第七話 手品
紀之定さんとはその週の日曜日にランチに行くことになった。
場所はいつもの駅からそう遠くない、みなとみらい。
近くだからあまり特別な感じはしないけど、デートならまだしもあくまで「日頃のお礼でご飯を御馳走する」という名目だし、変に気合いが入った場所より、これくらい近場の方がいいだろう。
時々映画やドラマの撮影に使われる程度にはお洒落だし、飲食店も多い。
それだけにどのお店にしようか悩んだけど、釉さん達にいろいろアドバイスをもらって、私はベイサイドにあるカフェに行くことに決めた。
ネットの口コミによるとテラス席からは海が見えるそうだし、勿論料理も美味しくて、ランチコースでもほんの数千円程度とリーズナブルだ。
地図を見たら大きなショッピングセンターの近くだけど、埋立地の端の方にあって人の流れから外れているせいか、それ程混んではいないそうだし、ゆったり食事を楽しめそうだった。
実際紀之定さんを前にしたら、緊張して楽しむどころじゃない気もするけど。
私は早速予約をしようとしたけど、調べてみたら予約ができるのは店内の席だけだそうで、仕方なく予約をあきらめた。
どうせなら眺めのいいテラス席がいいだろう。天気さえ良ければ、海風も気持ち良さそうだ。
迷わないように何度も場所をチェックしたし、新しい服とサンダルとバッグも買ったし、準備は万端だった。
そして当日。
私は寝坊することもなく、無事十時半前にJR桜木町駅に着いた。
ランチは十一時からで、しかも目的のお店は駅から徒歩十分くらいだから、約束の時間は十時四十五分だったりするのだけど、時間に余裕を持って出て来たら二十分近く早く着いてしまったのだ。
トイレでお化粧を直してもまだ十分くらい時間があったけど、そろそろ改札を出てもいい頃だろう。
私は北改札を出た。
すぐ右手にはお花屋さん、左手には券売機がある。
広い通路には四角く太い柱が大きく間隔を空けて並んでいて、その向こうには駅ビルへの出入り口があった。
南改札の方は改札を出てすぐにコンビニや本屋さんがあるけど、北改札の方には駅ビルの出入り口と観光案内所くらいしかないからか、南改札に比べると人が随分少ない。
辺りをぐるりと見回してみたけど、紀之定さんはまだ来ていないみたいだ。
私は近くにあった柱の一本を背にして立つと、もう一度自分の格好を点検してみる。
空色のロングワンピースに、袖の一部がレースで透けている五分袖の白いカーディガン、白いパール風の飾りが付いたベージュのサンダルと、籐のバッグ。
セミロングの髪はアップにして、毛先が落ちないように一つにまとめていた。
うん、おかしくない。さっきお化粧も直したし、大丈夫だ。
そう確信できたところで、私はバッグからスマートフォンを取り出すと、紀之定さんにメッセージを送った。
「こんにちは。駅に着きました。今改札を出た所にいます」
送信すると、返信はすぐにあった。
「こんにちは。僕も今駅に着いたところです。これから行きますね」
もうすぐ紀之定さんに会えると思うと、とても嬉しかったけど、同時に緊張もしてきた。
私がそわそわしながら紀之定さんを待っていると、とうとう改札の向こうに紀之定さんが現れる。
今日の紀之定さんはグレーの七分袖のジャケットに、白い無地のTシャツ、濃い藍色のジーンズ、白いスニーカーという、夏らしい爽やかな服装だ。
今までスーツや制服を着ているところしか見たことなかったけど、私服もよく似合っていて、私は尚更ドキドキしてしまった。
でも、私は紀之定さんにどう思われているのだろう。
おかしいところはないと思うのだけど、紀之定さんの好みかどうかはわからなかった。
どんなに可愛く、綺麗に着飾ったところで、好みじゃなかったら、きっと紀之定さんは私に振り向いてはくれない。
私は内心の不安を押し隠して、紀之定さんに挨拶した。
「こんにちは」
紀之定さんは、にこりと笑って私に挨拶を返してくれた。
「こんにちは。お待たせしてすみません」
「いえ、私が早く来過ぎてしまっただけですから。じゃあ、行きましょうか」
私が東口へ向かって歩き出すと、紀之定さんが並んで言った。
「今日は、いつもとちょっと雰囲気が違うんですね」
いつもと髪型を変えているのは一目瞭然だから、「よく見てくれているんだなあ」なんて感動することはなかったけど、変化を指摘してくれたことを心の中でこっそり喜びながら、私は言った。
