食堂
学院の食事の時間は決まっている。朝の三刻と、夕の四刻。数百人以上の学院生の胃袋を満たすため、厨房には、魔法のかかった鍋や釜がいつでも食材を煮立てていた。そして、太った巨人のコック、給仕や配膳を行う銅のゴーレム、そして目に見えぬ妖精たちが、料理を仕上げ、学生たちに運ぶのだ。
だからネスカールは、彼らとまず親しくなる必要があった。食事の時間に食堂に現れない彼女は、鍋底の残りや、食材の切れ端でも恵んでもらおうと、しばしば厨房を訪れていた。
その日、夕方というには少し早い時間帯で、もちろん食堂にはまだ誰もおらず、厨房の中は煮えたぎる釜そのものだった。ネスカールが顔を出すと、いつものように悠然と動く巨人のコックが、狭い厨房を行ったりきたりしていた。
ネスカールは手近な皿を取って、無言でコックに差し出した。
コックは、いつものように何も言わなかった。口が聞けないのか、単に無口なだけか。一応、学生ひとりの無心に応えるくらいの心はあるようだった。彼は指先でおたまを摘んで、大鍋からシチューを皿に分けてくれた。ネスカールは小声で礼を言った。巨人はこちらを向きもしなかった。
厨房を去ると、なぜかいつも背後で妖精たちが笑うのだが、その意味は分からない。自分が致命的な厄介ものになっていなければいいと、願ってはいるのだが。
端の見えないほどに長い食堂のテーブルに、珍しくも先客がいた。灰色の髪の学生が、無言で腰を下ろしていた。ほかにこの食堂にいるのは、冷たく青い石床にモップをかけている、年老いた掃除婦だけだ。この掃除婦は、学院のどこでも見かける。いったい何歳なのか、いつからこうして学院にいるのか、誰も知らないという。
学生は気だるげに肘をつき、目の前に置かれた陶器のコップに視線を落としていた。年は、ネスカールよりだいぶ上だろう。すらりとした長身の女性だった。髪の毛は短く、耳の上あたりで切られている。着ている胴着は上等ななめし革で、毛皮の縁取りがついている。相当な高級品だと、一目で分かった。
ネスカールが立ち止まると、学生が顔を上げ、視線があった。ネスカールはしばし迷った末、向かいの席に腰を下ろした。
学生は言った。「珍しいこともあるもんだ。ウルルグが飯を分けてくれるなんて」
「あなたこそ」
ネスカールは言った。「なんでこんな時間に? 授業には出なくていいの?」
「君のほうこそ。一回生だろう? こんな時期から、さぼっているようじゃ……」
と、ここで言葉を切って、「もしかして、君があれか。噂に聞く大エイルロードの娘か。これはこれは」
ネスカールは、無言でシチューを口に運んだ。
相手は続けた。「僕は高等科だけど、話はこっちにも届いているよ。サッカーノ師の授業を台無しにしたとか、半月で前期授業のカリキュラムを完全に修了したとか。あるいは教導師とうまくいかず寮に閉じこもっているだけだとか」
すっと身を乗り出して、こちらの目をのぞき込んでくる。「こうして見てると、ただの一回生にしか見えないな。どうだい。折角だから僕に見せてくれないか。大エイルロードの直系、受け継がれたというその力を」
ネスカールは無言のまま、シチューの皿を空けた。そして指先で相手のコップをつつき、言った。「質問に答えてないわ。授業に出なくていいの? というか、せめて食事の時間くらい他の人とあわせればいいのに」
途端、コップからは小麦色のエールが溢れ出て、テーブルの上を濡らした。相手は大声を上げ、椅子から立ち上がった。顔色は蒼白だった。
「なんだ? どうやったんだ?」
「どうやったんだろう」
小声で、ネスカールは呟いた。自分の力を理論的に系統付けて利用することが、まだできていないことをネスカールは自覚していた。今だって、エールではなく牛乳を出すつもりだったのだ。
ネスカールは手を伸ばしてコップを取り、自分で出したエールを飲んだ。生ぬるく、酸味が強くて、あまりうまいとはいえない。自分の術にぴったりだ、などとネスカールは自嘲した。
「魔法で飲食物を呼び出すなんて、修士クラスでも難しいのに」
灰色髪の学生は、ぶつぶつと呟きながら、再び椅子に腰をおろした。「もしかすると、本物なのか? ただの噂じゃなくって?」
「どんな噂なのかは知らないんだけど」
ネスカールは文句を言った。「それで、あなたはなんで授業に出ないの?」
「ああ、それは」
相手は笑顔だったが、一瞬その端正な顔に、舌を切られたような痛みがよぎったのをネスカールは見た。「必要がないからね」
「ない? どうして」
「君には分からないよ」
相手はそう言って、また腰を上げた。「分かるはずがない」
あとは何も言わなかった。ネスカールに背を向け、相手は去っていった。
その後ろ姿だけでも、多くのことが読みとれたし、心の襞の厚さや、その色だって、ネスカールには分かったのだ。その気になれば、相手の心の内をさらけ出させて、このテーブルの上に並べることだって、できたかもしれない。
でも、そんなことはやりたくなかった。