【コミカライズ】恥を知れ
色とりどりの花が咲き乱れる王宮の庭園。その一角に、一組の男女が向かい合って座っている。
季節は春。穏やかな太陽の光が降り注ぎ、風に乗って草花の甘い香りが漂う。けれど、二人の座っているその一角だけが、この場にそぐわない異様な空気を放っていた。こうして向かい合ってから、既に三十分。どちらも全く、口を開こうとしない。微笑みかけることも、かといって目を逸らすこともしない。互いに無表情のまま、見つめ合っているだけだ。
「あっ……あの、お茶をお取替えしましょうか?」
焦れた侍女が、女性の方へと声を掛ける。氷の結晶のような色合いをした白銀の髪の毛に、今にも凍りそうな冷たい水を思わせる瞳。マーメイドラインの藍色のドレスが、スレンダーな身体に良く似合う。月の様に美しい女性だ。
けれど、この場だけ、空気が凍てつくように冷たい。折角淹れたお茶も、手つかずのまま、すっかり冷たくなってしまっていた。
「――――いえ、結構ですわ」
女性はそう言って、目の前のお茶を一気に飲み干した。優雅な所作に似合わぬ、思い切りの良い飲み方。男性は女性のことをじっと見つめると、何も言わぬまま、自身も同じようにお茶を飲み干した。
(さて、……これから、どうするべきか)
与えられたミッションは既にクリアした。即ち、目の前の令嬢――ルーナとお茶を飲むことだ。普段ならば、女性のためにこんな形で時間を割くなど考えられない。が、これは他ならぬ皇帝からの勅命だ。断ることなどできなかった。
「……陛下とエヴァ――皇妃様には、カーティス様の方から断りを入れてください」
その時、ルーナが抑揚のない声でそう言った。冷ややかで、聞いている人間の心を抉る声音。カーティスは密かに眉間に皺を寄せる。
「断り、とは?」
「わたくしたちの結婚についてですわ。嫌でございましょう? こんな、氷のような女と結婚するのは」
ルーナはそう言ってカーティスのことを見つめている。何の躊躇いもなく自分を蔑む彼女に、カーティスは返す言葉が見つからない。これまで彼に付き纏ってきた女性とは、全てが違って見えた。
「――――あなたもご存じの通り、俺たちの結婚は、陛下と皇妃様の意向によるものです。こうして一度お茶をご一緒した程度では、断ることは難しいでしょう」
しばらく迷った挙句、カーティスはそんなことを口にした。純然たる事実。そこには彼の感情は一切反映されていない。ルーナの感情に対する配慮も無かった。
「では、カーティス様の好きなように日程をご指定下さい。わたくしの方は、如何様にも都合が付けられます故」
そう言ってルーナはゆっくりと立ち上がる。どうにもこれ以上会話が続けられそうにない。潮時だと、互いに理解していた。軽く会釈を交わし、二人は別々の方向へと歩いていく。
(やはり、この結婚には無理がある)
カーティスは静かにため息を吐いた。
***
『カーティス、おまえは女性に対して冷たすぎる』
それは、カーティスとルーナの顔合わせの数日前のこと。
本人を目の前に、彼の主人――アーロン皇帝はキッパリとそう口にした。カーティス自身、自覚がなかったわけではないが、こうして誰かに言葉にされるのは初めてのことだ。聊か動揺が走った。
『しかし陛下、ああも言い寄られては仕事の邪魔です。鬱陶しい以外の何者でもない』
カーティスはその美しいかんばせを歪ませ、小さく首を横に振る。目を閉じれば、化粧で塗り固められた女性たちの笑みが、次から次へと浮かび上がる。白粉や香水の香りがどこまでも付き纏う。不快で堪らなかった。
『――――青いな。おまえがそんな風に頑なだから、彼女たちも引くに引けないんだ。適当に相手をしてやれば、多少は満足する』
アーロンは齢25歳にして、この帝国の覇者となった。対するカーティスは23歳。青いと言われるほどの年齢差はない。
