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まだ早朝の風が吹く時間帯。
それなのにじんわりと額に汗が滲んだ。
初夏———。
杉原が子供の頃の時分には無かった暑さだ。
もう二十年前の記憶になるが、当時は夏の盛りの頃であっても三十度を少し上回るくらいであった。
それが現代はどうだろう。
漸く六月が終わったという時期に三十五度を上回る日もザラである。
兎に角蒸すのだ。
ジメジメと纏わりつくような風が不快だった。
「もし?」
早朝の駅。
その日も仕事の為にいつもの時間、五時四十三分に発車する横浜行きの電車を待っていた時だった。
突然背後から声を掛けられ振り返ると小柄な老女がそこに居た。
黒いパンプス。
首元まで詰まった黒い脹脛まで隠すワンピース。
綺麗に纏められた白髪。
確かトーク帽というのだったか。つばの無い小振りの帽子に黒いレースが付いている。
黒いレースがあしらわれた日傘。
日傘の影と黒いレースが相まって表情が読めない。
喪服を彷彿とさせるような格好だ、と一目で感じた。
「何か?」
ある種の雰囲気を纏うご婦人に気圧されながらもそう返すと、婦人は目を輝かせた。
日傘を傾け、影が上がると、レースが棚引いた。
現れた爛々とした吊り目が異様な雰囲気を醸し出していた。
「矢張り貴方でございましたか。これは良い事です。大変良い事です」
「何ですか、突然」
婦人は深く一礼すると顔を上げた。
「本日、日付の変わった頃にお迎えに参ります。お忘れ無き様、よろしくお願い申し上げます」
そういうと、改札の方向へ去って行った。
♢
職場に到着するとすぐにインスタントコーヒーを淹れる為の湯を薬缶に沸かし始めた。
同僚達が来る前に白衣に着替えを済ますのがいつもの杉原のルーティンだ。
それは背中に残る痣を見せない為の配慮であった。
私服のTシャツを脱ぎ去ると、肉体労働特有の筋肉が付いた上半身が露わになる。
その肩甲骨下辺りから斜めに縦断する様に引き攣れた皮膚。
杉原が小学生の時からある火傷跡だ。
背中にある為、杉原本人はさして気にしていないのだが、その跡を見た人間は必ず痛々しげに顔を顰める事から隠す様になったのだ。
この火傷を負った時は真冬であった。
杉原の養父は実母の再婚相手だ。
杉原は実父の顔も名前も知らない。
実母からはいつも愚痴の様に聞かされて育った。
———お前の本当の父親はろくでなしだ。
———責任感の欠片も無い男だ。
———だからきっとお前もそうなる。
———そうならない為に養父を敬え。
だが、杉原からしてみれば幼い杉原と母を捨てた実父も養父も大差無いと思っていた。
真冬の寒い時期であろうが気に入らない事があると杉原を外に放り出す養父。
杉原の寝床はいつも狭い台所の片隅だった。
犬猫の様に丸まって眠るしかなかった幼少時代だった。
指先がかじかむ様な極寒の日でさえも毛布一枚与えられなかった為、いつも己の体温のみでやり過ごしていた。
実母はそんな杉原を見て見ぬふりをしていた。
庇うでも無く、ただそこには誰も居ないかのように。
過酷な日々であった。
そんな環境を強いる養父など、捨てた実父の方がまだ幾分可愛いと思えるくらいのろくでなししか杉原の周りには居なかったのだ。
そんなある冬の日だ。
養父は度々苛立ちを覚えると杉原で発散してくる時があった。
要は暴力だ。
殴る蹴るは日常茶飯事であったから、杉原も抵抗する気力も無く耐える日々だった。
それがあの日は違った。
杉原は小学校から下校ルートの途中にある神社で足を怪我している白い犬を拾った。
耳がピンと立った犬だった。
生まれて間もないのか、とても小さな犬だった。
杉原は神社の脇に流れる川で傷口を洗い、自宅にあった布切れで傷口がある足を縛った。
そうして、パートに出掛けている母親が居ない台所で拾った犬に冷蔵庫から牛乳を与えた。
杉原は勝手に冷蔵庫を開けたりなど禁止されていた為、酷く緊張した事を覚えている。
夕方に母親が帰宅するタイミングで杉原は台所の隅に丸まって犬を隠す様に背を向けた。