「今日も暑くなりそうでしたから、ちょっと髪をまとめてみたんです。変ですか?」
「そんなことはありませんよ。よくお似合いです」
「ありがとうございます」
只の社交辞令だとしても、やっぱり好きな人に褒められるのは嬉しい。
私が上機嫌で歩いていると、目の前が急に開けて駅前広場に出た。
それぞれの場所を目指して歩くたくさんの人々の向こうに、高く聳えるランドマークタワーや、風を受けて膨らむ大きな帆のようなデザインのヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、コスモワールドの大きな観覧車などが聳えている。
強い日差しが肌を焦がし始めて、私はバッグの中に入れてあった白いレースの日傘を開いた。
それだけで、暑さが随分和らいだ気がする。まだ六月だけど、予報だと今日の最高気温は二十八度だそうで、日向にいるとかなり暑かった。
これは店内の席にしてもらった方がいいかなとも思ったけど、せっかく眺めがいいお店だし、日陰にさえいれば風はひんやりしていて結構快適だから、やっぱりテラス席がいいだろう。
まあ、紀之定さんの好みもあるから、絶対テラス席じゃないと嫌なんて言うつもりはないけど。
私はぽつりぽつりと木の植わった広場を歩きながら、隣の紀之定さんを見上げて、躊躇いがちに訊いた。
「……あの、急にご飯なんて、迷惑じゃなかったですか?」
「いいえ。一人暮らしだと誰かと食事をする機会も減りますし、この辺にはしばらく来ていませんでしたから、久し振りに来られて良かったです」
笑顔でそう返してくる紀之定さんの言葉に嘘はなさそうで、私はほっとした。
紀之定さんは優しい人だから、単に気を遣ってくれているだけかも知れないけど。
広場を出た私がその脇に伸びた道路を歩きながらそう考えていると、紀之定さんは続けた。
「この近くには『原鉄道模型博物館』があるんですよ。原信太郎氏が製作・所蔵した、世界一とも言われる膨大な鉄道模型と、鉄道関係のコレクションが収蔵されているんです」
流石は鉄道オタク。
鉄道関係の施設はばっちりチェック済みらしい。
きっと知っているだけでなく、行ったこともあるのだろう。
一度どころか、何度も足を運んでいてもおかしくなかった。
「本当に電車が好きなんですね。きっかけは何だったんですか?」
「父が鉄道好きだったもので、その影響で僕も自然とそうなったんです。両親は僕がまだ小学生の時に離婚していますから、僕が父と同じ趣味を持っているのは、母からするとちょっと複雑みたいですけどね」
紀之定さんは前に「父親のいない家庭で育った」と話していたから、お父さんはどうしたのかなとちょっとだけ気になっていたけど、そういう事情があるなら納得だった。
別に悪気があった訳じゃないとはいえ、デリケートなところにうっかり踏み込んでしまったのは事実で、私はひどく申し訳ない気持ちになる。
私は赤信号の横断歩道の前で足を止めると、言った。
「あの、すみません。訊かない方が良かったですよね」
「いえ、気にしないで下さい。離婚の原因ははっきり聞いていませんが、僕と兄は今でも時々父と会っていますし、そう深刻な話ではありませんから」
紀之定さんは特に気分を害した風もなくそう言ってくれたけど、やっぱりちょっと気まずい。
会話はそこで途切れてしまって、私が必死で次の話題を探していると、有り難いことに紀之定さんが話し掛けてきてくれた。
「この辺りには、よく来るんですか?」
紀之定さんが会話を続けようとしてくれていることにほっとしながら、私は青信号に変わった横断歩道を歩き始める。
「時々ですけどね。海も見えますし、町並みもオシャレですし、いろんなお店もあって、見てるだけでも楽しいですし、結構お気に入りなんです」
横断歩道を渡り終えた私は、汽車道へと足を向けた。
汽車道は海の上を歩く板張りの遊歩道だけど、その名の通り昔は汽車が走っていた道だ。
今は鉄製のレールやいかにもな鉄橋が当時の名残を留めているくらいで、鉄道オタクの人にとって嬉しい場所かどうかはよくわからないけど、少なくとも嫌いではないだろう。
単に駅からお店に行く時にここを通るのが最短ルートなだけで、ここを通るためにわざわざこの道を選んだ訳ではないけれど。
