第八話 紙袋
紀之定さんとご飯に行った翌日。
私はいつも通り、大学に行くために駅に行った。
今日の講義は午後からだから、駅に着いたのは十一時近くだ。
改札を通る時に精算所を覗いてみると、紀之定さんが丁度接客をしているところだった。
勿論私には気付いていないけど、顔が見られただけでもちょっと嬉しくなる。
でも、できれば挨拶くらいしたかったなとちょっと欲が出てしまったのは、昨日のことがあるからだろう。
また今度、二人で会ってもらえるだろうか。
夜に「今日はどうもありがとうございました」とメッセージを送ったら、ちゃんと返信はあったけど、次の約束の話は出なかった。
紀之定さんも満更でもなさそうだったし、もしかしたら誘ってもらえるんじゃないかと、ちょっと期待していたのだけれど。
また私の方から誘ってみようかなとも思ったけど、もし私の想いが一方通行でないなら、できれば次は紀之定さんから誘って欲しかった。
私が紀之定さんを追い掛けてばかりだと、少し悲しくなる。
私は少し重い気持ちを引き摺りながら、エスカレーターに向かった。
今日のお昼は、学食のビルの二階にあるベーカリー兼カフェにしようということになった。
焼きたてパンがお手頃価格で食べられる上に、百種類以上あるメニューの中から季節によってメニューが変わるから飽きが来ないし、ドリンクやスイーツの種類も豊富で、お気に入りのお店の一つだ。
でも小さなお店でテーブル席はないから、お昼をこのお店で済ませる時には、次の講義がある教室で食べることも多い。
ここの学食はいつも混んでいるから、早めに行かないと席を確保するのが結構大変なのだ。
次の講義があるのは文学部棟で一番大きい教室で、重いドアを開けると、中に人はほとんどいなかった。
脚を固定された九脚の椅子が並ぶ、木製の長いテーブル。
そのテーブルが一段ごとに三つずつ、階段状に並んでいた。
教壇の上にはマイクの置かれた教卓と、長方形の机が置かれていて、その奥にはスライド式の大きな黒板がある。
一番の後ろのテーブルに、奥から釉さん、私、絃花ちゃんの順に並んで座ったところで、私が早速ウインナーロールやベーグルサンドが入った袋の中からウェットティッシュを取り出して手を拭いていると、絃花ちゃんが同じように手を拭きながら訊いてきた。
「ねえねえ、昨日のデートどうだったの?」
「別にデートじゃないよ。ご飯に行っただけ」
私がアイスコーヒーにミルクを入れながらそう訂正を入れると、絃花ちゃんは律儀に言い直した。
「じゃあ、そのデートもどきはどうだったの?」
「楽しかったよ。一緒にランチして、いろんなミステリー小説の話で盛り上がって、山下公園を散歩して帰って来たの」
思い出すだけで顔がにやけてしまいそうになるくらい楽しい時間で、もうこの思い出さえあれば、この先一生幸せに生きて行けるかも知れないとすら思う。
私が上機嫌でベーグルサンドに噛り付いていると、釉さんが言った。
「へえ、良かったじゃん。で、次の約束とか、告白とかは?」
私が言葉を詰まらせたのを見て、絃花ちゃんは全てを察したらしく、どこか憐れみを感じさせる口調で言った。
「なかったんだね」
「うん……誘おうと思ったんだけど、言えなかったんだよね。やっぱり面と向かって誘うのって難しくて」
「ふーん。でもさあ、どうせなら次は向こうから誘って欲しいところだよね。莉緒はちゃんと勇気を出して誘ったんだしさ」
「やっぱりそう思う?」
私の問いかけに、釉さんだけでなく絃花ちゃんも頷いた。
「相手を待ってばっかりで、自分から何も言わないのって、はっきり言ってズルいと思うよ。それって、ただ傷付くのが嫌で、自分のプライドを守ってるだけだもん。昨日の今日でその駅員さんがそういう人だって決め付けるのは早いと思うけど、ここは敢えてその駅員さんの出方を見てみるのもいいんじゃない? ホントに莉緒ちゃんのことが好きだったら、きっと何か行動を起こしてくれると思うし」