『大体、そんなに鬱陶しいなら、さっさと誰かと結婚すれば良いのだ。そうすれば、あそこまでしつこく言い寄りはしない。おまえの夫人の座を狙っているからこそ、皆あそこまで目の色を変えて執着する。そうだろう、エヴァ?』
そう言ってアーロンは、自身の隣に控えるエヴァ――皇妃へと目配せをする。エヴァは困ったように微笑みつつも小さく頷く。カーティスからため息が漏れた。
『結婚? 家の中でまで誰かに付き纏われる? それこそ地獄じゃありませんか。興味のない話を延々と聞かされるこちらの身にもなっていただきたい』
『――――それだ。おまえは他人に対して興味が無さすぎる。少しは興味を持って相手のことを見て見ろ。そうすれば世界が変わる。
……大体、世の中、おまえの取り巻き連中のような女性ばかりではない。エヴァを見ろ。おまえの嫌うようなことは何もしないだろう』
『それは……皇妃様は聡明でいらっしゃるから』
カーティスは言葉を選びながら、そう口にした。
女性が皆、カーティスを慕うわけではないことは重々承知している。だが、ふとしたときに感じる、愛情を欲する眼差しや、媚びるような笑みのなんと多いこと。女性が皆、そうであると錯覚するのも致し方ない。
『とにかく、この俺の右腕が『冷徹補佐』であるのは困る。おまえの真面目さや能力の高さは買っているが、俺が目指しているのは血の通う政治だ。俺の理想に近づくための努力はしてほしい』
『――――――しかし』
一体どうやって変われというのだろう。正直言ってカーティスは、自分を慕うような女性と関わりたいとは思わない。彼が冷たい人間だと分かっていながら擦り寄ってくることは、カーティスの心には一欠けらも関心がないのと同義だ。女たちが欲しているのは、彼の美しい見てくれとステイタスだけ。そうと分かっていて心を開くことなど不可能だ。
『わたくしに一人、心当たりがいます』
すると、これまで傍らに控えていた皇妃エヴァがそっと身を乗り出した。
朗らかな笑みを浮かべた太陽のような女性で、美しく聡明だ。まだ18歳だが、妃としての矜持も持ち合わせており、アーロンとよく似合っている。
『しかし、皇妃様のお知り合いとなると……』
わざわざ『心当たりがある』と言うあたり、決してミーハーな女性ではないのだろう。けれど、底抜けに明るい女性が相手でも疲れてしまいそうだ。自分とのあまりの差に、苛立ちかねない。
『まずは会ってみてください。わたくし、二人はよくお似合いだと思いますわ』
ニコリと押しの強い笑みを浮かべながら、エヴァはカーティスを見つめる。こうまで言われて断れるわけもない。
そうして紹介された女性がルーナだった。
ルーナはエヴァの幼馴染らしく、由緒ある伯爵家の御令嬢だ。エヴァと同じ18歳で、その類まれな美貌にも関わらず、これまで誰との間にも結婚等の話は出ていない。カーティスは今日、その理由を身を以て知った。
(もしかして俺は、彼女に似ているのだろうか)
取り付く島もない冷たい雰囲気。まるで氷でできた精巧な人形のように美しく、声音からは体温を感じない。自分ではそこまでと思っていないものの、周りから言われる自身の印象とよく似通っている。
(……どうして彼女は、あんな風になったのだろう)
執務室へと戻りながら、カーティスはそんなことを考える。そして、自分がどうしてこんな風になったのか、その理由を初めて考えた。
けれど、明確な理由付けなどとても、できそうにない。自分は気づいたらこんな感じだった。楽しいと思っても表情筋が仕事をしないし、そもそも楽しいと思うことがあまりない。それは、自分に付きまとう女性が鬱陶しいから、とかそういうこととは別の話だ。そう思うと、少しばかりショックだった。
きっとエヴァは、似た者同士の二人を引き合わせることで、自分自身を見つめなおすキッカケを与えたかったのだろう。
(次回はもう少し、彼女の話を聞いてみよう)