潮の香りを含んだ風が少し強くて、私が日傘を飛ばされないように傘の取っ手を握る手に力を込めると、紀之定さんは風に目を細めながら言った。
「僕もみなとみらいは結構好きですよ。独特の風情があっていいですよね。都会的なのに落ち着いた雰囲気で、人が多くてもあまりガヤガヤしていませんし、近くに大きな公園もあって、のんびり時間を過ごすこともできますし。僕、『原鉄道模型博物館』に行った時には、いつもこの辺をちょっと歩いて帰ることにしているんですよ。博物館があるのは新高島駅の近くですから、散歩には丁度いいくらいの距離ですし、海風も気持ちいいですしね」
紀之定さんの言葉は、私にはちょっと意外なものだった。
新高島駅ということはみなとみらい線だから、電車に乗ってみなとみらい駅で降りれば、すぐに着くだろう。
その方がわざわざ歩かなくて済むし、『乗り鉄』の人なら当然そうするものだと思っていたのだけど。
「『乗り鉄』の人って、移動にはとことん電車を使うイメージでしたけど、そうでもないんですね」
「中にはそういう人もいるとは思いますが、僕の場合は時と場合によりますね。隣の駅に行くために、半日近く電車に乗ることもありますけど」
隣の駅に行くために半日電車に乗るって、どういうことだろう。
終点まで行って、また戻ってを繰り返すのだろうか。
「どういうことですか?」
「JRには大都市近郊区間だけで通用する特例があって、実際の乗車区間に関わらず、最短経路の運賃が適用されるんです。これには乗車ルートは自由に選べる反面、重複してはいけない、途中下車はできないというルールがあるので、そのルールの範囲内でいろいろな遠回りをして、電車に乗ることを楽しむんですよ。俗に『大回り乗車』と呼ばれているのですが、『乗り鉄』の人にはよく知られた遊びなんです」
隣の駅に行くのに半日かけるというのは、ある意味とても贅沢な時間の使い方だけど、仕事や旅行でもないのに半日ずっと電車に乗ってるなんて、お尻も痛くなりそうだし、何より退屈しそうだ。
私はよく平気だなあと妙な感心をしながら、大きなショッピングセンターを横目に左手に曲がると、紀之定さんに問いかける。
「そうやって半日電車に乗ってる時って、いつも何してるんですか?」
「景色を眺めたり、あとはミステリー小説を読んだりしています」
そう言えば「電車に乗ってミステリー小説を読むのが好き」だという話は、前に聞いた覚えがある。
半日も電車に乗っていたら、さぞかし読書が捗ることだろう。
電車についてはまだ勉強し始めたばかりだからよくわからないけど、ミステリー小説なら私もそれなりに読んできたから、このままこっちの話題に持って行くことができれば、話が続かなくて困ることはなさそうだった。
でもその前に目的のお店に着いて、私は紀之定さんに言う。
「ここです」
そこは、結婚式場に併設されているカフェだった。
結婚式場はパリの町中にでも建っていそうな、ベージュを基調としたモダン建築だけど、低層部は淡い茶色だ。
目当てのカフェはピンクがかった白い壁に、店のロゴとテラス席に張り出した庇の赤が鮮やかで目を引く。
お店の中がほとんど見えるくらい大きく切り取られた窓。
テラスには丸や長方形のテーブルが並び、日除けの大きな白いパラソルがあった。
店の出入り口から少し離れた所にはメニューを書いたブラックボードと、メニューが置かれた丸テーブルが置かれている。
そして店の出入り口の正面には「いらっしゃいませ 係の者が順番にご案内いたしますので、こちらでお並びになってお待ち下さい」と、日本語と英語で書かれたブラックボードがあった。
籐でできた椅子が十脚ばかりテラスの端と生け垣に沿って並べられていて、二十代から三十代くらいの男女に八割方占領されている。
スマートフォンで時間を確認すると、まだ開店時間には少し早かったけど、ネットでオススメされているようなお店だから、やっぱり人気があるのだろう。
私が紀之定さんと一緒に空いていた椅子に腰を下ろすと、紀之定さんはお店を見回して言った。
「綺麗なお店ですね」
良かった。
気に入ってもらえたみたいだ。
私は紀之定さんに笑顔を向けた。
「ここ、結婚式場もやってますから、お料理も美味しいそうですよ」