「だよね」
もしこのまま紀之定さんが何も言ってくれなかったら、それっきりになってしまうのはとても残念だれど、でも私だけが一方的に紀之定さんを追い掛けているような恋は、どの道長続きはしないだろう。
見返りを求めない愛は美しいけど、私はきっとそこまで綺麗な人間じゃない。
私はアイスコーヒーをかき混ぜていたストローを止めると、軽く啜ってみたけれど、ミルクが入っている筈なのにいつもよりずっと苦い気がした。
その日の帰り。
私は電車に揺られながら、とあるミステリー小説の文庫本を読んでいた。
電車の中は他の人と体が触れ合う程ではないにしろ、なかなかに混んでいる。
座れなかった私は、ドアの近くの手すりを掴んで立ったまま、黙々とページを捲っていた。
今読んでいるのは、とある高校を舞台にした『日常の謎』系のミステリー小説だ。
学校というちょっと特殊な場所で生まれる謎は、やっぱりちょっと変わっていて、それを解き明かしていく過程がなかなか面白い。
次々にページを繰っていると、いつもの駅まであと一駅というところで、私が立っている方のドアが開いた。
ばらばらと人が降りて行った後、「あ」という小さな声がする。
私が何気なく声がした方を見ると、以前図書館で「八月三十一日」のメモを渡してきた司書さんがいた。
紀之定さんに謎を解いてもらって、あのメモの意味はわかったけど、図書館に行けば絶対顔を合わせる訳でもないし、カウンターには大抵他の司書さんもいるしで、結局ちゃんと返事をしていないままだ。
でもあれから二ヶ月程経っている以上、メモの意味がわからなかったにしろ、気持ちに気付いた上で無視したにしろ、駄目だったことは明白な訳で、こうやって顔を合わせるのはちょっと気まずい。
あの図書館からは自然と足が遠のきがちになって、もうほとんど会うこともないだろうと思っていたのに、こんなところでばったり会ってしまうなんて、思ってもみなかった。
気付かなかった振りができれば良かったけど、ばっちり目が合ってしまったから、そういう訳にも行かない。
私がとりあえず軽く会釈をすると、司書さんも会釈を返しながら電車に乗ってきた。
リュックを背負い、B5サイズくらいの紙袋を大事そうに両手で抱きかかえている。
見たところ、取っ手が駄目になってしまった訳ではなさそうだから、何か大事な物が入っているのかも知れない。
司書さんは私の横を素通りして、中の方へと進むと、紙袋をそっと足元に置いて、吊り革の一つに掴まった。
そのすぐ側には、同じように紙袋を足元に置いて寝ている七十代くらいのおじいさんがいる。
電車が動き出すと、私は再び視線を文庫本に落とした。
側に立たれたりしたらどうしようかと思ったけど、そういうこともなかったし、降りる駅はもうすぐなのだから、できるだけ気にしないようにしてやり過ごすことにしよう。
私は目の前の小説に集中しようとしたけど、どこからかカサカサという音が聞こえてきて、集中を途切れさせた。
音の出所を探すと、さっきの司書さんがビニール袋をくしゃくしゃにしている。
一体何をしているんだろう。
ちょっと気になりつつも、私が再び視線を文庫本に落とすと、少しして電車がガタンと大きく揺れた。
「この野郎! 何してやがる!?」
電車の中に、突然年配の男性の大きな声が響き渡った。
見ればさっきまで寝ていたおじいさんは起きていて、あの司書さんが「誤解です」と言いながらおじいさんを宥めようとしている。
でもおじいさんはすっかり頭に血が上っているみたいで、大声で喚き散らすのをやめようとはしなかった。
「泥棒だ!」とか「警察を呼べ!」と言っているところを見ると、多分あの司書さんがおじいさんのお財布か何かを抜き取ろうとしたのだろう。