カーティスは密かに、そう決意した。
***
二回目の逢瀬は、カーティスの屋敷で行われた。
若くして公爵位を継いだカーティスの屋敷は広大で、実に多くの使用人を抱えている。けれど、その内女性はかなり少なく、皆カーティスが子どもの頃から仕えていたベテランばかりだ。若い侍女を入れると、仕事に支障が出る、というのがその理由である。
「どうぞ、お嬢様」
侍女たちには予め、ルーナの印象を話しておいた。このため、彼女の凍てつくような視線にも一切動じることなく、にこやかにサロンへと案内してくれる。
「本当に綺麗なお嬢様ですわね、旦那様」
侍女頭であるポレットが、そっとカーティスへと耳打ちする。彼女はまるで、我が子を慈しむような眼差しでルーナのことを見つめていた。幼い頃、カーティスへも向けられていた眼差しだ。何だかむず痒くなって、カーティスはそっと視線を逸らした。
「あんな女性が奥方様になって下さったら、わたくしたちも張り合いがありますわ」
ポレットはそう言って笑う。ルーナはこちらを振り向くこともなく、凛と背筋を伸ばして座っていた。侍女の一人が彼女にお茶の好みを尋ねている。言葉少なに受け答えをしているのが見て取れた。
「――――――つまらなくはないか? 表情の変化に乏しくて」
それは、自分のことを尋ねるための問だった。何をしても、しなくても笑うことは無い。声も冷たく、自分たちの頑張りを労いもしない主人など、嫌ではないのか。すると、ポレットはクスクスと声を上げて笑った。
「まぁ、坊ちゃまったら……今までそんなこと、気にされたことがなかったのに」
どうやらポレットには、カーティスの意図などお見通しだったらしい。呼び方も旦那様から坊ちゃまに戻っている。カーティスはほんの数ミリだけ唇を尖らせた。
「乏しくとも、相手のことを知りたいと思えば、感情は読み取れるものですわ。そのためには、こちらが心を開くことが肝要です」
そう言ってポレットは、カーティスの背中をトンと押す。頑張れ、と言われているような気がする。振り返ると、穏やかで押しの強い笑みが目に入り、胸がくすぐったくなった。
***
そうして、カーティスとルーナの関係は少しずつ少しずつ、進んでいった。
最初は二人とも、何を話せば良いのか、どう答えれば良いのか分からなかった。けれど、元々口数の少ない二人だ。話したくないときは無理に話さなくても良いとルールを作って、それを実行している。
初めて会った時『この縁談を断る』と話していたルーナだったが、二回目以降の逢瀬では、一言もそのことについて言及しなくなった。
もしかするとあの後、皇妃エヴァの説得を受けたのかもしれない。アーロンから『結婚をして丸くなれ』と厳命を受けているカーティスとしても、そちらの方がありがたい。
ルーナは決して、自身を良く見せようとしない。ありのままを語り、ありのままを聞く。それがとても心地よい。見て、と強いられていないのに、自然と瞳がルーナを追う。結婚するならば、ルーナのような女性が良いと思い始めていた。
そんなある日のこと。
「こちらを、カーティス様にお渡ししたくて」
ルーナが手渡したのは、刺繍の施されたハンカチだった。三日月と雪の結晶が寄り添うように縫われたもので、繊細でとても美しい。カーティスは密かに息を呑んだ。
「これ、ルーナが?」
「ええ。ポレットと一緒に縫ったのです。カーティス様が喜ぶから、と」
カーティスが仕事で不在の時でも、ルーナは頻繁に公爵家を訪れるようになっていた。ポレットや他の侍女が、何くれとなく面倒をみたり、話し相手になってくれているらしい。飾り気のない彼女を着飾るのが楽しいのだと、ポレットは嬉しそうに話していた。きっと、そうした中で刺繍をすることになったのだろう。
「そうか」
カーティスは短く相槌を打った。相変わらずルーナは真顔で、明確な表情の変化は見て取れない。けれど、普段よりも瞬きの回数が多く、いつもよりも息が浅い。緊張しているのだろうか。そう思うと、何だか胸がむず痒くなった。
