学院からの使者
1
本当に魔法使いだったらいいのに、と何度思ったことか。
道の向かいから歩いてくる男たちをみて、メスカールはそう思った。男たちは領主の息子で、狩りから戻ったところなのだろう、小振りの鹿を背に担いでいた。男たちはメスカールを見てぎょっとした表情で立ち止まり、素早くささやき声をかわした。
小声だったが、あいにく風の精がそれをこちらの耳に届けてくれた。「あの魔女の娘だ。なんでここにいるんだ?」
なんでもなにも、この森は領主も持ち物じゃない。誰がここにいたって問題はないはずだ。
村からは1ダルーほど離れている。ブレの木とケヤキが不揃いに生えた森だった。実質的に領主の一家が狩り場として使っている。村人たちが立ち入ることは禁じられていないにせよ、「事故」で矢を受けるか罠にかかることが後を絶たず、ほとんど誰も近寄ろうとしないのだった。
男たち……名前は忘れたが、領主の長男と次男だ……は、さきほどの嫌悪の表情を素早く取り繕うと、何事もなかったかのように、道をこちらに向かってきた。視線をあさっての方向に向けていることからして、こちらを完全に無視するつもりらしい。ネスカールとしてもそれはありがたかった。
狭い道でふたりとすれ違うとき、黙っているのにふたりの心の声までが聞こえてきた。
「忌々しいぜ。あの魔女の家もろとも消えてなくなればいいのに」
こっちこそ、とネスカールは思った。わたしが本当の魔法使いならば、おまえたちをこの世から消してやる。
迷信深い山奥の村で、魔女と呼ばれて生きることは容易ではない。ネスカールは孤児だった。両親はおらず、大叔母に引き取られて育てられた。魔女は、その大叔母だった。森の奥の小屋に住み、薬草を売り、ときおり、訪ねてくる村人に、所望のまじないをかけてやる。怪我や病気、発育の悪い家畜、そういったものにまじないをかけて、その見返りとして僅かながらの作物や、乾燥肉などを置いていく。普段は恐れ、蔑んでいるくせに、いざとなれば魔女を頼ってくる村人たちを、ネスカールは嫌っていた。
大叔母は、まじないに関しては何も教えてはくれなかった。だからネスカールは、風の精を呼んだり、小さな火をつけたりといった、簡単なまじないしか使えない。
本当の魔女だったら、とネスカールは思った。あの村人たちは恐れて、刃向かうことなどできるはずもないのに。
森を抜けると、広大な丘陵地帯がそこにあった。
こぶのような緑の丘が、どこまでも続いている。その先には、地平線にへばりつくようにして、雪を被った山脈がじぐざぐの峰を天に突きつけていた。空は晴れていたが、糸の固まりのような雲が青空のそこかしこを塞いでいた。日差しは暖かく、風は冷たかった。丈の短い草と、シロクサ、橙タンポポが風に吹かれて揺れていた。
その草原のただ中で、エウトロが草を摘んでいた。
エウトロはいつも通り、ぼさぼさの黒髪を無造作にくくり、粗末な毛織りの服を着て、一心に草を摘み、籐篭に入れていた。シロクサは水にさらして柔らかくし、糸をとることで縄の代わりになる。しかしどちらかといえば、休耕期に小作人がつとめる副業のようなものだ。領主の娘がわざわざ手を着ける仕事ではない。
「あ」
こちらの気配に気づいたか、エウトロが顔を上げた。
浅黒い肌に、栗色の目。真っ黒な髪といい、金髪碧眼の多いこのあたりでは珍しい。だからといってこの子が、”取り替え子”として蔑まれる理由となるだろうか。
「ネスカール。どうしてここが?」
「なんとなく。呼ばれた気がしたから」
そういってネスカールは、エウトロのもとに歩み寄った。こちらを見上げていたエウトロが、不意に顔を逸らした。だがその前に、目の下が赤くはれているのを、ネスカールは目にしていた。胸の奥に赤い熾のような怒りが立ち上がるのを、ネスカールは感じた。
「またあいつ等に叩かれたの?」
エウトロは無言で首を振った。
それが嘘であることは確かだったが、だからといってどうしようもなかった。山間の、迷信深い小さな村で、取り替え子の味方は皆無だった。強いていうならただひとり、魔女の娘のネスカールだけ。