「それは楽しみです。でも、ご馳走になるなんて、何だか申し訳ないような気もしますね。謎があったら教えて欲しいとお願いしたのは僕の方ですし、大したことをした訳でもありませんし」
「そんなことないですよ。紀之定さんのおかげで、友達もみんな悩みが解決して喜んでましたし、友達に代わってお礼させて下さい」
お礼というのは紀之定さんを誘うための口実だけど、みんなが感謝しているのは本当だし、友達が喜んでいたら私だって嬉しいし、別に心にもない嘘という訳でもなかった。
お礼と言ってもこれくらいのことしか私にはできないけど、ちょっとでも喜んでもらえたらいいなと思う。
「じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になります」
紀之定さんが笑顔でそう言った時、お店のドアが開いて、黒いベストとパンツに蝶ネクタイ、黒いエプロンに白シャツ姿のウェイターさん達が「いらっしゃいませ」という声と共に、お客さんを迎え始めた。
最初の方に並んでいた人達はもう人数や希望の席を聞いてもらっていたみたいで、どんどんお客さんがテーブルに案内されていく。
私はメニューを手に「いらっしゃいませ」と声を掛けてきてくれたウエイトレスさんに、二人連れであることを伝えたところで、紀之定さんに尋ねた。
「テラス席をお願いしようと思うんですけど、いいですか?」
「はい」
紀之定さんが快く頷いてくれたから、私達はウェイトレスさんの案内でテラスに出た。
強い日差しに肌を射られて暑かったけど、パラソルが作る影に入ると、海風のおかげもあって途端に涼しくなる。
勧められたのはテラスの奥の席で、ここなら人の出入りも少なそうだし、ゆったり寛げそうだった。
私達が向かい合って椅子に腰を下ろしたところで、紀之定さんも私の向かいに座ったところで、ウェイトレスさんはテーブルに二人分のメニューを置くと、会釈をして去って行く。
私はざっとメニューに目を通すと、紀之定さんに言った。
「私、ランチコースにしようと思うんですけど、良かったら一緒にどうですか?」
コースは食前酒から始まって、前菜、副菜、主菜、デザートにコーヒー又は紅茶が出てきて時間がかかるから、連れの人が同じ物を頼んでくれないと頼み辛い。
このお店で一番高いメニューだから、懐はちょっと痛いけど、少しでも長く紀之定さんといたいし、できれば一緒にコースを頼んで欲しかった。
紀之定さんにも好みがあるだろうし、無理強いするつもりはないけれど。
「あの、もしかして嫌いな物入ってたりしますか?」
「いえ、好き嫌いはあまりないので、大丈夫ですよ。僕も同じ物にします。では、注文してしまいましょうか」
紀之定さんが軽く手を上げてウェイトレスさんを呼ぶと、ウェイトレスさんは水を二つと、二人分のナイフやフォークを乗せたトレイを持ってやって来た。
紀之定さんがランチコースを二つ注文すると、ウェイトレスさんは「かしこまりました」と返事をしてから、持ってきたお水や食器をてきぱきとテーブルに並べる。ウェイトレスさんが会釈をして立ち去ると、私は紀之定さんに軽く頭を下げた。
「我儘に付き合わせてちゃってすみません」
「いえ、僕も美味しそうだなと思っていましたから」
本心なのか、単に気を遣ってくれているだけなのかはわからないけど、如才ない人だなと思っていると、ウェイトレスさんがトレイに二人分のスパークリングワインを乗せて運んできた。
「お待たせ致しました。食前酒のスパークリングワインです」
ウェイトレスさんが私と紀之定さんの前にそれぞれスパークリングワインを置いて立ち去ると、紀之定さんはおしぼりで手を拭きながら言った。
「あの、確かこの間十九歳だというお話をされていましたよね? 今年で二十歳になるとはいえ、未成年で飲酒はお勧めしませんが……」
「それなら大丈夫です」
私は紀之定さんと同じように手を拭きながら続けた。
「私、今月の六日で、二十歳になりましたから」
「それはおめでとうございます。じゃあ、乾杯しましょうか」
紀之定さんがグラスを持ち上げると、私も同じようにグラスを手に取って、軽く触れ合わせた。
澄んだ硬い音が小さく響くと、私はグラスを傾けて、スパークリングワインを口にする。
初めて飲んだけど、ほんのり甘くて炭酸も入っているから、ジュースみたいで思ったより飲み易かった。
