3.懐かしい声
助け出され、救急車に乗せられたともちゃんを見送っても、
私はまだ『そこ』にいた。
誰かが、いつの間にか私の体に毛布を掛けてくれていた。
明るい赤色の、まだ汚れていない綺麗な毛布だった。
見覚えのない物だったので、掛けてくれた誰かが、
わざわざ持ってきてくれたのだろう。
頭からすっぽり覆われていて、血で汚れた髪の毛の先だけが見えていた。
大勢の人の目にさらすには忍びないと思った誰かが、
掛けてくれたのかもしれない。
それか、ともちゃんを助けるのに、
すぐ目の前にこんな拉げた、かつて『人だったもの』があるのは、
非常につらいものがあるだろう。
それで掛けたのかもしれない。
どちらでもよかった。
ありがとうございます。
掛けてくれた誰かに、お礼を言った。
重力が二倍になったような重さの足と体を引きずるように、
同じく拉げた車の助手席側にまわる。
窓枠をそっと撫でる。
不思議なことに、車体に触った感触がちゃんと返ってきた。
お前も私と一緒に逝くんだね、スペーシア。
ごめんね。
そのまま拉げた窓枠を撫で続ける。
病院からの帰り道だった。
ずっと左胸がおかしかった。
痛みがあって、右胸より少し大きくなっていた。
乳癌かもしれないと、思った。
母も叔母二人も、乳癌だった。
それをともちゃんには隠していた。
だが、ともちゃんにみつかって、病院へ行くことになった。
検査の結果、かなり進行していることがわかり・・。
ともちゃんは、病院からここまでの間、一言も発しなかった。
こちらを向くこともなかった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、ショックを受けているのか、
私にはわからなかった。
たぶん、全部だったのだろう。
横から車が飛び出してきたときも、普段の用心深いともちゃんだったら、
予測して、注意して、避けられたかもしれない。
でも、今日はそうじゃなかった。
私が、もうあまり生きられないと知ったから。
ごめんね、スペーシア。
もっと、走れたのにね。
拉げた窓枠を撫でている手から、少し視線をずらす。
今の今まで一緒だった自分の体だったものが、その先にはあった。
目を背けたくなるほど、滅茶苦茶になった私の体。
ともちゃんが、愛してくれた私と私。
お別れ、なんだね。
もっと生きていたかったなぁ。
今事故に遭わなかったとしても、死ぬ運命だったけど。
もっと、生きていたかった。
もっと、ともちゃんの傍にいたかったよ。
魂だけになっても、涙がこぼれた。
こぼれた涙は、熱いような気がした。
そっと、自分の体に触れようと手を伸ばしたとき、
「みなみ。」
私を呼ぶ声が聞こえて、伸ばした手を止めた。
懐かしい声。
もう何年も前に、聴くことができなくなった声。
お父さん!
声のした方角には、両親が立っていた。
私は慌てて自分の体だったものを見た。
よかった。
髪の毛しか見えてない。
毛布を掛けてくれた人に、心から感謝をした。
たとえ、それが良くないことかもしれなくても。
両親に、特に母には、この拉げた体を見せたくなかった。
産み、育ててくれた父と母に、なんだか申し訳ないような気がした。
久しぶりの笑顔の両親に、何を言えばいいのかわからず、
どんな顔をすればいいのかもわからなかった。
「もう、いいだろう?」
『未練はないだろう?』
父の言葉には、そういう意味が含まれていた。
私は振り返って、自分の体を見た。
・・うん。
「じゃあ、いこうか。」
両親の差し出した手に、手を預ける。
父には左手、母には右手を。
その途端、今まで重かった体が、嘘のように軽くなり、
地面から浮き上がっていた。