誰がやったのか特定するのが難しい満員電車ならともかく、そこまで混雑していない電車の中で、いくらおじいさんが寝ていたからと言って、本当にそんなことをするかなあと、ちょっと疑問には思うけど。
もしかしたら、本当におじいさんの勘違いなのかも知れない。
ざわついたお客さんが、おじいさんと司書さんを避けて遠巻きに見守る中、電車が駅に着いた。
この電車はここが終点で、乗っていたお客さん達はドアが開いた途端に逃げるようにホームに出て行く。
同じように電車を降りた私が後ろを振り返ると、司書さんはほとほと困り果てた様子だったけど、おじいさんに「とにかく降りて、駅員さんを呼びましょう」と言って、おじいさんと一緒に電車を降りた。
手にはしっかり紙袋を持っていたけど、さっきみたいに両手で抱えてはいない。
私はホームを見渡してみたけど、近くに駅員さんは見当たらなかった。
「あの、良かったら、駅員さん呼んできましょうか?」
私はおじいさんにそう声を掛けた。
多少の親切心もあったとはいえ、紀之定さんに会えるかも知れないという打算からの申し出だったけど、そんなこととは知らないおじいさんは言った。
「気が利く娘さんだな。頼むよ。俺はこいつが逃げないように見張っておくから」
紙袋を足元に置いたおじいさんは、司書さんを睨み付けたままだったけど、少しは頭が冷えたみたいで、さっきみたいな今にも殴りかかりそうな剣幕は消え失せていた。
今の内にさっさと駅員さんを呼んできた方がいいだろう。
「ちょっと待ってて下さいね」
私はそう言い残すと、近くにある駅事務室へと向かった。
でもドアを叩いてみても、誰もいないみたいで返事がない。この駅には改札の近くにも駅事務室があるから、そこに行くしかなさそうだった。
私はエスカレーターを駆け上がって、改札の外にある駅事務室に向かおうとしたけど、その前に紀之定さんが駅事務室から出てくる。
応対してもらえるかどうかは別として、ちょっとだけでも話せそうだった。
私が紀之定さんに気付いてもらおうと大きく手を振ると、紀之定さんが笑顔で会釈を返してくれる。
こうして微笑みかけられるのは初めてじゃないけど、やっぱりドキドキした。
私が努めて表情を動かさないようにしつつ、紀之定さんを手招きすると、紀之定さんは精算所の脇を通って、すぐに私の所まで来てくれる。
私は挨拶もそこそこに、紀之定さんに用件を伝えた。
「あの、ホームでお客さん同士がちょっとトラブルになってるんです。一緒に来てもらえませんか?」
「わかりました。案内をお願いできますか?」
「こっちです」
私が紀之定さんを先導して踵を返すと、紀之定さんは私の後ろを歩きながら言った。
「あの、昨日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。おかげ様で楽しかったです」
振り返った私ができるだけ愛想良くそう返すと、紀之定さんは早速本題に入った。
「お客様同士でトラブルがあったというお話でしたが、一体どんなトラブルがあったのでしょうか?」
私が歩きながらかいつまんで事情を説明すると、紀之定さんは私に続いてエスカレーターを下りながら更に問いを重ねてくる。
「小桜さんは、その司書さんの電車での言動を覚えていますか? どんな些細なことでも構わないので、教えて頂けると参考になるのですが」
「本を読んでましたから、ずっと見てた訳じゃないんです。電車に乗る時に紙袋を大事そうに両手で抱えて乗ってきて、私に気付いて『あ』って言ったのと、おじいさんの紙袋の側に自分の紙袋を置いてたのと、ビニール袋をくしゃくしゃにしてたのと、電車から降りる時には紙袋を抱えずに普通に取っ手を持ってたのを見たくらいで」
「なるほど。大分話が見えてきました。ありがとうございます」
今の話で、一体何がわかったと言うんだろう。