「ありがとう。大変だっただろう?」
もっと気の利いたことが言えれば良いのに、口を衝いたのはそんな言葉だった。ルーナはフルフルと首を横に振ると、そのままゆっくりと歩き続ける。――――いや、ほんの少し歩調が速くなっているし、唇が震えている。
「ルーナ」
カーティスはルーナに向かって手を伸ばした。指先が軽く触れ合う。とても温かい。互いの本当の温度に、初めて触れ合った瞬間だった。
「あっ……あの、カーティス様。手が…………」
ルーナは明らかに動揺していた。ほんの少しだけ眉間に皺を寄せ、頬には赤みが差している。照れているらしい。けれど、嫌がっているようには見えない。そのことが、カーティスはとても嬉しかった。
「俺と正式に、婚約を結んではもらえないだろうか?」
カーティスはルーナを真っ直ぐに見つめながら、そう口にした。初夏の風が草木の香りを運んでくる。穏やかな気持ちだった。こんな風に誰かを想うことなど一生無いと、そう思っていた。けれど今、カーティスはアーロンの言葉の意味を実感している。
『おまえは人に対して興味が無さすぎる。少しは興味を持って相手のことを見て見ろ。そうすれば世界が変わる』
ルーナを中心にして、世界は優しく、美しい。何年ぶりだろう。自然と笑みが零れた。
ルーナは、そんなカーティスを見て、瞳を潤ませる。「はい」と蚊の鳴くような声で答えて、ほんの少しだけ口角を上げた。
***
事件が起きたのは、それから数日後のことだった。
アーロンの執務室で公務に当たっていたカーティスは、ひどく慌てた従者に呼び出される。その尋常じゃない様子に、カーティスは軽く顔を顰めた。
「一体何事だ?」
「そっ……それが、ルーナ様から、旦那様に手紙を預かっていまして…………!」
「手紙?」
ルーナとの手紙のやり取りなど、今に始まったことではない。元来まめな性質ではないものの、カーティスはよく、ルーナに手紙を書くようにしていた。手紙ならば、普段伝えられないことも伝えやすい。ぶっきら棒で言葉足らずな自分の至らなさを補えるよう、努めているつもりだった。
「ならばどうして、そんなにも慌てているのだ?」
カーティスは訝し気に首を傾げる。すると従者は、顔をクシャクシャにしながら、勢いよく頭を垂れた。
「それが……それがっ! ルーナ様はこの手紙を託すとき、『二度とお会いすることは無い』と、そう仰いまして……」
「…………は?」
ハンマーで勢いよく頭をぶん殴られたような心地がした。
急いで手紙の封を開けると、仄かにルーナの香りがする。普段よりも少しだけ歪んだ、ルーナの丁寧で美しい文字。カーティスは急いで中身を読んだ。
『カーティス様
突然、このようなお手紙を差し上げることを、どうかお許しください。わたくしは、あなたの妻になることはできません。
陛下の右腕であるカーティス様の妻が、わたくしのような冷たい女であってはならないのです。あなたの評判を――――ひいては陛下の評判を傷つけることになります。
もっと早くに気づくべきでした。エヴァやカーティス様が何と言おうと、わたくしが変わることはない。誰よりも何よりも劣る、価値のない人形。そんなわたくしに、あなたの貴重な時間を使わせてしまったこと、本当に情けなく、申し訳なく思います。
どうか、わたくしのことは忘れ、他の御令嬢と幸せになってください。カーティス様のご多幸を心よりお祈り申し上げます
ルーナ』
(何だこれは……一体、どういうことだ)
カーティスには信じられなかった。表情の変化が乏しくとも、彼女は自分との結婚を望んでくれていた。喜んでくれていた。
それなのに、こんな風に己を卑下し、結婚を断ることが、カーティスには受け入れられない。
「カーティス、一体如何した?」