とても大人しく利口な犬だった。
その頃、養父は通っていた闇賭博場でバカラにはまっていたらしかった。
勝てた日は比較的機嫌が良かったのを覚えている。
しかし勝てる日ばかりでは無い。
賭け事とはそういう物なのだろう。
特にディーラーなどが絡む様な物だとある程度の操作はされていたのだろう。
養父の様な直情型の人間など恐らく良いカモだったのだ。
歳を重ねた今だからこそそう思うのだが。
養父がバカラで大損した日に事は起こった。
帰って来る前から養父の機嫌が悪い事を察した。
アパートの共用通路に面した台所を住処とする杉原には、古いアパートの階段を登る足音が養父の心理状態を察する程良く分かっていた。
———今日は最低な一日だ。
幼い杉原はそう考えると奥歯を噛み締めた。
そして胸に埋もれている犬を更に深く囲い込んだ。
これから降りかかる災難を凌ぐ為の唯一の方法だったからだ。
目を閉じて、静かに息を殺していた。
すると乱暴にドアが開いた音がし、すぐに大きな音でドアが閉まった。
実母に負けただどうのと不機嫌を打つける喧しい声がする。
杉原は、養父の酒と煙草で潰れたダミ声が苦手だった。
耳を抑えて矢張り息を殺す。
実母が何度か台所を行き来して養父に酒や肴を出している。
台所に背を向ける様に置かれた石油ストーブ。
ストーブの上に置かれた薬缶から湯気が立ち昇っている。
畳敷きの六畳間にいる実母と養父が炬燵に入っているのが小さく開いた曇りガラスをはめ込んだ硝子戸の隙間から伺えた。
暫くすると怒鳴りながら養父が杉原の元へやってきた。
ひたすらに酒臭い息を吐きかけながら杉原のボロボロの薄いトレーナーの首根っこを掴むと宙吊りにしてきた。
吊り上げられて抱いていた犬が養父の目に留まったのか、一度その状態で動きが止まった。
息が詰まり、すぐに思考が停止する。
サンドバッグの様に殴られる。
いつもと同じ。
耐えれば済むのだと頭を空っぽにしていた。
だが、犬の存在だけが気掛かりだった。
しかしその日は相当に負け込んでいたのか養父は杉原のその態度すらも気に入らない様子だった。
養父が掴んでいた杉原のトレーナーを離すと杉原は重力に逆らえずに床に打ち付けられた。
強かに身体を打って嘔吐を我慢する。
次の瞬間。
杉原は声も出ない絶叫を上げる羽目になる。
激昂した養父がトレーナーを捲り上げ、餅などを焼く時に使う火箸をストーブで赤々と焼いた物を肩に押し当てて来たのだ。
杉原を気遣う様に犬が顔元に近付いてきた。
そこで杉原は意識が途絶えた。
結局その後、目覚めた杉原の近くには犬は居なかった。
というより養父も実母も居らず、病室のベッドに寝かされていた。
あの日、アパートの隣人が異常な気配を感じて警察に通報した事により歪な家族は終止符を迎えた。
ボロアパートの薄い壁が杉原の命を救ったのだ。
杉原は実母の両親である祖父母に引き取られた。
祖父母は厳格な人間ではあったが、厳しいだけでなく愛情を持って育てて貰ったと思っている。
その件以来、杉原は養父とも実母とも一度も会ってはいない。
そしてあの子犬とも。
目覚めてすぐに祖父母に聞いてみたのだが、結局は分からず仕舞いで終わってしまったのだ。
そんな懐古をしていると、三年後輩の佐々木 恒春が出社してきた。
「おはよーございまーす」
間延びしたいつもの挨拶。
佐々木はまだ眠たげに普段から下がり気味ね垂れ目を更に下げた様な間抜け面で杉原の淹れたインスタントコーヒーを啜った。
すぐに作業場の奥にあるカーテンで仕切っているだけの更衣室に入っていった。
「おはよう。今週からゼリー系の仕込みもあるから段取り間違えるなよ」
杉原が声を掛けると気怠げな返事が佐々木から返ってきた。
小さな工場内にあるホワイトボード。
その日の仕込む菓子が書いてある。
杉原は町の小さな個人経営のケーキ屋の工場で勤務している。
幼い頃に満足に食事が出来ない日々が相当に堪えたのか、将来を考える頃には自然と飲食関係と決めていた。
特に口にする機会の全く無かった製菓には殊更興味があり、高校卒業後に調理師専門学校を経てこの小さな店に就職した。