何が何だかわからなくて、よっぽど紀之定さんに説明して欲しかったけど、その前におじいさんと司書さんがいる所に着いてしまったから、私はその機会を逸してしまった。
紀之定さんを見たおじいさんが、開口一番強い口調で言う。
「警察を呼んでくれ! こいつは俺の財布を盗もうとしたんだ!」
「だから、それは誤解なんです!」
司書さんがすかさずそう言うと、おじいさんと司書さんの間の雰囲気が途端に険悪なものになる。
おじいさんからは今にも手が出そうだったけど、紀之定さんがさっと二人の間に割って入ったことで、暴力沙汰にはならずに済んだ。
近くで見ているだけでも結構怖いけど、当の紀之定さんは仕事柄トラブルの仲裁に慣れているようで、平然とおじいさんに問いかける。
「お手数ですが、事情がわからないことには警察に連絡はできませんし、何があったか説明して頂けますか?」
おじいさんは憤懣やる方ない様子だったけど、司書さんを指差して事情の説明を始める。
「俺は電車で寝てたんだ。で、電車が大きく揺れた拍子に目が覚めて、目を開けてみたら、こいつが俺の紙袋に両手を突っ込んでたんだよ!」
「ということは、彼があなたの私物を抜き取っているところをはっきりご覧になった訳ではないんですね?」
紀之定さんがそう確認すると、おじいさんは語気を強めて言う。
「人様の荷物が入った袋に手を突っ込んでたら、何か盗もうとしてたに決まってるだろうが!」
「一概にそうとは言えないかも知れませんよ」
紀之定さんは物怖じすることなくそう切り返すと、今度は司書さんに訊いた。
「すみませんが、その紙袋の中身を見せて頂けませんか?」
「あ、はい。どうぞ」
司書さんが紙袋を大きく開いて見せると、紀之定さんは中を覗き込んで言った。
「ちょっと失礼しますね」
紀之定さんが袋の中に白い手袋に覆われた手を入れると、がさがさとビニール袋を掻き分ける音がした。
私がそっと紀之定さんの後ろから中を覗いてみると、紙袋にはビニール袋しか入っていない。
ビニール袋一枚だけを紙袋に入れているというのも妙な話だけど、紀之定さんは何やら納得したように小さく頷いてからおじいさんに言う。
「多分、あなたは勘違いをなさっています。そちらの方は紙袋に入れていた動物――多分猫だと思うのですが――があなたの紙袋に入ってしまったので、あなたが寝ている間にこっそり自分の紙袋に戻そうとしただけだと思いますよ」
予想外の展開に私は目が点になったけど、おじいさんもかなりびっくりしたみたいで、毒気を抜かれた様子で言う。
「ね、猫?」
「猫でないとしても、多分何かしらの動物があなたの紙袋に入っていると思いますよ。電車から降りる時、紙袋が少し重くなっていませんでしたか?」
「そう言われれば、ちょっと重かったような気がするな」
おじいさんはそう独りごちると、腰を屈めて紙袋を覗き込み、中に入っていた新聞紙を退けた。
「ほんとに猫だ……」
おじいさんは半ば呆然とそう言うと、紙袋の中にそっと両手を入れて、子猫を抱き上げた。
白地に黒いブチの入った、可愛い子猫だ。
まだ生まれて数か月くらいで、一匹ではとても生きて行けそうにない。
おじいさんは子猫から紀之定さんに視線を移すと、心底不思議そうに問いかけた。
「あんた、何でわかったんだい?」
「そちらの女性が、彼が電車に乗る時に紙袋を大事そうに抱きかかえていたと教えてくれたんです。でも、電車を降りる時には取っ手を持って、普通に持っていたと。それで、多分電車の中で中身が変わったんだろうと思ったんですよ。彼の紙袋にはビニール袋しか入っていませんでしたが、ビニール袋をしまうのにわざわざ紙袋を使う人はあまりいないでしょう? ましてや彼はリュックを背負っているんですし。だから、きっとビニール袋以外の何かが入っていたんだろうと思ったんです。となれば肝心の中身はどこへ行ったのかという話になりますが、多分あなたの紙袋に入り込んでしまったのだろうなと。物が他人の紙袋の中に入り込んでしまうことなんて、そうあるものではありませんが、生き物なら勝手に動き回って入ってしまうことも有り得ますから。だとしたら、その彼が『誤解だ』と言ったのも、紙袋に両手を入れていたのも説明が付きます。お財布のような軽い物を持ち上げるのに、普通わざわざ両手は使いませんしね」
