第六話 手紙
今日の講義は午後からで、私は十二時過ぎに大学の最寄り駅に着いた。
大学の側を通っているのはモノレールの路線で、駅の西側は私が通っている大学に、東側はまた別の大学に直結している。
この駅で降りるのは大抵学生や院生だし、三限が始まるまでまだ一時間以上あるから、降りる人はそれ程多くはなかった。
私がエスカレーターを上がって改札に向かっていると、釉さんと絃花ちゃんが一緒に階段を上がってくるのが見えて、私は軽く手を振りながら小走りで二人に駆け寄る。
私に気付いた二人と挨拶を交わすと、揃って改札を通り、コンビニ前を右に曲がった。
私は釉さん達と並んで緑に彩られた遊歩道を歩きながら、改まった口調で二人に切り出す。
「ねえ、ちょっと訊きたいんだけど、駅とか電車にまつわる暗号って聞いたことない?」
「うーん、ちょっとわかんないなあ」
釉さんが首を捻る横で、絃花ちゃんも言った。
「悪いけど、私もそっち方面には詳しくないし……それってやっぱり例の駅員さん絡みなの?」
「まあね。お茶やご飯に誘おうとしたんだけど、口じゃどうしても言えなかったし、手紙も上手く書けなくて……だから、暗号なら書けるかなって思ったんだ。暗号なら、書くのはそのものズバリの内容じゃなくていいから、もうちょっと気楽に書けそうだし」
あまりの意気地のなさに自分に腹が立ってくるけど、お茶やご飯に誘うだけでこれだと、告白なんてできる気がしなかった。
でも暗号で手紙が書けたら、告白だってできるかも知れないし、頑張ってみる価値はあるだろう。
「なるほどね」
釉さんが腑に落ちた様子で続けた。
「例の駅員さん、ミステリー好きなんでしょ? そういう人なら面白がってくれそうだし、いいアイディアだと思うよ」
絃花ちゃんも小さく頷いて言った。
「だね。そこから話も広がりそうだし。でも、暗号作るのって難しそう」
「そうなの。全然思い付かなくて困ってるんだよ。だからお願い、手伝って!」
私が二人を拝むと、二人は揃って困惑を露わにした。
「そりゃ、手伝ってあげたいのは山々だけど、暗号なんて作ったことないし……」
釉さんが歯切れ悪くそう言うと、今度は絃花ちゃんが口を開いた。
「私達に訊くよりネットに訊く方が確実じゃない? ちょっと検索すれば、暗号の作り方なんていくらでも出て来そうだけど」
「それは勿論一番最初に試したよ。でも五十音図に数字振るとか、読む時にアルファベット表や五十音図の前後にいくつかずらして読むとか、ほとんどどっかで見たことあるようなヤツばっかりなんだもん。ちょっと安易過ぎる気がして、イマイチなんだよねえ」
私だって一応ミステリー好きの端くれだし、あんまり陳腐な暗号は使う気になれなかった。
紀之定さんだって、どこかで見たことがあるような暗号より、そんなに出来が良くなくてもオリジナリティーのある暗号の方が、多少なりとも解き甲斐があっていいと思うし。
でも、釉さんは難しい顔で言った。
「変に拘り過ぎじゃないの? プロのミステリー作家だったら、そんなありふれた暗号なんか使えないって言うのもわかるけどさ、きっとその駅員さんだってごく普通の女子大生が高度な暗号作れるなんて思ってないだろうし、作って欲しいとも思ってないと思うよ?」
「釉さんが言うこともわかるけど、暗号じゃなくて台詞に置き換えて考えてみてよ。今時『君の瞳に乾杯』なんて陳腐な台詞言われても全然ときめかないし、そんなの寧ろギャグでしょ? ありふれた暗号がギャグとまでは言わないけど、何の努力もセンスも感じさせないような暗号で誘われても、好感度は上がらないどころか、がっかりするだけじゃない?」
せっかく自分をアピールできる機会なのだから、どうせなら少しでも紀之定さんに好感を持ってもらえるような暗号にしたかった。
ああいう人なら、私が込めたメッセージ以上のものを暗号から読み取れそうだし。
「あー、なるほど。そういうことなら確かに納得だなあ」
釉さんはそう言ったけど、絃花ちゃんはまだ得心が行かない様子で訊いてきた。
「ねえ、『ほとんど在り来たりなヤツばっかりだった』ってことは、ちょっとは斬新なヤツもあったんでしょ? それ使わせてもらえばいいんじゃないの?」
「それも考えたんだけど、鉄道オタクの人だからできれば電車に関わる謎にしたいんだよ。やっぱり好きな物に関係してる物の方が、気に入ってもらい易いと思うし。でもここひと月くらい鉄道関係の本読むようになった程度だと、なかなか難しいんだよねえ」