帰りの遅いカーティスを訝しみ、アーロンが様子を覗きに来る。普段も決して血色が良いとは言えない顔が、青白くなっている。アーロンは自身の側近の尋常じゃない様子に、顔を顰めた。
「い……いえ、極、私的なことでございます。陛下のお耳に入れるような内容では……」
今は公務中だ。私事を持ち込んではならない。すぐに執務室に戻り、一旦ルーナのことは忘れるべき――――そうと分かっているのに、足が竦んで動かなかった。
ルーナとの結婚を取り計らってくれたのは、アーロンと、その妻エヴァだ。いつかは報告をせねばならないが、今は冷静に話が出来そうにない。第一、カーティスは破談に納得していない。頭の中がぐちゃぐちゃで、纏まらなかった。
「――――まさかおまえが、こんな風に感情を露にする日が来るとはな」
アーロンはそう口にすると、口元を少し綻ばせる。彼の瞳に映るカーティスは、何ともひどい表情を浮かべていた。絶望を塗り固めたような、救いようのない顔。彼を恋い慕っていた令嬢たちが見たら、興ざめするのではないかと思えるほど、ひどい顔だった。
「行け」
そう言ってアーロンは、カーティスの背を押した。トン、と一歩、足が前へ進む。
「皇帝命令だ。行け。行って、自分の感情と――――相手の感情と、しっかり向き合って来い」
凍てついた心と身体が少しずつ動き始める。気づけばカーティスは、前に向かって走り出していた。
***
「まさか、こんな話になっているなんてね」
鋭利な刃物のような声音が、ルーナの胸に突き刺さる。既に心の中はズタズタで、今にも朽ちてしまいそうなのに、目の前の女性の口が止まることは無い。
既に他家へと嫁に行ったルーナの姉、オリビアだ。
嫁いでから数年経っても子が出来ないせいか、こうしてよく実家へ顔を出す。今回も、久しぶりに顔を出したと思えば、ルーナの近況を根掘り葉掘り尋ねてきた。
「カーティス様は令嬢方の憧れの的なのよ? それがあなたなんかと結婚してご覧なさい? 大変なことになるわ。カーティス様も、陛下も、あなたの友達の皇妃様も、我が家だって、みーーんな馬鹿にされちゃうのよ? 全部全部、あなたのせいで」
昔からオリビアはこうだった。
ルーナが言い返さないのを良いことに、こうして事ある毎に彼女を貶める。ルーナは無言のまま、姉の目の前で俯いていた。
「良い? わたくしは、あなたのためを思って言ってあげてるの。だってそうでしょう? 一番嫌な思いをするのは他でもない、ルーナなのよ? カーティス様は冷たいお方だっていうし、結婚してもすぐに捨てられてしまうわ。経歴に傷がつくって分かっているなら、最初から止めておいた方が身のためなのよ」
オリビアはそんな風にして、自分の発言を正当化する。
『ルーナのために』
『ルーナが傷つかないように』
『全部ルーナのため』
――――全部、嘘っぱちだ。
本当はいつも、自分の鬱憤を晴らすために、ルーナを貶めている。
己の望む相手と結婚が叶わなかった時、婚家から『産まず女』と密かに噂された時、夫の不貞が判明した時、使用人たちと反りが合わず軽んじられた時――――そういった時に、オリビアはルーナのことを自分の苛立ちをぶつけるための人形にするのだ。
母は姉妹が幼い頃に亡くなってしまった。弟はルーナのことを守ろうと努力したが、力が及ばなかった。父親は姉に関わりたくないらしく、ルーナの置かれた惨状を放置している。
それでも、姉が結婚してからは毎日顔を合わせるわけではないため、まだマシだった。その間に、カーティスとの縁談を纏めるはずだったのだが、結局はバレてしまった。
「やっぱりこの家はわたくしがいなければダメね。これからはもっと頻繁に帰ってこないと」
ピクリ、ほんの少しだけルーナが顔を上げる。きっと姉の結婚生活は、いよいよ終焉を迎えようとしているのだろう。そう直感した。
(これまで以上にお姉さまが帰っていらっしゃる?)
