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幸湖日記  作者: 炎華
3/71

1.はじまり



「みなみ!」

ともちゃんの私を呼ぶ声が、耳をつんざくような音にかき消された。

強烈な金属音が、私の耳に響いた。



静かだった。静寂、だった。静謐?、だった。

何も聞こえない。ほんの少しの音も聞こえてはこなかった。


前にともちゃんが言っていたことを思い出す。

音の実験をする部屋というものがあって、そこでは、音がほぼ聞こえないという。

実際にその部屋に入ったことはないが、そんな感じなのかもしれない。


いや、何も聞こえない、というのは嘘だ。

私の耳の中で、高い金属音が切れ間なく聞こえていた。


耳鳴り、か。

常に耳鳴りがしていたから、それがいつも自然な事だから、何も聞こえてないと思った。

だが、確実にそれは聞こえていた。

以前、かかりつけの耳鼻科の先生に相談したことがある。

先生は真面目な顔をして、

「私もします。」

と、言った。

診察室にいた全ての人が笑った。先生も、看護師さん達も、そして私も。


かかりつけの先生がそう言うのなら、しょうがないことなのだろうと思った。

今に至るまで、耳鳴りはし続けている。

これを常に意識していたら、確実に精神に異常を来すだろうと思う。

幸いなことに、全然、と言ったら嘘になるが、ほとんど気にならなかった。

『常にあるもの』として、認識していた。


耳鳴りには、意味があるとスピリチュアルの世界では言われている。

幸が、コーギー幸湖さんが、虹の橋を渡ってしまったとき、

私の心の中に穴が開いてしまった。

普段の生活をしているときは、幸の写真を見ても、動画を観ても、何も思わなかった。

飼い主さん達と楽しそうにしている余所のワンコを見ても、羨ましいとか悲しいとか、思うこともなかった。

でも、突然涙が溢れて止まらなくなることがあった。

何がきっかけかは、わからなかった。涙がでるときは、本当に突然だった。


そのときのことを例えるなら、雲の上すれすれを飛んでいて、

雲に触れさえしなければ、何も感じる事はないのだが、

何かの拍子に、ちょっと触れたりすると、途端に涙が出てきて、とまらなくなる。

そういう感じだった。


幸がいなくなって、こんなにも幸に依存していたんだと気が付いた。

苦しくて、つらかった。

あまりにも苦しかったから、ペットロスを乗り越える為の方法を探した。

探して探して、動画も沢山観た。

そして、ようやくこんな風に私が悲しんでいると、幸が次に進めないということを知った。


そして、決めた。

いつも幸せな気分でいよう、と。

私がそういう気持ちでいるのなら、幸の修行の助けになるだろうと。

「幸のお尻を押すからね。」

心の中で、そう伝えていた。



  まぶしい・・

辺りは真っ白だった。まるで窓のない白い壁に囲まれた部屋にいるようだった。

一瞬、ともちゃんの言ってた『音のない部屋』に入れられたのかと思って、私は慌てた。

だから目も見えないし、音も聞こえないのだと、危うく思い込む所だった。

そのとき、徐々に視界が回復し始めた。

もう少しこんな状態だったら、パニックを起こしていたかもしれない。

私はすぐに慌てる癖がある。ともちゃんに

「慌てない。慌てる必要はない。一度深呼吸して落ち着いて。」

と、よく言われていた。

それを思い出して、目を閉じ、深呼吸をしてから再び開いた。

ぼんやり見えてきた物は、黒い大きなカタマリだった。

だんだん視力が回復して、ピントがあったとき、

それは丁字路で絡んだ2台の車だということに気が付いた。


黒の軽自動車の左側に、やはり黒色のセダンが衝突していて、

軽はそのまま押されて、反対側の民家の塀にぶつかって止まっていた。

セダンは、ぶつかったとき、相当スピードが出ていたようで、

軽自動車の左側は潰れて、紙の様にくしゃくしゃになっていた。

更に右側の塀に挟まれて、車体が半分になってしまったかのような印象を受けた。

その塀はかなり頑丈だったようだ。多少亀裂が入っていたが、

倒壊まではいってはいない。


なぜ『この事故』の起きたこの場所に、

自分が立っているのかがわからなかった。

辺りは、いつもと変わらない風景が広がっている。

職場へ向かうバスの中から見える、いつもの風景。

片側一車線のバス通りで、

バスとトラックがすれ違うのがやっとの広さ。

両サイドに、以前はお店であっただろう建物が、

それとわかる看板やドアの文字を残したままぽつぽつと建っている。

この通りを西側へ真っ直ぐ進むと、ともちゃんこと夫と私の家がある。

反対に東に向かうと、駅に続く国道に繋がる。

通りの左右には、まだ枯れ木のままの丘の斜面が見えていた。