魔法が使えたら、と改めて思った。ネスカールのできることといえば、人や風の声を読んだり、土や木々と会話したり、といった初歩的なまじないだけだ。
魔女の娘。でも違うわ。わたしの母親は遠い昔にどこかへ消えた。わたしを育ててくれたのは、母親の叔母、わたしにとっての大叔母だ。
「わたし、もう行くね」
シロクサを詰めた籐篭を背負って、エウトロはそう言った。
「手伝おうか?」
「いい」
エウトロは首を振って、「ありがとう。でも大丈夫」
こんなのいつものこと。言葉にしなかった心の声が、ネスカールには聞こえた。
ネスカールは奥歯を噛みしめた。村で唯一、友達といえるのが、このエウトロだった。取り替え子と魔女の娘。歳も近く、爪弾きにされたもの同士、というのがもちろんあるだろう。それでも時折、彼女もまたひどくよそよそしくなるのを、ネスカールは感じていた。
自分が魔女の娘だから。自分がこうして話しかけることで、ますますこの子が、家族や村人から忌避されるようになってる。
取り替え子が、また魔女の娘と一緒にいるよ……
近寄らんほうがいい。どんな呪いをかけられるか、わかったもんじゃない……
「ねえ、エウトロ」
ネスカールはそう声をかけたが、自分がなにを言いたいのかはよく分からないままだった。エウトロもまた、こちらを振り向こうともしなかった。
何をしてるんだろう……ネスカールは俯いて、奥歯を噛みしめるしかなかった。
そのとき、首の後ろで風が騒ぎ始めた。
「……えっ?」
珍しくせっぱ詰まった声だったので、エウトロも思わずこちらを向いた。ネスカールは両手を耳元につけて、声をかきあつめた。いつの間にかあたりには、大勢の風の精が集まって、なにやら空を指さしながら騒いでいた。
「竜ですって? そんな、冗談でしょ。こんなところに……」
というネスカールの言葉が終わるより早く、丘の向こうから熱を持った風が吹き付けてきた。顔を上げると、白々とした空に、赤い竜が舞っていた。
驚きのあまりしばらく放心していたらしい。気がついたときには、竜はほとんど真上にして、すさまじく熱い風がネスカールの顔を焼いた。悲鳴を上げたが、それは竜が空を駆る轟音にすべてかき消された。竜はふたたび上昇し、旋回して、その毒々しくも赤い翼を羽ばたかせ、こちらから10ヤードほど離れた丘にゆっくりと降りようとしていた。
むき出しの顔が熱い。やけどしたんじゃないか、と思ったくらいだが、肌はどうやら無事だった。竜の起こす風はそれほどまでに熱かったのだ。
ネスカールのすぐとなりで、エウトロが地面にへたりこんでいた。両手で耳を押さえ、目と口は、これ以上ないくらいまんまるに開かれていた。
丘の頂上に降りたその竜の背には、ひとりの男が乗っていた。竜と比べるとひどく小さく見えたが、それでも銀色の胸甲と兜をつけたその姿は、堂々として、ひょっとしたら竜よりも威圧的に見えた。
男が声を上げた。距離は少し離れていたが、風がその声をしっかりとネスカールに届けてくれた。
「エイルロードの娘、ネスカールだな」
と、その声は言っていた。
「貴女に話がある」
*
村から西に半リーグほど、森に分け入り、獣道のような細い道を通って行ったところに、粗末な小屋がある。
木々の狭間、坂の途中に、斜めに傾いて建っている。不揃いの石を積み上げた壁、荒くスレートをふいた屋根。どこも一面苔に覆われ、半ば以上は地面に埋もれて、森がちょっと腹を空かせて飲み込んだようにすら見える。それがネスカールの大叔母、エイジールの家であり、人々がおそれる魔女の住処でもある。
「どうしてわたしに黙ってたの」
開口一番、ネスカールはそう言った。
大叔母は顔を上げもしなかった。粗末な小さい木のテーブルに、大きな鉢と陶の小瓶を並べ、緑色のなにかしらを、鉢の中ですりつぶしている。
雪のような白髪を、頭の後ろでひっつめた、小柄な老婆。ネスカールが物心ついたころから、ずっと年老いていた。どこもかしこもしわくちゃで、冬中物陰で丹念に乾かした干しイチジクのよう。ぶあつい瞼の奥の空色の瞳だけが、唯一ネスカールと共通するものだった。
