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そうして忙しく立ち回っている間に閉店時間となった。

締め作業の手伝いを佐々木がしている間に杉原は福部と共に最後の仕込みに取り掛かり出した。

いくら暇な時期とはいえ、普段は四人で回している仕事を三人で分担するのはなかなかにきついのだ。


杉原が薄力粉を計量しようと紙製の大きな袋を仕舞ってある台車に手を掛けると、昼間鏡で見た左肩の部分がズキリと痛み出した。

思わず右手で肩を抑える。

最初は全く痛みは無かったのだが、夕方が近付くにつれ熱を持つようなヒリヒリとした痛みから段々と刺すような痛みに変わった。

そうして閉店作業が始まる頃には、時折激しく痛む時があり、声を上げそうになる程だった。


「痛むのか?」


対面の作業台でムースの仕上げをしていた福部が心配そうに聞いてきた。


「ああ、いえ。……少し」


「少しって感じじゃないけどなあ。冷や汗かいてんじゃねえか。もう今日は先上がれよ」


「いえ、あとこれで仕舞いですから」


額に浮かぶ汗を肘まで捲った袖の内側で拭い作業に戻った。

それから仕事が終わる頃には痛みがきつくなり、何とか辿り着いた駅のホームで崩れ落ちる様にベンチに座ってしまった。

佐々木と福部は心配してくれ、近所の借り上げ住宅に住んでいるどちらかの家に泊まるか救急に行くように勧めてくれたが、変な意地を張り辞退した事を後悔した。

ベンチで痛みにじっと耐えている中、幾つかの回送や急行が過ぎた。

勿論乗らなければならない各停も過ぎたが、その頃には肩の痛みが激しく、立ち上がる事すら出来なかった。

そんな時に脳内に丸鏡で見た手のひらの形の様な痣に押さえつけられているイメージがまざまざと浮かび、脂汗が首筋を這った。


そうして、最終の急行が過ぎた時———。


耐え難い程の痛みが瞬間に引いた。

朦朧としていた意識が鮮明になる。

視線を上げると、薄暗いホームが目の前にある。

見慣れた景色だ。

等間隔に並んだ蛍光灯が溶け込む様な光を灯している。


———おかしい。


杉原は肩を庇いながら立ち上がると、二俣川方面に向かうホームの端を見た。

最終の急行が去ったとはいえ、まだ各駅停車が一本残っている筈だ。

それなのに人が一人も居ない。

無音だ。

音が全くしないのだ。

木々の騒めきや駅前の喧騒。

靴音一つしない。

まるでこの場だけ切り取られてしまった様に時が止まってしまった。

そんな風に感じる程無機質な空間だ。


杉原は思い立った様に振り返る。


視線の先には薄暗闇に溶け込む様に佇む一人の老女が居た。


矢張り漆黒の喪服の様な格好をした老女。

杉原は自然と半歩後退る。

老女は舐め回す様に杉原を大袈裟に見遣り、レースの狭間から見えた口元は裂けてしまうかと思う程細い下弦の月の様に弧を描いている。


「今宵は雨でございます」


老女は一歩前に歩を進める。

杉原は可笑しな事を、と思った。

暗い夜空には月が浮かんでいる。

朝出勤前に観たニュースでも雨の予報では無かった。


「お嬢様が婿殿をお連れする様に仰ってから、随分とお探し申した」


老女が言うと、杉原の頰に一粒の水滴が落ちる。

すると、堰を切った様にざんざんと音を立てて振ってきた。

滴り落ちる雨が目に入り、Tシャツの裾で目元を拭う。

雨の勢いが凄まじく、目を開けていられないのだ。


「参りましょう」


老女の声に顔を上げると既に姿は無く、がらんとした電車が停まっていた。

今の今まで夢でも見ていたのだろうか。