我ながら捻りのない発想だけど、鉄道業界の専門用語がヒントにならないかと思って、いろいろ調べてみたりもした。
用語の作り方に法則性があれば、その法則を利用できるかも知れないと思ったから。
でも鉄道用語で「車掌」さんが「レッシャ ヂョウムイン」を縮めて「レチ」と呼ばれているように、最初の一文字と途中の一文字を取ってできている用語はちょくちょくあるものの、「出札」は「サツ」と呼ばれていたりして、全ての用語に当て嵌まる法則は見付けられなかった。
まあ、仮に全ての専門用語が最初の一文字と途中の一文字からできていたとしても、あまりにも面白味のない単純な規則性だから、結局この作り方は断念してしまったかも知れないけれど。
これがただ鉄道クイズを作るだけだったら、もっと簡単だったと思うけど、鉄道の知識を使いつつ暗号を作って紀之定さんを誘うというのは、かなり難易度が高い。
随分あれこれと悩んだものの、どうしてもいい案が浮かばなくて、何とか二人の力を借りたいところだった。
でも絃花ちゃんは眉間に皺を寄せたまま言う。
「暗号作るのに慣れてる人ならともかく、そうじゃないのにオリジナリティがあって電車絡みの暗号がいいって、ちょっと背伸びし過ぎてない? 拘りたいのはわかるけど、せめてどっちか一つはあきらめたら? 下手したら、誘えた頃にはおばあちゃんになってるかも」
絃花ちゃんがそう苦言を呈すると、釉さんもうんうんと頷きながら言った。
「そうそう、私達国文専攻なんだし、和歌や俳句にちなんだ謎にしてみれば? それなら私達でも手伝えるかも」
「五十音図じゃなくて、鳥啼歌に数字振って暗号作るのは? いろは歌程メジャーなものじゃないから、ちょっと反則かも知れないけど、ヒントに鳥の絵でも描いておけば、ちょっと調べればわかりそうだし」
鳥啼歌は、簡単に言えばいろは歌の別バージョンだ。
いろは歌より一文字多い、「ん」の字を含んだ四十八文字が一回ずつ使って作られている歌で、戦前にはいろは歌と一緒に使われていたという。
確かに国文学専攻らしい暗号だし、悪くないと思ったけど、やっぱり電車絡みの暗号に未練があって、すぐには踏ん切りが付かなかった。
「変なこと訊いてごめんね。もうちょっと考えてみるよ。ありがと」
私はそう言うと、話を変えた。
その日の帰り。
私は最寄り駅に向かう帰りの電車に揺られながら、考えごとをしていた。
夕方の空から降ってくる赤い光が、人や物の影を電車の床に落としている。
そろそろ帰宅ラッシュに差し掛かろうかという時間帯だから、電車の中はそれなりに混んでいて、私は座れずに吊り革に捕まっていた。
何か暗号のヒントになりそうなものはないかと、それとなく電車の中を見回して探してみたけど、車内にあるのは吊り革、網棚、車内広告、座席シートといった、どう考えても暗号には使えそうにない物ばかりだ。
やっぱり、電車に関する物で暗号を作るのは無理なのかも知れない。
私が小さく溜め息を吐いたところで、電車が最寄り駅に着いた。
前の人に続いて電車を降りた私は、あきらめ悪く暗号の手掛かりを探してホームを歩き始める。
あちこちに視線を走らせながら足早に歩いていると、ふと高く掲げられた駅名の看板が目に留まった。
これなら暗号に使えるかも知れない。
二日後の昼。
今日も講義は三限からで、私は十一時前に最寄り駅に着いた。
改札に差し掛かると、改札の向こうでお客さんの案内をしている紀之定さんの姿が目に入る。
ただそれだけで、私は速かった鼓動が一層速くなるのを感じた。
紀之定さんは右手のエスカレーターの方を指差しながら何か言っていて、多分乗り換えの説明をしているのだろう。
インターネットに馴染んだ世代なら、ちょっと検索すれば乗り換えのホームまで出てくるから困ることはそうないだろうけど、見たところ八十歳くらいのおじいさんだから、わからなくても不思議はなかった。
この駅は二つの路線が通っているけど、同じホームに異なる路線の電車が乗り入れていたりして、乗り換えがわかり難いところがある。
改札を通った私は、紀之定さんが笑顔でおじいさんを見送るのを待って、どきどきしながら紀之定さんに声を掛けた。
「こんにちは」
私に気付いた紀之定さんは、すぐに笑顔をこちらに向けて挨拶を返してくれる。
「こんにちは」
これまでに何度も繰り返したやり取りだけど、これから持って来た手紙を渡すと思うと、いつもより緊張して、胸が苦しくて仕方がなかった。
自分の鼓動がひどくうるさい。いきなりこんな手紙を渡したりして、変に思われないだろうか。