『いつもと変わらない風景』

のはずなのに、なんだかいつもと違ったように見える。


  なんだろう?この違和感は。


まるで、夢をみているようだった。

なぜそこにいるのか、どういう状況なのかが、全くわからないまま

突然に始まる夢。

そんな感じだった。

「夢、なのかな。」

声に出して言ってみた。

何かがおかしかった。いや、全部だ。

自分の声までが、異世界から聞こえるようだった。

それにしても、リアルすぎる夢。現実と言ってもおかしくない。


改めて目の前の車を見る。

本当に、夢にしてはかなりリアルだ。

この、周りの風景といい、あの、軽の潰れ方といい。

「本当に、夢なのかな。」

そう呟きながら、中を覗こうとしたとき、何かが見えた気がした。

視線を戻して、注意深く見直す。

「うそ・・」

思わず声が出た。

「うそだ、そんな、そんな、まさか。」

『見えた何か』は、私が作ったうさぎのマスコットだった。

ともちゃんに見せると、なぜかとても気に入って、

車に飾りたいと言い出した。

まさか、欲しいと言われるとは思っていなかった。

だが、気に入ってもらえたのが、すごく嬉しくて、ちょっとにやけながら、

「大事にしてよ。」

と、渡したのだった。


すぐに気が付かなかったのは、小さかったせいと、

萎んだ大きな風船のような物に隠れていたからだ。

そして、茶色のうさぎのはずが、赤いうさぎになっていたからだった。

うさぎだけではなかった。

その周りも、赤いインクをぶちまけたようになっていた。

その赤い物の正体を、頭は理解していたが、心が認めようとしない。

「これは、夢だ。夢なんだ。」

何度も自分に言い聞かせる。

それでも、中を見たい、確かめたいという気持ちが頭をもたげてくる。

見てはいけない、確かめてはいけないという気持ちがそれを抑える。

見たら、全てが終わりそうな、そんな気がする。

私は固く目を閉じた。

そのとき、

「みなみ!」

声の限りに叫ぶともちゃんの声が耳の、すぐ傍で聞こえた気がした。

はっと目を開ける。

「ともちゃん!」

辺りを見回すが、ともちゃんの姿はなかった。

そのときに、妙な事に気が付いた。

この通りは狭いが、バス通りなので車も多い。

今の時間なら、人通りも多いはずだ。

なのに、何一つ動くものはなかった。

時が止まったように全てが動きを止めていた。

音でさえも。

それが、違和感の一つだったことに、後になって気が付いた。


「みなみ!」

ともちゃんの私を呼ぶ声。

それをかき消すように響いた音。

その後に、


  ・・・衝撃?


そこまで思い出したときだった。

一斉に車のドアが開いて、口々に何か叫びながら、人々が駆け寄ってきた。

止まった時間が、急に動き出したようだった。

音も視界も、全てがいきなり流れ始めた。

その後の人々の行動は、見事としか言いようがなかった。

スマホを耳に当て、警察、救急車を呼ぶ人の他、

車の方に駆け寄る人数を見て、

後続の車を通すように、交通整理を始めた人、

渋滞の後ろの方で、状況のわからない車に説明をして、

迂回するようお願いする人。

いったん通り過ぎたが、

邪魔にならないように車を寄せて、わざわざ駆けつけてくれる人もいた。


私は他人事のように、それを感心しながら見ていた。

自分でも驚くほど冷静だった。

あまりにも現実離れしていて、

これは夢で、目が覚めたらいつもの生活がある。

もう、既に違和感を感じているのに、頑固にそう思い込もうとしていた。

そんな考えを打ち破ったのは、車に駆け寄った人の声だった。

「大丈夫か!あっ!」

「ひでぇ・・」

中を覗き込んだ人々は、一様に目をそらした。

口元を押さえ、慌てて横に退く人もいる。

その様子を見て、ひどく嫌な予感がした。

さっき思い出しかけた、『衝撃』。


心に浮かんだ『それ』を確かめるため、私は車に近付こうとした。

だが、一歩がなかなか踏み出せなかった。

何が起こっているのか知ってるように、足はひどく重かった。

それでも。行かなければ。

あの中を確かめなければ。

きつい坂を登るときのように、一歩一歩に力を込めて前に出る。

「怖い。

あの中を見るのが怖い。」

その度に、足から力が抜ける。

「でも、確かめなければ。」

思い直して、また前に進む。

それを何度か繰り返して、

ようやく車の前に回り込むことができた。

だが、人々の背で、中の様子を見ることができなかった。

ほっと息をついて目を上げたとき、その背の壁に一瞬、隙間ができた。

私は思わず息をのんだ。


-その隙間から見えたもの-


もう生きていないと一目でわかるほど壊れた自分の姿だった。







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