「美味しいですね」
「ええ。普段はあまりお酒は飲まないのですが、たまにはこうして昼間から飲むのもいいですね」
紀之定さんはもう一口ワインを飲んだけど、私はそのままグラスを置いて、紀之定さんにミステリーの話題を振ってみた。
「あの、前に『日常の謎』系のミステリーが好きってお話されてましたけど、殺人事件が起こるようなミステリーは読まないんですか?」
「そんなことはありませんよ。でも殺人事件が起こるということは、紙の上とはいえ死人が出る訳で、ちょっと悲しくなると言うか……最後に犯人の罪が明らかになって逮捕されたとしても、死んだ人が生き返る訳ではありませんし、ハッピーエンドは言えない気がして、どうしても後味の悪さを感じてしまうんですよね。我ながら考え過ぎだとは思うのですが」
紀之定さんは微苦笑してそう答えた。
殺人事件が起こるミステリー小説なんていくらでもあるし、場合によっては一冊の本の中で何人も人が死ぬこともそう珍しくないから、いちいち可哀想だなんて思わないけど、紀之定さんは本当に心の優しい人なのだろう。
「そういうことなら、『日常の謎』系ミステリー好きなのも納得ですね。私もミステリーが結構好きでいろいろ読むんですけど、『日常の謎』系って本当に日常のちょっとしたことが題材になってますから、『こういう切り口があるんだ!』ってびっくりすることも多いですし、面白いです」
「そうですよね。『日常の謎』系って、ほのぼのとした人情話だったりすることもありますし、そういうところも好きなんです。綺麗な物語を読むと、自分も少しだけいい人間になれるような気がするので」
「ああ、わかります。そういうの。本当に心が洗われるって感じですよね。あの本読みました? あの下町を舞台にした……えーと、タイトル何でしたっけ」
「あ、もしかして――」
こんな感じで会話は順調に続いた。
『日常の謎』系に限らず、いろいろなミステリー小説の話をして、美味しい料理がなかなか減らないくらい話が弾んで、とても楽しかった。
紀之定さんも同じように楽しんでくれていたらいいと思う。
私一人が楽しくても、紀之定さんが楽しくなかったら、きっともう次はない。
本当に楽しかったけど、それだけが気掛かりだった。
私が会計を済ませて日傘を手に店の外に出ると、一足先に店を出ていた紀之定さんが笑顔で言った。
「どうもご馳走様でした。美味しかったです」
「喜んでもらえて良かったです」
私は笑顔を返して歩き出したけど、これ以上紀之定さんを引き留めておく理由がなくなってしまったことが本当に残念だった。
初めて長い時間一緒にいたから、余計に離れ難い。
できればもっと一緒にいたいけど、あまり欲張ったら嫌われてしまうかも知れなかった。
私が気持ちを整理しながら駅に向かって歩いていると、紀之定さんが訊いてくる。
「まだ日も高いですし、良かったら少し一緒に歩きませんか?」
あんまりびっくりして、私は一瞬息が止まった。
これはつまり、紀之定さんももう少し一緒にいたいと思ってくれていると考えていいのだろうか。
とても嬉しいのに何だか恥ずかしくて、まともに紀之定さんの顔が見られなかったけど、私は何とか答えを口にする。
「……いいですね。せっかくですから、さっき紀之定さんがお話してた博物館に行ってみますか?」
「僕は楽しいですけど、それだと小桜さんが退屈でしょう」
うわ、初めて苗字を呼んでもらえた。
私が初めて紀之定さんのことを知った時には、紀之定さんは私のことなんて全然知らなかったのに、こんな日が来るなんて本当に夢みたいだ。
私がささやかな幸せに浸っていると、紀之定さんが続けて言う。
「山下公園はどうですか? 天気もいいことですし、散歩するには良さそうです」
「そうですね、久し振りに行ってみたいです」
「じゃあ、決まりですね」
こうして、私達は山下公園に向かうことになった。
山下公園は、関東大震災のがれきを使って作られた大きな公園だ。
海のすぐ側にあって、横浜ベイブリッジや港を出入りする船も見られるし、童謡でお馴染みの『赤い靴はいてた女の子の像』や、姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られた『水の守護神』のモニュメントなどもある。