私は今にも震えそうな手で鞄のポケットから小さな封筒を取り出すと、おずおずと紀之定さんへ差し出した。
「……これ、私が作った暗号なんですけど、良かったら解いてみてもらえますか? 簡単過ぎて暇潰しにもならないかも知れませんけど」
顔が熱い。
とても真っ直ぐに紀之定の目を見ることはできなくて、俯いて何とかそれだけ言うと、私は祈るような気持ちで紀之定さんの言葉を待った。
紀之定さんは封筒を受け取ると、いつもと同じ優しい声で言う。
「ありがとうございます」
やっと渡せてほっとしたけど、同時にとうとうやっちゃったという後悔にも似た思いが押し寄せてきて、私は少し泣きそうになった。
とても顔を上げられなくて、俯いたまま軽く頭を下げる。
「それじゃ、また」
私は小走りで、逃げるようにその場を立ち去ると、下りホームのエスカレーターに乗った。
足早にエスカレーターを下りると、丁度やって来た電車に乗り込む。
後ろでドアが閉まって電車が動き出すと、私は大きく息を吐いた。
電車はかなり空いていて、ドアの近くの席に腰を下ろしてから、あの暗号はちゃんと解いてもらえるかなと、ふと思う。
私が紀之定さんに渡した手紙には、
「日比谷線 都営三田線 銀座線 大阪環状線 りんかい線 大阪環状線 南北線 大阪環状線 大阪環状線 りんかい線 都営大江戸線 都営三田線 銀座線 都営浅草線 都営新宿線 日比谷線 都営三田線 東西線(東京メトロ) 都営浅草線 都営三田線 奈良線 都営大江戸線 都営新宿線 ゆりかもめ
都営三田線 都営新宿線 都営新宿線 日比谷線 大阪環状線 南北線 都営三田線 銀座線 大阪環状線 日比谷線 都営浅草線 南北線 奈良線 大阪環状線 ゆりかもめ 奈良線 都営大江戸線 都営新宿線 ゆりかもめ 名古屋市営地下鉄上飯田線 都営浅草線
OHENJIOMACHISHITEIMASU」
と書いてあった。
ただ日本各地のいろんな路線の名前が書いてあるだけの暗号だけど、鉄道オタクの紀之定さんなら、文末のローマ字表記のアルファベットを見てすぐにピンと来ただろう。
これは駅ナンバリングの路線記号を使った暗号なのだ。
二〇二〇年のオリンピックで外国人旅行者が増えることを見越して、首都圏エリアでは二〇一六年から順次アルファベットと数字を組み合わせた駅ナンバリングが導入されている。
首都圏だけでなく、地方の路線でも駅ナンバリングは導入されていて、ネットで日本全国の路線記号を調べたら、簡単な文章を作るのに困らない程度のアルファベットが使われていたから、私はそのアルファベットを使って暗号を作ったのだった。
答えは「日頃のお礼がしたいです 一緒にご飯どうですか」。
お世辞にも洗練されているとは言えないけど、駅ナンバリングを使った暗号なんて聞いたことがないし、多少なりとも頑張りを評価してもらえるといいなと思う。
私の名前と連絡先も一緒に書いておいたから、OKだったら連絡が来る筈だけど、紀之定さんには仕事があるし、どんなに早くても連絡があるのは夜だろう。
夜になるのが待ち遠しかった。
今日のお昼は、学食のビルの一階にある食堂にしようということになった。
カレーライスやラーメン、うどんといった定番メニューばかりで、ここでしか食べられないような特別なメニューは特にないけど、味もボリュームもそこそこだし、ほとんどは五百円以下で食べられる。
いかにも学食らしいお店だった。
私が自動ドアをくぐると、美味しそうな匂いと一緒に喧噪が押し寄せてくる。
丁度お昼時だから、空いている席を見付けるのは大変そうだ。
一人分ならまだしも、三人分だし。
どこかいい席はないかなときょろきょろしていると、同じように席を探している釉さんと絃花ちゃんに気付いて、私は二人に後ろから声を掛けた。
「おはよ!」
振り返った二人が挨拶を返してくれたところで、私は早速報告した。
「あのね、さっきとうとう例の駅員さんに手紙渡しちゃった!」
「お、今日はそれでテンション高いんだ」
にまにまと笑いながら釉さんにそう言われて、私はちょっと恥ずかしくなった。
「……私、そんなにいつもと違う?」
「うん、ちょっとね」
絃花ちゃんは小さく頷いて続けた。
「上手く行くといいね」
「うん!」
私は大きく頷いた。
連絡があるのは早くて夜だとわかってはいても、ついそわそわしてしまって、今日の私は全然講義に身が入らなかった。