そんなの、まるで地獄のようだ。
カーティスとの結婚が破談になった今、ルーナにはこの家以外に居場所がない。これまでのように、公爵家に赴き、侍女たちと会話をすることも、カーティスに会うこともできない。そう思うと、胸が悲しみに打ち震えた。
「あぁ、どうしましょう? このままルーナが嫁き遅れになってしまったら、家の恥だわ。今のうちにあなたの友人――――皇妃様ともきっぱり縁を切っておくことね。あなたが友人だなんて、皇妃様もお恥ずかしいはずよ」
オリビアは、ルーナがエヴァと仲が良いことを昔から嫉んでいた。エヴァが皇妃になると決まって以降、事ある毎に名前を出しては、縁を切れと要求してくる。妹に、自分よりも上の部分があることが許せないらしい。
「――――なんで返事をしないのよ?」
ドスの効いた声が室内に響く。
この部屋に姉妹以外の誰かが入ってくることは無い。使用人たちも含め、皆オリビアに関わりたくないからだ。何人もの人間が過去、不当に辞めさせられた。誰だって、自分の身が一番可愛い。
「エヴァは――――――わたくしの、大事な友達です」
ルーナがか細い声で、必死に反論する。その瞬間、オリビアの手のひらが、ルーナの頬を打った。乾いた音が部屋に木霊する。口の端から血が出たが、ルーナの表情が痛みに歪むことは無かった。
「あんた馬鹿なの? 大事なお友達に恥をかかせるぐらいなら、友達を辞めろって言ってるのよ!」
姉の理屈はおかしかった。けれど、彼女はそれが正当だと信じて疑っていない。反論するだけ無駄だ。これまでのルーナはそう思っていた。
「でしたら――――――わたくしとカーティス様との結婚を認めてください。わたくしは、あの方と結婚したいのです」
バシン、と大きな音が再び響く。ルーナの頬が紅く充血している。ルーナは大きく深呼吸をし、眉間に皺を寄せた。
「あんた、人の話聞いてた? ルーナがカーティス様と結婚したら、みんなが困るのよ? 釣り合っていないって、身の程知らずだって……わたくしだって後ろ指を指されるわ。嫌よ、そんな生活。あなたには、そうね――――その辺の貧乏貴族や金持ちのブ男がお似合いよ。それなら姉さんも祝福できるわ」
「カーティス様はわたくしを妻にと望んでくださいました!」
ルーナの瞳から涙が零れ落ちる。この十数年間、一度も流したことのなかった涙だ。堰を切ったかのように、ポロポロ、ポロポロと、止め処なく流れる。胸が張り裂けんばかりに痛く、苦しかった。
「エヴァだって、わたくしの幸せを望んでくれています! 恥だなどと思わなくて良いと……わたくしとずっと一緒に居たいと、そう言ってくれました……!