首をひねりながら電車に乗り込む。

雨は降り続いている。

濡れた格好そのままに座席に座り込む。

何だったのだろうか。

思考を纏め様と額に両手を当てて屈み込むと、発車を告げる合図が鳴り響いた。

そこで不意に違和感を感じて立ち上がる。

杉原が慌てて扉に近付くと、無情にも眼前で扉が閉まった。

ゆっくりと動き出した。

車窓を流れる景色を見て、それから振り返る。

見渡してから列車の進行方向に向かって車両を移動する。

結局先頭の車両まで行っても乗客は一人も見当たらなかった。

運転士が居るであろう運転室には窓にカーテンがかけられていた。

何度か窓を叩いたが、物音一つしなかった。

無人の様に感じるが実際に動いているのだから、カーテンを閉じられた運転室にはきっと誰か居るのだろう。

いや、居て欲しい。

そう願望を掛けてもう一度今度は強めに窓をノックした。


「すみませーん!どなたかいらっしゃいませんか?」


「そこには誰も居ないよ」


不意に掛けられた言葉に驚き振り返る。

そこには十歳前後の少女が白い丸襟の真っ黒な膝丈のワンピース姿で立っていた。

丁度カーブに差し掛かったのか揺れた車内で全く平坦な道にいる様に平然と立っている。


「君は……」


唐突に現れた少女に俄かに驚いていると、少女はワンピースの裾をはためかせてクルリと回った。

少女が止まった瞬間にスカート部分がふわりと落下傘のように風を孕んだ。


「もう着くよ。お嬢様がお待ちだよ」


笑い声を上げて少女が走り出す。

杉原が後を追うと、少女は次の車両に行ってしまった。

連結部分のドアを開けて見渡すが、そこには既に少女は居なかった。

少女の残滓を追う様に視線を彷徨わせていると、列車がブレーキ音を立てて停まった。

そして間も無く扉が開いた。

杉原から一番近くの扉を見遣ると、暗闇がそこには広がっていた。

靄の様な霧が立ち込めている。

電車内の灯りが照らす先も、有るのは漆黒の闇ばかりであった。


杉原は恐る恐る扉に近付く。

顔を出すと、濃霧の中、足元にはきちんとホームのコンクリートと黄色い点字ブロック。

白線が辛うじてぼんやりと浮かび上がる様に見えた。

生唾をゴクリと飲み込み、足をプラットホームに下ろす。



「ようこそ、お出でくださりました」



声がする濃霧の先に目を向ける。


そこには時代錯誤な提灯を持った白無垢姿の女が立っていた。



「杉原 要様。こうしてお会い出来る事をお待ち申し上げておりました。要様、準備は出来ております。どうぞ、こちらでございます」


提灯の灯りに照らされた女の顔は背筋がぞっとする程に美しい。

まるでこの世の者では無い様な現実味の無い美しさだった。

細くなだらかな柳眉。

細く整った鼻筋。

その両脇に完璧なシンメトリーを描く切れ長の瞳。

小さな唇には背徳的なものを感じる真っ赤な紅を乗せている。

何処かに言葉を忘れてきてしまった様に発する事が出来ない。

現実味の無さに眩暈を感じ、振り返る。

そこには口をぽっかりと開けた様に電車がまだ停まっている。


このままこの女に着いてはいけない。

この理不尽なまでに美しい女に着いて行ってしまえば、二度と現実には戻れない。

そんな気が漠然としたからだ。


「さあ、要様。行きましょう」


再度促された言に、杉原の意思とは関係無く足が動く。

ヨタヨタと女の元へ寄ると、提灯を持っていない右手をそっと杉原の左腕に添えられた。


「貴女は……一体」


「憶えてはおられないでしょう。それでも良いのです。要様が幼い頃からお慕いしておりました」


この幽鬼の如く美しい女が?

