけないこともあった。どちらかといえばネスカールは、彼のことを避けていた。何を話していいか分からなかったからだ。
それ以上に分からないのは、この〈塔〉の中だった。
以前に来たときのように本から声が聞こえることは、二度となかった。いや、声は聞こえるが、その意味が分からないのだ。話しかけられるのは耳慣れない音で、さながら外国語だった。時には、言葉ではなく雅な音階や、全くの雑音のようにさえ聞こえることもあった。
〈塔〉の中は、時間の流れもあやふやで、入るときと出るときの時間が一致しなかった。出る時間によって、夕方だったり、朝だったり、深夜だったりするのだ。結果として、いつ食事と睡眠をとればいいのか分からず、ネスカールは寝不足になった。
だからその日、気が立っていたことは間違いない。太陽は真上に近い位置にあった。日差しは冷たく、空気は凍って、そよとも動かなかった。しなびた形の雲が白っぽい空に散らばっていた。
そして、屋上から〈塔〉に向かう細い橋で、チャンドラを見かけた。
赤い髪の少女は、〈塔〉の扉の前で、錠前と取り組んでいた。学院の扉はだいたい魔法がかけられているが、この扉もそうだった。しかもきわめて奇妙な形をしていて、開錠の呪文がうまくかからないのだ。
だからチャンドラは、うめきながら扉を押したり引いたりしているが、いっこうに開く様子はなかった。
「まったくもう!」
呆れたように彼女は言って、扉から手を離した。
ネスカールは話しかけた。「あの」
鞭で打たれたように、チャンドラは飛び上がった。飛び上がった拍子に扉に頭をぶつけた。
慌てたネスカールは駆け寄った。「大丈夫?」
チャンドラは何も言わなかった。憤然とした表情で、肩でネスカールを押し退けて、通路を戻り始めた。
が、そこで足を止めた。なんとしても、彼女としては、言わなければならないことがあるようだった。振り返ったチャンドラの表情は、その髪の毛に劣らぬほど真っ赤だった。「なんで、あんたなの?」
「はあ?」
ネスカールは問い返した。相手が何を言っているのか、まるで分からなかった。分かるのは、彼女が全身から放出している、怒りや、憤りや、哀しみだ。
「マハード様にお会いになったそうね」
彼女は言った。「この学院のプリンスなのに。滅多に人とお会いにならないのに。……本当に、素質のある人にしか会わないと言われているのに」
チャンドラの声は掠れ、目の端には涙が浮かんでいた。「なんで、あんたばっかり? エイルロードの娘だから? 学院長があんたを贔屓するのはまだ分かる。だからって、こんな……あんな、禁忌を犯して追放された魔法使いの娘なんかを」
「ちょっと待って」
身を乗り出し、ネスカールは遮った。「禁忌を犯して追放? わたしのお母さんが?」
「とぼけるんじゃないわ!」
喉にかかった声で、チャンドラは叫んだ。「あんたの母親は、封印された十一の大悪魔を解放し、使役しようとして失敗した。そして命辛々、学院から逃げ出したのよ。学院長がそれを止めていなければ大変なことになっていたわ。誰もが恐れて口には出さないけれど、あんたの母親はとんでもない大悪党よ。そしてあんたは……」
「本当?」
チャンドラが息をのみ、顔をひきつらせた。
無意識のうちに、ネスカールは一歩踏みだし、相手の腕を掴んでいた。毛織りの柔らかいローブの内側に、相手の細い腕を感じる。そのさらに内側に、流れる血流、そして魔力の流れを。
「本当の話なの? 嘘じゃないんだね?」
「な、な、なに……」
じっと目をのぞき込むと、その琥珀色の目の内側に、恐れと、憤りと、様々な感情が渦巻いているのが見え、そしてその気になればそれらを押し退け、ずっと中に入り込んでいけることを知った。
だからそうした。