電車に乗っていても、ご飯を食べていても、お風呂に入っていても、紀之定さんから連絡があるんじゃないかと落ち着かなくて、ベッドに入ってもなかなか寝付けない。
どきどきして眠れなくて、枕元のスマートフォンを何度も覗き込んでいたら、いつの間にか窓の外が白くなり始めていた。
スマートフォンで時間を確認すると、まだ四時半前だ。
でも全然眠れそうになかったし、ただ横になっているのも飽きてきて、私はベッドから出ることにする。
とうとう一晩連絡がなかったけど、昨日は泊まり勤務の日で連絡するどころではなかったのかも知れないし、まだちょっとだけ希望を持っていてもいいだろう。
本音を言うと、これはフラれたなとも思うけど。
私はパジャマを脱ぎ捨てると、クローゼットを開けた。
今日は一限から講義があって、私は七時半頃に最寄り駅に着いた。
紀之定さんがいてくれたらと思う反面、昨日の今日だと顔を合わせ辛くて、今日ばかりはいて欲しくないとも思う。
寝不足の頭は重かったし、体はだるかったけど、私は急いで改札を抜けると、脇目も振らずに下りホーム行きエスカレーターを下りた。
朝のラッシュの時間帯だから、ホームはかなり混雑していて、これなら紀之定さんがいたとしても、そう簡単に鉢合わせすることはないだろう。
いつもは鬱陶しい朝の混雑が、今日ばかりはちょっとだけ有難かった。
今日はとにかく足が重くて、ついだらだら歩いてしまい、大学に着いて教室のドアを開けると、釉さんと絃花ちゃんはもう先に来ていた。
小さな教室の真ん中辺りにある三人掛けの白いテーブルに並んで座っていて、一番奥の席に鞄を置いて、私の席をキープしてくれている。
学生はもうほとんど揃っているみたいで、私は釉さん達に挨拶しながら、荷物をテーブルに置くと、キープしてくれていた席に腰を下ろした。
思わず溜め息を吐いたところで、絃花ちゃんが恐る恐るといった風に訊いてくる。
「大丈夫? 何だか眠れてないみたいだけど……」
絃花ちゃんはストレートな質問をしてくることこそなかったけど、二人には昨日紀之定さんに手紙を渡したことを話してあったし、私の様子を見れば寝不足の理由は大体見当が付くだろう。
絃花ちゃんなりに気を遣ってくれているのだろうけど、その優しさが少し辛かった。
いっそ「フラれたの?」と訊いてもらった方が、自分で言わなくて済む分マシだ。
私が絃花ちゃんに顔を向けた丁度その時、鞄の中のスマートフォンが小さく振動した。
もしかしてと思って、引っ張り出したスマートフォンの画面を見てみると、メッセージが届いている。
慌てて開いてみると、ずっとずっと待っていたメッセージだった。
「おはようございます、紀之定千尋です。昨日は泊まり勤務でしたから、お返事がすっかり遅くなってしまいました。どうもすみません。
有楽町線 大阪環状線 りんかい線 大阪環状線 名古屋市営地下鉄上飯田線 大阪環状線 南北線 奈良線 都営大江戸線」
紀之定さんがこうやって連絡をくれただけで少し泣きそうになったけど、そこに書かれていた暗号に私は少し冷静さを取り戻した。
きっと紀之定さんは私の暗号を解読した上で、同じ暗号を使って返事を書いてくれたのだろう。
私が使っていない路線も書かれていて、すぐには解読できなかったけど、ネットで調べればすぐにわかった。
答えは「喜んで」。
それがわかった途端、喜びがとめどなく溢れ出して、今度こそ涙になった。
「え、何何? どうしたの?」
らしくなく狼狽えまくる釉さんに続いて、絃花ちゃんも心配そうに訊いてくる。
「今日はもう帰る?」
「大丈夫。悲しいことがあった訳じゃないから」
私は頬を伝う涙を指で拭いながら続けた。
「例の駅員さんから返事が来たの。OKだって」
「ホントに? やったじゃん!」
釉さんが荒っぽく私の肩を叩くと、絃花ちゃんもぱちぱちと手を叩いて祝福してくれる。
「良かったねー、おめでとう!」
「ううぅ、ありがとう。頑張って良かったよおぉ!」
まだ一緒にご飯に行くことになっただけで、付き合うことになった訳じゃないけど、私にとっては大き過ぎる一歩だ。
もうテンションが上がり過ぎて、昨日とは別の意味で講義どころじゃない。
「そうだ! お祝いに、今日のお昼は私達が奢ってあげるよ」
絃花ちゃんの申し出に、釉さんも力強く頷いた。
「いいね。そうしよ。デザートも付けるよ」
「ありがと。じゃあ、ご馳走になるね」
ただご飯に行くだけなのに、何だか申し訳ないような気もするけど、お祝いしてもらえるのはやっぱり嬉しい。
私はうきうきしながら、紀之定さんへの返信を書き始めた。