バラの名所としても知られていて、春と秋にはたくさんの人々の目を楽しませていた。
大さん橋を横切り、なだらかなスロープを下りて山下公園に入ると、そこには広い芝生や遊歩道が広がっていて、ひんやりとした海風が遮られることなく吹き付けてくる。
すぐ近くにはコンビニがあって、奥にはインド水塔があった。
関東大震災の時、横浜市がインド商人を始めとする外国商人救済措置を積極的に講じたお礼に、インド商組合から寄贈されたものだそうで、青銅の円蓋が異国情緒を漂わせている。
その前の広場では大道芸のパフォーマーさんが、丁度手品を披露しているところだった。
ここは週末になるとパフォーマーさんが集まってきて、何かしらの大道芸が見られることが多い。
特に時間は決まっていないみたいだから、見られるかどうかは運次第だけど。
紀之定さんは興味深そうな目をパフォーマーさんに向けて言った。
「せっかくですから、ちょっと見て行きましょうか」
「はい」
私は紀之定さんと一緒に手品を眺める人達の輪に加わると、紀之定さんに尋ねる。
「手品、好きなんですか?」
「結構好きですよ。どういう仕掛けになっているのか、あれこれ考えながら見ると楽しいですし。邪道かも知れませんけどね」
いかにも紀之定さんらしい楽しみ方だなあと思っていると、パフォーマーさんが六十代くらいのおじいさんに、手品の手伝いをして欲しいと声を掛けた。
奥さんらしいおばあさんと一緒に手品を見ていたその人は、白杖を持っていて、両目は固く閉じられている。
おじいさんは戸惑っているようだったけど、半ば押し切られるような形で、手品の手伝いをすることになった。
おばあさんに手伝ってもらって、脚がすっかり隠れるくらい長いクロスの掛かったテーブルの前の椅子にゆっくりと腰を下ろすと、パフォーマーさんももう一つ椅子を出しておじいさんの隣に座った。
そうして、おじいさんの目の前で何かの力を与えるように指をひらひらと動かしてから、インカムマイクを通して元気良く宣言する。
「さて、こちらのお客様は、今僕の魔法で目が見えるようになりました!」
パフォーマーさんは、今度はおじいさんに向かって言った。
「僕がサイコロを振って、三より小さい目が出たら指を一本立てて下さい。逆に三より大きな目が出たら、指を二本立てて下さい。わかりましたか?」
「はい」
おじいさんは小さく頷いたけど、周りからは困惑の声が漏れた。
目が見える人には何てことない簡単なことだけど、目が見えない人にはとても無理だろう。
でも、パフォーマーさんはそんなことにはお構いなしで、どこからともなく取り出したサイコロを躊躇いもなく振った。
大人の握り拳くらいの大きさのサイコロは、少し離れた所からでもはっきりと目の数がわかる。
パフォーマーさんは黙ってサイコロを取り上げると、私達にサイコロを見せた。
出た目は四。
「さあ、出た目は三以上でしたか? 三以下でしたか?」
パフォーマーさんがそう尋ねると、見えていない筈なのに、おじいさんは黙って指を二本立てた。
観客達がどよめく中、パフォーマーさんは軽く手を叩きながら言う。
「お見事です! でも一回だけだと、まぐれで当たっただけかも知れませんよね? もう何回か試してみましょう!」
パフォーマーさんがもう一度サイコロを振ると次の目は一、その次は六の目が出たけど、おじいさんはやっぱりどちらも見えているみたいに正しい数の指を立てて見せた。
目は見えていない筈なのに不思議だなあ、凄いなあとすっかり感心していると、これで手品はお終いらしく、パフォーマーさんは立ち上がって言った。
「さて、名残惜しいですが、これで今日のパフォーマンスは全て終了となります! お手伝い下さったお客様にどうぞ拍手を! ありがとうございました!」
パフォーマーさんが一礼すると、あちこちから拍手が沸き起こった。
手品の小道具を入れていたらしい黒い箱の中に観客が思い思いの金額を入れていく中、紀之定さんがお財布から千円札を出して箱の中に入れると、私も同じように千円札を入れる。
今まで大道芸にお札を払ったことはなかったけど、さっきのパフォーマンスは本当に凄いと思ったし、これくらいは妥当な額だろう。
帰り際に何気なくさっきのおじいさんの方を見ると、立ち上がったおじいさんは「ありがとう、楽しかったですよ」と言って、嬉しそうな顔でパフォーマーさんに頭を下げていた。
