3月30日
いつもと同じ朝だった。
空は花曇りで、時々雲の切れ間から、薄いお日様の光が差してくるけど、
すぐに雲に遮られて消えてしまう。
今日は、ハートママに会いに行く。
やっと決心がついたと、連絡がきたから。
お日様の光が、雲の隙間から、出たり入ったりするのを見ていると、
「さーち。」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、おばあちゃんが、にこにこ笑って、近付いてくるところだった。
おばあちゃんは、幸のおばあちゃんではなくて、みなみママのお母さんだ。
みなみママというのは、幸の飼い主さん。
飼い主さんはもう一人いて、ともパパという、ママの旦那さん。
ついでだから、幸のことも話すよ。
幸は、本当は幸湖っていう名前で、
ウェルシュ・コーギーっていう種類の犬です!
パパとママは、幸の足を見て、いつも
「みじか~い!」
って笑うの。失礼しちゃう。
でも、すぐにナデナデしてくれて、
「それがいいんだよね!」
って、言ってくれるの。
そうするとね、ぽーっと心が温かくなって、すごく嬉しくなるの。でもね、
「みじか~い。」
って笑ったことは許せないから、あまり嬉しそうにしないの。
「どうしたの?まだ行かないの?」
振り返ったままの幸のすぐ後ろで、おばあちゃんが言った。
「こっちは大丈夫だから。」
と、おばあちゃんの後ろから来たおじいちゃんが言う。
おじいちゃんは、みなみママのお父さんだ。
幸は二人の方に体の向きをかえた。
おばあちゃんは、膝を折ってしゃがむと、幸の左耳の辺りを撫でた。
「あの子達が心配?」
「うん。」
思わず、パパとママが中にいる家の黒いドアを見た。
四角い枠の中に唐草の模様が彫られている。
金色のドアノブが、そのとき出てきたお日様に照らされて、きらりと光った。
本当は、こっちも目を離してはいけないんだ。
幸は、パパとママを護るために遺ったんだ。
でも、ハートママが、やっと生まれ変わる決心がついたと言ったから。
幸を生んでくれたハートママ。
会いたいんだ。
こっちでは、あまり傍にいられなかったから。
次に会えるのが、どれくらい先になるのかわからないから。
会えるのは、今だけなんだ。
ほんのちょっとだけだけど、会いたいんだ。
幸は、目の前のおばあちゃんを見た。
おばあちゃんの温かい手のひらが気持ちいい。
それに。
それに、今日はおばあちゃんの誕生日でもあるのに。
それでも、
「大丈夫。行っておいで。」
と、二人が言ってくれたので、行ってくる。
くるりと180度向きをかえて、一歩前に進もうと前足をあげたとき、
背中からおばあちゃんの声が追い掛けて来た。
「何かあったらあったまで。
心配しなくていいよ。ハートママに沢山甘えておいで。」
その言い方と響に不安を覚えて振り返ると、
おばあちゃんがにっこり笑って手を振った。
「それはどういう、」
と、言いかけた言葉を遮って、
「いいから。早く行きなさい。」
おじいちゃんが前方を指さした。
二人のその様子から、これ以上何も答えてくれないだろうことがわかった。
しぶしぶ振り返った首を、元に戻す。
そのまま視線を下に向けると、
あの黒いドアが勢いよく開いて、ともパパが出てきた。
玄関前のスペースに停めた黒い車に乗り込むと、エンジンをかける。
すぐにまた降りてくると、家のドアに向かった。
パパが鍵を取り出すと、みなみママがウェストバッグを抱えて出てきた。
二人の姿が車の中に消えてドアが閉まると同時に、
パパの運転する車は家の前を離れた。
左側はお隣の生垣、右側はフェンスに囲まれた、
車一台が通るのがやっとの道を走って、
バス通りに合流すると、すぐに右に曲がって車の流れに乗った。
信号に引っかかる事なく、パパの車はそのまま滑らかに走って行った。
幸は、しばらく車を目で追っていた。
本当は、あれについて行かなきゃいけないんだ。
でも、今日はハートママが待ってる。
ひとつ頷くと、視線を前方に戻す。
それでも、やはり不安は拭いきれない。
また、二人の乗った車を見る。
車は流れに乗ったまま、だんだん小さくなっていった。
パパ。
ママ。
・・・なるべく早く帰ってくるよ。
車に向かって呟くと、ようやく幸はハートママの待つ約束の場所へと走り始めた。