言われてみれば確かに辻褄は合うけど、まだ腑に落ちないことがあった。
私と同じ疑問を抱いたらしい司書さんが、紀之定さんに尋ねる。
「でも、どうして入ってたのが猫だってわかったんですか?」
「あなたがビニール袋をくしゃくしゃにしていたと聞いたので。僕も実家で猫を飼っていましたから、もしかしたらと思ったんです。我が家の猫は、ビニール袋をくしゃくしゃにした時の音が好きでしたから」
へえ、紀之定さんって猫飼ってたんだ。
また一つ紀之定さんのことを知ることができて、私が少し嬉しくなっていると、司書さんは言う。
「前にウチで飼ってた子もそうでしたよ。でもちょっと前に老衰で死んじゃって……寂しいなと思ってたら、今日この子を見付けたんです。首輪も付けてないですし、母猫も近くにいないみたいで、このままじゃそう遠くない内に死んじゃうかも知れないと思って、家に連れて帰ることにしたんです。ケースを買おうと思ってペットショップを探したんですけど近くにはなくて、仕方なくこの子を紙袋に入れて電車に乗ったんですよ。一駅だけだったし、この子も寝てくれてたんで、何事もなく電車に乗れると思ったんですけど、途中で起きちゃって……ビニール袋をくしゅくしゅしてこの子の注意を引き付けようとしたんですが、この子はあまりビニール袋に興味がなかったみたいで、僕の紙袋を出ておじいさんの紙袋に入り込んじゃったんです。一声掛ければ良かったんですけど、おじいさんが寝てたので、起こすのも悪いと思って、おじいさんの紙袋に両手を入れたところでおじいさんが起きて……後は御覧の通りです」
一通りの事情を話し終えたところで、司書さんはおじいさんに深く頭を下げた。
「どうもすみませんでした」
おじいさんは子猫を司書さんに差し出すと、ぶっきらぼうだけどさっきより幾分柔らかい口調で言う。
「この猫に免じて大目に見てやるよ。但し、もう二度と人様のもんに勝手に手を出すんじゃねえぞ」
「はい。わかりました」
司書さんが子猫を受け取ると、おじいさんは自分の紙袋の取っ手を掴んで去って行った。
司書さんはおじいさんの背中から紀之定さんに視線を流すと、頭を下げて言う。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いえ、これが僕の仕事ですから。ところで、ケースを使っていなかったということは、その子猫の乗車料金は支払われていませんよね?」
「あ、ペットって乗車料金かかるんですか? すみません、知らなくて……」
途端に気まずそうな顔になる司書さんに、紀之定さんはあくまで優しく言った。
「後で精算して頂ければ大丈夫ですよ。トラブルの原因になることもありますし、今度ペットと一緒に乗車される時はケースに入れてあげて下さいね」
「そうします。ご迷惑をお掛けしました。それじゃ」
子猫を抱いた司書さんが、もう一度紀之定さんに頭を下げると、エスカレーターに向かって歩き出した。
私は少し迷ったけど、思い切って司書さんの背中に声を掛ける。
「すみません」
司書さんがちょっとびっくりした顔で私を振り返ると、私は続けた。
「前にもらったメモ、八月三十一日って、『I LOVE YOUの日』ですよね?」
「はい」
司書さんが浅く頷くと、私は言った。
「ずっと返事しなくてすみませんでした。でも私、好きな人がいるんです。ごめんなさい」
司書さんは一瞬だけ悲しそうな顔をしたけど、その悲しみはすぐに溶けて消えた。
「……その人と、上手く行くといいですね。それじゃ」