姉さまはいつも『皆』と口になさいますけど、それは違います。『姉さま』が嫌なだけなのでしょう? わたくしが、あなたの上を行くことが……『自分よりも不幸なわたくし』が存在しないと、姉さまが困るのでしょう?」
「あんたっ! いい加減に……!」
「俺の婚約者を傷つけるのは止めろ」
怒気を孕んだ冷ややかな声が響いた。
オリビアが勢いよく振り返る。ルーナは目を丸くした。カーティスがそこに立っていた。普段よりもずっとずっと、冷たい空気を身に纏い、こちらの身が竦むほどに怒っているのが分かる。視線がかち合って、思わず逸らす。カーティスが何を思っているのか、知ることが怖かった。
(プライドを傷つけてしまったのだろうか)
いきなり手紙で婚約を断られるなど、彼にとっては耐えがたい屈辱だったのかもしれない。美しい人だ。姉の言う通り、ルーナではとても、釣り合いも取れない。けれど、あの場ではああする他なかった。胸が引き裂かれそうな想いをしながら、姉の前で手紙を書いた。本当はきっと伏して詫びなければならない。
「ルーナ、おいで」
けれど、ルーナに手を差し伸べたカーティスは、無表情の中に優しさを滲ませていた。涙で濡れたルーナの頬をそっと拭い、頭をポンと撫でる。その瞬間、ルーナの顔はぐしゃぐしゃになった。生まれてから初めてではないかという程、感情をありのままに発露する。
カーティスがそっと微笑んだ。腕の中にルーナを収め、「遅くなってごめん」と繰り返す。カーティスはルーナに対して怒ってなんていなかった。そのことがとても、嬉しい。
「なっ……! 一体誰が、あなたをここに……!」
「知ってどうする? また痛めつけるか? 妹のルーナのように」
カーティスは不快感を露に、オリビアを見下ろした。明らかな蔑視。オリビアの頬が真っ赤に染まる。唇がワナワナと震えていた。
「俺はルーナと結婚します。あなたにとやかく言われる謂れはありません」
「でっ……ですが、ルーナは出来の悪い妹です! 人形のようなつまらない表情しかできない、欠陥品です! 側に置けば、あなたや陛下の恥になりましょう! そうなってはこの子も可哀そうです。この子はもっと、身の程に合った男性と結婚した方が幸せになれると――――――」
「こちらを侮辱する気か? そもそもこの結婚は、陛下と皇妃様の思し召しによるもの。そして、俺自身が強く望んだことだ。それなのに『恥』だと? 愚かにも程がある。貴様こそ身の程を弁えろ」
カーティスの言葉がオリビアへと鋭利に突き刺さる。胸が凍え、その場から一歩も動くことができない。けれど、それでもオリビアの口は動いた。
「いっ、いえ……侮辱だなんて、そんな――――――わたくしはただ、我が家が恥を搔くことになると……それを危惧したまでで」
「だったら、心の底から安心しろ」
そう言ってカーティスは、ルーナを連れて踵を返す。
「金輪際ルーナがこの家と関わることは無い。おまえのような姉がいるなど、それこそルーナの恥だ。今後、こちらの家名を表に出す気も一切ない」
オリビアはその場に座り込んだまま、カーティスの氷のような眼差しを呆然と見つめた。
恐怖が心の中に深々と降り積もっていく。けれど、目を逸らすことができない。印のように胸に刻まれ、今後一生、消えることが無いだろうとわかった。
「恥を知れ――――愚か者」
その言葉を最後に、カーティスは部屋を後にした。
***
馬車に揺られながら、ルーナはずっと涙を流していた。眉間に皺を寄せ、唇を震わせるルーナを見ると、カーティスの胸も痛む。彼女の悲しみを癒さなければ――――そう思うのに、カーティスにはルーナを見つめ、その手を握ることしかできない。
「もう悲しむのはお止め」
人間、そんなに簡単に悲しみを断ち切ることはできない。そうと分かっているのに、カーティスの口を衝いたのはそんな言葉で。
けれど、ルーナは目を丸くして小さく首を振った。カーティスの手がギュッと握り返される。温かい。まるでルーナの心の中を表しているかのように、その手は温かかった。
「わたくしは……多分、嬉しいのです」
そう言ってルーナは、ほんの少しだけ口角を上げた。不器用な笑み。けれどそこから、彼女の気持ちが十分に伝わってくる。カーティスは目頭が熱くなった。
こんな風にルーナの感情に触れられることが、とても嬉しい。これまで何にも揺れ動くことのなかった自分の心が、一気に溶かされていくのが分かる。世界がこれまでと、全く違って見えた。
「幸せになろう」
カーティスはそう口にする。心の中がほんのりと温かい。きっと、ルーナの方も同じだろうと分かった。
「必ず、幸せにする」
そう言ってカーティスは笑った。ルーナが驚きに目を見開く。それから二人は、まるで花が綻ぶ様な、満面の笑みを浮かべたのだった。