それももう十年も前の頃の話だ。
今となっては立派な中堅である。
製菓業界は矢張り冬場がメインの市場である為、夏場は客足が遠のく。
その為、長期休暇などは夏場の方が取りやすい業界である。
今週はチーフとサブチーフが週を半々にして休暇を取る。
つまり、今日からチーフは四日間の休みだ。
インスタントコーヒーを啜っていると、裏口が開いた。
始業時間ギリギリにサブチーフの福部 雄二が現れた。
「うーっす」
いつもの締まりの無い福部の挨拶。
そして佐々木と入れ替わりに福部が更衣室に入って行く。
それを合図とするかの様に、その日出すケーキを急速冷凍庫から出した。
仕込んだケーキを解凍している間にクレームパテシエールの仕込みや冷凍してあるシュー生地の焼成などをして開店準備を進めるのだ。
そうしている内に溶けたケーキに飾りやナッペなどをして、あっという間に開店時間となる。
売り子さん達が来る頃にショーケースの電源を入れて皿に移したケーキを並べる。
そこで一度小休憩となる。
裏口から外に出て煙草に火をつける。
一口吸い込むと穂先が赤々と燃える。
吐き出す煙がまるで吸い込まれるように晴天の空に立ち上っていく。
「一本貰っていっすかー?」
佐々木が杉原に上目遣いで煙草を強請った。
杉原が無言で箱から差し出すと佐々木は遠慮無く受け取り咥えた。
「いやー、昨日帰りに寄ったらスっちゃって」
「またパチンコか?」
「そうです、またです。最近調子悪いんですよねえ。不味!杉原さんまだメンソール吸ってんすか?不味くないっすか?」
「人から恵んで貰ったものにケチ付けるなよ」
杉原が苦笑して言うと、佐々木がじっと杉原の首元を見つめる。
そしてすぐにニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた。
「なんだよ、気味が悪いな」
「いやー、杉原さんも隅に置けないっつーか。ねっ!」
意味の分からない返答に首を傾げると、佐々木が己の首筋をトンと指で叩いた。
「付いてますよ、ここ。杉原さんそんな話し全くしませんけど、激しい人が好きなんすね」
内容を察して首を振る。
「こんな勤務体系でそんな暇あるわけないだろ?虫刺されかなんかじゃないか?」
「また、ベタな!誤魔化し方古っ!それに虫刺されって感じじゃないっすよ?どっちかってーと痣みたいな……。いや、ちょっと待ってくださいよ?失礼していいっすか?」
「おいっ!」
杉原の制止を無視して佐々木が杉原の首元まで閉められた白衣の襟ぐりを強引に解く。
すると、佐々木が息を呑む気配がした。
「おい、そろそろ始めるぞー?って、杉原。なんだそれ」
裏口から顔を出した福部も心配そうに眉根を寄せる。
「なんです?何かありました?」
福部に伺うと、一度作業場に引っ込み、身嗜み用の丸鏡を持って再び福部が顔を出した。
「お前自分で気付いて無かったのか?いつそんな怪我したんだ?」
小さな手鏡を渡されて、福部が持つ丸鏡に背を向けて立った。
手鏡を使って白衣とTシャツを脱いでみると、元からあった幼い頃の火傷跡から肩に伸びるように手形のような痣が広がっていた。
「……おかしいですね」
「火傷があるとは聞いてたが、子供の時にやったやつだろう?……おかしくないか?」
「おかしいですよね。もうかなり前の跡なので、殆ど目立たなかったんですよ。しかも、成長期で皮膚が引っ張られていったからか、この肩甲骨の下辺りからのものしか無かった筈なんですよ」
「げーっ、それ痛くないんすか?」
見ると手形の様な痣の周りが薄っすらと盛り上がっている。
まるで今そこを見えない手が押さえつけられている様にも見える。
その盛り上がった皮膚と痣の境目が何とも痛々しく見えるのだ。
「痛みは全くないな」
「そうか。なんだったら明日仕込みの量調整するから午後から病院行って来たらどうだ?」
「お気遣いいただいてありがとうございます。水曜日の定休日にでも行ってきますから大丈夫です」
「そうかあ?何かあったらすぐ言えよ?」
その場はそれで解散となった。