司書さんはそれだけ言うと、私に背を向けてエスカレーターに乗った。
どことなく寂しげなその背中を見ながら、今更だけどやっぱり言わない方が良かったかなと私は思う。
私は言うだけ言ってすっきりしたけど、司書さんからしたら塞がりかけていた傷を抉られたようなものだろうし。
私がちょっと後悔していると、後ろから紀之定さんの声がした。
「あの」
私が振り返ると、紀之定さんは今まで見たことのない、ひどく真剣な顔で私を見つめていた。
思わずドキドキしてしまって、紀之定さんの目を見つめ返すことができずに俯くと、紀之定さんが続ける。
「好きです」
私は咄嗟に何も言えなかった。
とても嬉しいのに、このタイミングでこんなことを言われるとは思っていなくて、頭が上手く付いて行かない。
返事をしないといけないのに、どうしても言葉が出て来なかった。
私が黙りこくっていると、紀之定さんはどこかしどろもどろに言う。
「すみません、こういうことはもっと雰囲気のいい場所で言おうと思っていたんですけど、小桜さんが僕以外の男の人と話しているのを見ていたら、どうしても今言わないといけないような気がしてしまって……やっぱり迷惑でしたか?」
「っ違います!」
やっとそれだけ言えたけど、やっぱり上手く気持ちを言葉にできなくて、代わりに涙が出てきた。
でも紀之定さんがちゃんと気持ちを伝えてくれたんだから、私も答えないといけない。
私は指で涙を拭うと、顔を上げて紀之定さんと目を合わせた。
自分を鼓舞するように手をきつく握り締めると、精一杯の勇気を振り絞って言う。
「私も、紀之定さんのことが好きです」
やっと言えた。
ほっとした途端に気が緩んで、また涙が出そうになる。
私が慌てて目元を擦っていると、紀之定さんははにかみながら淡く微笑んで言った。
「良かったら、今度一緒に謎解きイベントに参加しませんか? 電車であちこちの駅を移動しながら謎を解いていく、期間限定のイベントがあるんです」
電車に乗って謎解きをするなんて、まるで紀之定さんのためにあるようなイベントだ。
紀之定さんが一緒だと、きっとあっという間に謎が解けてしまって、私の出番はなさそうだけど、今までこういうイベントに参加したことはなかったし、ちょっと興味がある。
「面白そうですね。行ってみたいです」
「じゃあ、決まりですね。またご連絡します」
紀之定さんは一度言葉を切ってから続けた。
「僕はそろそろ仕事に戻らないといけませんが、良かったら一緒に上まで行きませんか?」
「勿論行きます」
私達は一緒にエスカレーターに乗った。
参考文献・サイト
「いろは歌」 <www.fjweb.fju.edu.tw/yang/conversation/irohauta.pdf> 二〇一九年三月二十五日アクセス
「駅ナンバリング―JR東日本」<www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf>二〇一八年六月六日アクセス
「駅ナンバリング一覧」<https://cross-hatch.wixsite.com/numbering>二〇一八年六月六日アクセス
「名古屋市営地下鉄上飯田線」<http://ja.m.wikipedia.org/wiki/名古屋市営地下鉄上飯田線>二〇一八年六月六日アクセス
「【みんなの知識 ちょっと便利帳】モールス符号(モールス信号)一覧」
<http://www.benricho.org/symbol/morse.html>二〇一八年五月二十八日アクセス
「運賃計算の特例:JR東日本」<http://www.jreast.co.jp/kippu/1103.html>二〇一八年六月十三日アクセス
「手回り品:JR東日本」<http://www.jreast.co.jp/kippu/20.html>二〇一八年五月十五日アクセス