杉原の頭の中は疑問で一杯だった。


「屋敷へご案内致します。さあ、参りましょう」


腕を引かれて濃霧の立ち込める中を歩いた。

女はまるで滑る様に足音も無く歩く。

不気味な。

素直にそう感じはするが、杉原は抗う事が出来ずにいた。


「あの……。屋敷とは、貴女の住まいでしょうか?」


「サキとお呼びくださいませ。そうです。私の屋敷でございます。要様に気に入って戴けるか少々不安ですが」


サキと名乗った女は苦笑の様な表現をほんのり浮かべた。


「サキさん、一体ここは何処なんですか?」


「要様。着きました。お疲れでしょう。急いては事を仕損じるといいます。先ずは湯殿の準備が整ってございます」


サキに牽制され、前方に視線を逸らすと目の前に欄干を朱色に塗られた太鼓橋が現れた。

矢張り此処は己の知る日常では無いのだと杉原は確信した。

太鼓橋の奥には豪華な瓦葺きの屋敷が鎮座していた。

漆喰の白壁が霧に溶け込み様にぼんやりと発光している様だ。


「どうぞ」


サキの鈴の様な声に促されて、纏まらない思考のまま太鼓橋を渡った。

屋敷に足を踏み入れると新築の様な木造の木の香りが漂っている。

外観に違わず立派な内装に思わず気圧される。


「お寛ぎくださいませ」


そう言ってサキは風呂場に案内した。

何とも落ち着かない。

他人のテリトリーで全く情報の無いまま裸になってしまうのは大変心許無い気分であった。

杉原の自宅の小さなユニットバスよりも広く檜作りの浴槽が更に不安を募らせた。

風呂から上がり、脱衣所で用意されたであろう着流しに悪戦苦闘していると、サキが扉の向こうから声をかけてきた。


「もし?要様。慣れない召し物です。お手伝い致します」


サキは杉原の返答を待たずに扉を開けた。

杉原は驚き、振り返る。

サキは打掛を脱いでおり、掛下姿で楚々と立っていた。


「サキさん、困ります」


「困る事などございません。私のお気持ちは先程もお伝えしました。要様、要様。私の旦那様」


















杉原は、夢か現か分からない無限に続く様なサキとの関係に溺れた。

美しく妖艶なサキ。

抱く度に杉原を心から受け入れてくれていると感じる。

果たして杉原の人生でこれ程までに受け入れてくれた人物が居ただろうか。


恐らくサキは普通の人間では無いだろう。

晴れない濃霧。

明けない夜。

何より腹が空かないのだ。

排泄も無い。

思考がサキの美しく長い黒髪に絡み取られた様に晴れない。

名以外知らぬ女に溺れて貪り続けた。


そして何度となく身体を重ねたある時。

サキは美しい裸体を杉原の腕の中に任せて呟いた。


「矢張り要様の腕の中は落ち着きます」


「いつも抱いているから馴染んでしまったのかな?」


杉原が半身を起こして覗き込むとサキは細く長い腕を杉原の上半身に絡めた。

その腕の先、手首には小さな傷が一つある。

完璧なまでの美しい顔としなやかな身体。

その完璧に一つ付いた綻びが美しさを際立たせている様だった。

余りにも現実感の無い理想を体現したサキの容姿にある一つの傷跡が彼女が現実の物であると決定付けている様に感じたのだ。

その手首を取り、口付けを落として抱き込める。

滑らかな乳房が腹に当り、欲望の炎が俄かに湧く。

その炎に自らを委ねる様にサキを押し倒した。


「要様の胸は変わらず温かい」


冷んやりとした吸い付く様なサキの肌を蹂躙する喜びに身を委ねた。



サキが幾つかの微睡みの最中で改まって言う。


「要様。お話がございます」


「どうかした?」


褥を共にしていり布団の上に胡座をかくと、サキが膝の上に霰もない格好で乗り上げてきた。


「今夜、再び列車が参ります。最後の列車です」


サキの薄い身体を抱き締める。

何となくサキの言わんとする事を察してきつく抱き締めた。


「夢のままに終わらせるつもりなのか?」


「それも良うございましょう。サキは要様をずっとお慕いしております」


杉原の頭を抱え込む様に腕を回し、頰を寄せてきた。


「君は僕の所には来てはくれないのか?」


「それは難しいお話でございます。サキはこの境目の番人でございます。この屋敷から離れる事は出来ません」


サキは目を伏せて薄っすらと笑む。

杉原が僅かばかりの逡巡をしていると、襖の向こうから声が聞こえた。

しわがれた老女の声だ。


「お嬢様、お時間でございます」


サキは襖の向こうを見透かす様に視線を向けて後、杉原を見やった。


「要様。如何致しましょう」


杉原は己の身体が自然と動いた事に若干の戸惑いを感じながらも、身支度を始めた。

せめてサキが形振り構わず引き留めてくれたら。

そんな都合の良い事を感じ、焦燥した。

サキは何も言わずに杉原の選択を受け入れた様だった。


再びサキに誘われ、あの不思議なプラットフォームに着いた。

振り返ると、サキが提灯を掲げて寂しげに佇んでいた。


「じゃあ……」


杉原がそう発するとサキは頷いた。

サキは、何かを言い淀んでから、飲み込み仕草をした。

そうして囁く様に呟いた。


「貴方が幼い頃に拾ったのは、犬では無かったんです」


「えっ?」


列車がホームに滑り込む。

自然と視線が列車に吸い込まれた。

サキに言葉の真意を問おうと再び視線を向ける。


そこにサキの姿は無かった。


後は唯、見慣れた最寄駅のホームが広がるばかり。










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