その隣で、涙ぐむおばあさんがおじいさんと同じように頭を下げる。
二人に喜んでもらえて、パフォーマーさんもとても嬉しそうだ。
私はいい物を見たなあと、ほのぼのとした気持ちで歩きながら、隣を歩く紀之定さんに言った。
「凄かったですね。さっきの手品、タネわかりました?」
「ええ、多分」
流石紀之定さんだ。
私には何が何だかさっぱりわからなかったけど、あっさりタネを見破ったらしい。
「あれ、どうやってたんですか?」
「多分、あのパフォーマーさんがクロスに隠れたテーブルの下で、こっそりおじいさんに合図を出していたんですよ。『サイコロを振って、三より小さい目が出たら指を一本、逆に三より大きな目が出たら指を二本立てる』というルール説明をしながら、きっと足を使ってどういう合図を出すか、あのおじいさんにだけわかるように伝えたんです。後はサイコロを振って、取り決め通りの合図を出せば、目が見えない筈のおじいさんが、あたかも本当に目が見えているかのように、正しく指を立てられるという訳ですね」
なるほど。
言われてみれば確かに、目が見えている人に正しい答えを教えてもらう以外に、目の見えない人がサイコロの目の数を知る方法はないだろう。
さっきのパフォーマーさんやおじいさんに訊けば、答え合わせは簡単にできるだろうけど、それは野暮と言うものだった。
「本当に魔法みたいでしたけど、実は凄く簡単な手品だったんですね」
「そうですね。でもあの手品の本当の凄さは、ああしてパフォーマンスを手伝ってもらうことで、目の見えない人でも手品を楽しめることにあるのでしょうし、僕が今まで見た中で最高の手品だと思いますよ」
「そうですね。私もそう思います」
手品というのは、見る人に何かを錯覚させることで成立することが多いから、目が見えない人が手品を楽しむのはなかなか難しいだろう。
それをちょっとした発想の転換でやってのけたあのパフォーマーさんの機転や、目の見えない人にも手品を楽しんで欲しいと思える優しさを凄いと思えたし、そのことに気付かせてくれた紀之定さんを尊敬せずにはいられなかった。
紀之定さんはとても聡明な人だから、私が気付かないような人の優しさや悲しさ、愛しさをいつも教えてくれる。
やっぱり好きだなあと、私は改めてそう思った。
山下公園をぐるりと一周してから、私達は一緒に帰りの電車に乗った。
実はこの辺から家に帰るなら、みなとみらい線に乗った方が駅から近いのだけど、紀之定さんは横浜線だから、少しでも長く一緒にいたくて、私も敢えて横浜線に乗ることにしたのだ。
まだ三時前だから、電車はそれ程混んではいなかったけど、座れる程空いてもいなくて、私と紀之定さんはいつかみたいに並んで吊り革に掴まる。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
紀之定さんは優しい笑顔でそう言った。
こんな笑顔で「楽しかった」なんて言われたら、嬉しくならずにはいられない。
私は紀之定さんに笑顔を返した。
「私も楽しかったです。友達には本好きの子が多いんですけど、ミステリー好きの子はあまりいなくて、今までああいう話はなかなかできませんでしたし」
「僕の友達にもミステリー好きはいませんから、僕もミステリーの話がたくさんできて嬉しかったですよ」
勉強を始めたばかりだから、鉄道関係の話にはまだまだ付いて行ける気がしないけど、今日話した感じだと割と本の趣味は合うみたいだし、ミステリーの話題を中心にすれば話のネタに困ることはなさそうだった。
ミステリー好きで良かったとつくづく思う。この感じなら、「ミステリーについて語り合いたい」と言えば、また誘っても大丈夫かも知れない。
私は「良かったら、また会ってくれませんか?」と言おうとしたけど、やっぱり言葉は出て来なかった。
暗号でならちゃんと言いたいことを伝えられるのに、声に出して言うのはどうしてこんなに難しいのだろう。
この流れなら別に不自然じゃないだろうし、せっかくのチャンスなのに。
踏ん切りが付かずにぐずぐずしている間に、電車が最寄り駅に着いてしまった。
時間切れで、私は仕方なく別れの言葉を口にする。
「それじゃあ、また」
「ええ、また」
私は紀之定さんに手を振ると、後ろ髪を引かれる思いで電車を降りた。