小さな小屋の中は、人が住むには狭すぎた。天井からは多くの干し物品が下がり、壁中に作られた木の棚に、数え切れないほどの小瓶や壷が並んでいる。わずかに残った床には汚れた絨毯が敷かれ、ネスカールはいつもそこで毛布にくるまって寝ているのだった。
「ねえ、答えて」
ネスカールは繰り返した。「わたしのお母さんのこと、黙っていたでしょう」
その言葉を聞いて、大叔母の手が止まった。首をかすかに動かしたが、それでも顔を上げずに、大叔母は言った。
「誰に聞いたんだい」
「村に竜が来たわ」
その言葉を聞いても、大叔母は何も言わなかった。苛立ちがこみ上げてきた。
「村にもそれを見た人がいて、少しずつ騒ぎになってるみたい。で、竜に乗ってきた人が言ったの。わたしをデオカリクの魔法学院に迎えに来たって」
老婆の動きが止まった。しわくちゃの顔がこちらを向き、ゆっくりと椅子を引いて、大叔母は立ち上がった。立ち上がっても、その頭はせいぜいネスカールの胸あたりにしかなかった。
「そうかい。結局やつらは、おまえのことを見つけたんだね」
「やつらって?」
その問いに答えず、大叔母は玄関の木戸を開き、外に出ていった。ネスカールは後を追った。
両手を腰の後ろで組んで、老婆は空を見上げていた。秋の日の日差しは、すでに傾きつつあった。空の青さが濃さを増していた。老婆は呟くように言った。
「おまえにそれを知らせたのは、何者だい」
「……ええと」
ネスカールはつっかえながら、「なんとかって国の竜騎兵。いつも先触れとして国に仕えてるんですって。こんな山奥に早馬を飛ばすのは難しいから、自分が雇われたって、そう言ってたわ」
懐から折り紙を取り出して、「それで、これをわたしに渡したの。正式な……ええと、入学許可証? ですって。明日また迎えに来るから、それまでに準備をしておけって」
ネスカールは息を吸い込んで、「お母さんは、その学院の魔法使いだったんですってね」
大叔母は答えなかった。無言で空を見ていた。
ネスカールは言葉を続けた。「すごく、優秀な魔法使いだったって……だからその娘も、学院に籍を置く権利がある、あるいは、そうしなければならない、って……」
「おまえは魔法使いについて、何を知っているんだね」
その問いもまたひどく唐突に感じられて、ネスカールには答えかねた。言葉に詰まっていると、
「そういうことは、何も言われなかったんだね」
「だって、わたしは何も教わっていないもの」
困惑と怒りが入り交じって、ネスカールの声を震わせた。「わたしが聞いても、何も教えてくれなかったじゃない。わたしのお母さんのこと、お父さんのこと。教えてくれたのは言葉くらい。わたしはどこで生まれて、どうしてここで育ったの? わたしは……わたしたちは魔女なの? この力は何なの? どうして……」
自分が何を言っているのかよく分からなくなって、ネスカールはまた言葉に詰まった。大叔母はじっと空を見上げていた。夕暮れが近づき、一番星が光り始めている。そういえば叔母は星読みもするのだった。
「デオカリクの学院は」
大叔母は言った。「この国の、いやこの大陸の、魔法使いたちの元締めさ。全ての魔法使いが、そこで学び、そこから巣立っていく。そこで学ばない魔法使いは”はぐれ”さ。本当の魔法使いとは認められない」
大叔母は続けて、「おまえの母親は、そこで学んだ。とても優秀で、いずれは比類なき大魔法使いになると言われたもんさ。しかしそうはならなかった。お前を産む少し前に、あの子は追放された。あいつらはあの子を、罪人か何かのように追い出したんだよ」
ネスカールは、一体なんと答えたらいいか分からず、しばし黙っていた。すると大叔母は、無言のまま小屋へ戻り始めた。
その後ろ姿に、ネスカールは問いかけた。「追放って? わたしのお母さんが、いったい何をしたって?」
大叔母は足を止めたが、振り向こうとしなかった。彼女は言った。「知らん。知ろうとも思わん。でも、そんな連中が、どの面下げて、その娘を囲おうってんだろうね」
大叔母が腰を曲げて、ゆっくりと小屋の扉をくぐるのを、ネスカールはじっと見つめていた。