求めているもの
マハードは紅色の茶をすすっていた。
薄い陶器の器を口元に運び、立ちのぼる香気を楽しみながら。ネスカールは組んだ両手を膝のあいだに挟んで、言葉もなく目の前におかれた杯を見下ろしていた。叔母も似たような茶を煎じて飲むことを好んでいたが、あまりネスカールは、この苦い液体が好きになれなかった。そうでなくても、この状況で口にするものがおいしく味わえるとは思えなかった。
大きなテーブルを挟んで、並べられた椅子にすわり、ふたりは向き合っていた。本棚に囲まれたこの部屋は、どうにも息苦しく、ネスカールとしては逃げ出したいという思いを押さえつけるので精一杯だった。
「あの」
ネスカールが口を開くと、マハードはわずかに視線をあげ、その深い藍色の瞳がネスカールを見つめた。口の中が干上がった。「あの」
「なんだね」
「わたしは、ここで何をすればいいんですか」
「ここというのは、塔のことかい。それとも学院かい」
答えられなかった。マハードは紅茶を飲み干し、言葉を継いだ。「塔の中で、何かをすべきということはないよ。何もしなくていい。ただ塔の中にいればいい。そのうち、塔がすることを選んでくれる」
「そうなんですか?」
「君が望むならね。学院はひどく古く、独自の意志というものを持っている。だが、それを人が理解することは困難だ」
マハードは天井を見上げ、しばし言葉を切った。「それでも、だいたいのところは、学院は学生を導いてくれる。答えを見つけてくれる。いつもそうなるわけじゃないが。とはいえ、どんなことだってそうだろう? この塔は、学院でもどうやら頭に近い場所にあるから……」
「うまくいかなかったら、追い出されますか」
相手の言葉を遮っていた。口に出してから、赤面して、ネスカールは顔をうつむけた。マハードと視線が合わせられなかった。
彼は言った。「君が恐れているのは、学院から追い出されることか。それとも閉じこめられることか。どっちだい?」
ネスカールは黙っていた。答えられなかった。
マハードが、ゆっくりと肯くのが見えた。「分からないのなら、それでもいい。そのうち見つかるはずだから。まずは、塔で過ごすことを覚えなさい。本ならいくらでもある。退屈はしないだろう」
マハードは椅子を引いて立ち上がった。ネスカールは唇を噛み、こう問いかけていた。「あの、あなたは、どうして……ここにいるんですか」
すぐに答えが返ってこなかったので、ネスカールは身を縮めた。自分の体を、粉々に砕きたくなった。マハードは、ゆっくりと低い声で言った。「塔が、それを望んだからだ。誰もそれを否とは言わなかった。もちろん、僕もね」
マハードは去り、ひとりネスカールは残された。
巨大なテーブル。巨大な本棚。じりじりと燃える燭台。ネスカールは立ち上がったが、どこへいけばいいのか分からなかった。痛切に、家に戻りたい、あの村の森の中を歩きたい。そう思った。
すると森の中にいた。冬が近づき、落ち葉が土を隠していた。裸になった木々は、石のような灰色だった。その向こうに、半分埋まった自分の家が見えた。傾いた煙突から煙が吹き出し、腕も通らない小さな窓の向こうに、暖かい明かりが見えた。
息を呑んだ。違う、とネスカールは思った。ここは帰るべきところじゃなく、向かうべきところでもない。
さっと森の風景が掻き消えた。ネスカールは再び、塔の部屋の中に立っていた。本棚に囲まれて。
背中を、じんわりと汗が伝っていた。いまのは幻影なのだろうか。塔が見せてくれたのか。それとも? 分からなかった。不安だけがいや増し、ネスカールはテーブルの隙間をぬって、どこかへと向かおうとした。正面には、ここに入るときに通った青銅の扉が見える。このまま帰ってしまおうか。何も得られず。何も得ようとせず。分からなかった。何をしたいのか。何を知りたいのか。
方向を変えると、目の前にあるのはどこまでも続く本棚の谷間だ。
革の背表紙が、びっしりと並んでいる。大きさはまちまちだが、これらの本に書かれた文字の量は、いったいどれくらいになるのだろう。そういえば、学生に課せられた授業のひとつに写本がある。これらの本も、そうして学生たちがひとつひとつ書き写してきた労力の結果なのだろうか。
背表紙の金文字が、語りかけてきた。
『家族のことをご存じ?』
ネスカールは目をそらした。すると別の本が目に入る。
『魔法とは何か?』
『どうして、魔法を使えるものとそうでないものがいるのか』
『魔法使いの歴史について』
『受け継がれる魔法の家系』
『魔神と魔法。召喚術』
「ちょっと」
ネスカールはうめいた。無遠慮に、頭の中に文字が押し入ってくる。まさかとは思ったが、ここにある全ての本がそうなのか。意識を集中して、言葉を閉め出す。すると、そうすることでより本を選びやすくなった。
『エイルロード。追放処分を受けた優秀なる魔法使い』
その背表紙を見つけた瞬間、息が止まった。自分の求めているものが、確かにそこにあった。まるで誂えたかのように、ネスカールの真ん前、目の高さにその背表紙はあった。
これがそうなのか? マハードは、知るべきことがここにあると言った。自分の力と、不明の行く末と、見知らぬ母へと行き着く答え。これがそうなのか?
そっと手を伸ばした。背表紙は冷たく乾き、手の中で崩れていくかに見えた。そしてネスカールは、ゆっくりと手を引いた。
結局、空手のままで。
ネスカールはきびすを返して、どこへともなく歩み去った。知りたいと思う以上に、知ることが恐ろしかった。気がつけば、あの青銅の扉の前にいた。手を触れるまでもなく、扉が開いて、灰色に曇った空がネスカールを出迎えた。
結局、その日ネスカールに分かったのは、そのことだけだった。