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駅員探偵ー駅から始まる私の恋ー  作者: 佳景(かけい)
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第五話 貼り紙

 今日は一限から講義があって、私は七時半頃に最寄り駅に着いた。


 本当はもう少し遅く出ても間に合うけど、もしかしたら紀之定さんと話せる機会があるかも知れないから、少し早めに家を出るのがいつの間にか私の習慣になっている。


 改札を通る時、いつものように精算所を覗き込んだけど、紀之定さんの姿は見えなかった。


 話せなくても、顔が見られるだけでいいのに。


 私が少しがっかりしながら階段で下り電車のホームに下りていくと、マイクを通した紀之定さんの声が聞こえてきた。


 もうすぐ電車が来るらしい。


 駅員さんは何故か鼻にかかった濁声でアナウンスしている人が多いけど、紀之定さんの場合はいつも通りの声だった。


 落ち着いた優しい声は耳障りがとても良くて、もっと聞いていたくなる。


 機嫌良く階段を下りていた私は、階段横の壁にA4サイズのコピー用紙が貼ってあるのに気が付いた。


 コピー用紙の真ん中には、黒いマジックで書かれた手書きの数字が四つ並んでいる。


 「―」の下に「・」があるちょっと変わった「1」に、「―」を三本に「・」一つと「―」一本で書かれた「2」、「―」一本の次に「・」が一つと「―」二本で書かれた「3」、「・」一つに「―」一本と「・」一つに加えて「―」二本で書かれた「4」の四つだ。


 コピー用紙の下の方にはこれもまた手書きで「5月28日 7時半」と書かれていたけど、こっちの数字は「―」や「・」を使わずに、普通に書かれていた。


 しかもどういう訳かその紙は、上下が逆さまに貼られている。


 どう見ても広告のポスターには見えないし、きっとイタズラだろう。


 剥がしておいてあげた方が良さそうだ。


 私がコピー用紙に手を掛けると、紙は輪になったガムテープを残して簡単に剥がれた。


 ついでにガムテープを剥がしながら、もしかしてこれも紀之定さんの好きな謎なのかなとふと思う。


 ここに書かれているものは、私には只の数字の羅列にしか見えないけど、紀之定さんなら何かのメッセージを読み取れるのかも知れなかった。


 私がすっかりガムテープを剥がし終えたところで、電車から降りた人達が階段にやって来て、電車の発車を知らせるメロディが聞こえる。


 急げば乗れそうだったけど、次の電車でも十分間に合うし、私はゆっくりとホームに下りた。


 丁度その時ドアが閉まって、電車が出て行くのが見える。


 私が階段を回り込むと、赤い旗を持った紀之定さんは、出て行く電車の車掌さんに挨拶をしているところで、私に気付くとにこりと笑って会釈してくれた。


 ただそれだけで、私にとって今日は最高にいい一日になる。


 今日この後何が起こったとしても、余程のことがない限り差し引きゼロ以下にはならないに違いない。


 私は紀之定さんに軽く会釈を返すと、小走りで紀之定さんに駆け寄って言った。


「おはようございます。あの、階段の辺りにこんな物が貼ってあったんですけど……」


 私はさっきの貼り紙を紀之定さんに差し出して続けた。


「多分只のイタズラだと思いますけど、謎と言えなくもない気もしますし、一応お渡ししておきますね。あ、わざとなのか、うっかりしただけなのかわかりませんけど、逆さまに貼ってありました」

「ありがとうございます。お預かりします」


 紀之定さんは笑顔のまま、私の差し出した貼り紙を受け取った。


 大学に着いた私は、他の教室より少し広い教室のドアを開けた。


 講義が始まるまでまだ二十分くらいあるから、私の他には誰もいなくて、薄暗い。


 脚を床に固定された可動式の椅子が五脚ずつ並んだ、明るい茶色の細長いテーブルは、なだらかな段を作っていて、一段につきテーブルが四つずつ並んでいた。


 スペースが足りなかったみたいで、窓際の縦一列だけは椅子が三脚しかないけど。


 テーブルの先には教卓の置かれた教壇と、スライド式の黒板がある。


 私は電気を付けてから、一番後ろの窓際のテーブルに鞄を置いた。


 奥の席に腰を下ろすと、ノートとペンケースを隣とそのまた隣の席の前に置いて、釉さんと絃花ちゃんの分の席を確保しておく。


 暇潰しに鞄の中からミステリーの短編集を取り出して読み始めると、少ししてドアが開く音がした。


 釉さんか絃花ちゃんかなと、顔を上げてみたけど、入って来たのは話したこともない女の子だ。


 私が再び視線を本に落とすと、ドアが開く音が立て続けに聞こえる。


 その度に顔を上げていると、もう少し経ってから釉さんと絃花ちゃんが揃ってやって来た。


 家の場所はばらばらだから、きっとそこでばったり会ったのだろう。


 私が軽く手を振って二人に挨拶すると、二人も手を振り返して挨拶を返し、私の隣の席に絃花ちゃんが、その隣に釉さんが座った。


 私は本を閉じると、単刀直入に二人に訊く。


「ねえ、好きな人に脈があるかどうか簡単にわかる、いい方法ってないかな?」

「お、遂に行動に出る訳? やるねえ」


 釉さんがそう冷やかしてきたけど、私はどうにか平常心を保って言った。


「一応そのつもり。実行できるかどうかわかんないけど、例の駅員さんって今彼女いないんだって。だから脈がありそうだったら、告白してみようかなって思うんだけど、相手の気持ちを確かめる方法って知らない?」

「気持ちを確かめるも何も、『謎があったら持って来て』って言ってくれてる時点で脈あると思うよ? 前にも言ったじゃん」


 釉さんが少し呆れたような口調でそう言うと、今度は絃花ちゃんが言った。


「ありきたりだけど、ご飯とかお茶に誘ってみれば? 莉緒ちゃんなら『いつも謎を解いてもらってるお礼』っていう口実も使えるんだし、その分誘い易いでしょ?」


 確かに悪くない提案だと思ったけど、私はすんなり頷くことはできなかった。


 「二人きりで会おう」と誘うのは、ほとんど『好きです』と言っているようなものだろう。


 告白する時程じゃないだろうけど、これはこれで恥ずかしかった。


「もっとバレ難い方法ってないかな?」


 私の質問に、絃花ちゃんは難しい顔になった。


「あるかも知れないけど、ちょっと思い付かないなあ。この際ある程度バレるのはしょうがないんじゃない? こういうのが上手く行くのって、大概好きアピールしても相手が迷惑そうにしてなくて、最後の一押しで『好き』って言った時だと思うし」


 流石、つい最近バイト先で彼氏ができただけあって、絃花ちゃんの言葉には説得力があった。


 上京する時に別れてしまったそうだけど、岩手にも彼氏がいたそうだし、この三人の中では絃花ちゃんが一番恋愛経験が豊富だから、こういう時には頼りになる。


 単なる知り合いや友達として付き合うのと、恋人として付き合うのは全然違うし、確かにある程度気がある素振りを見せて、反応を見てみるというのは正しいやり方なのだろう。


 玉砕するとわかっていて、敢えて当たって砕ける必要もないし、紀之定さんだって気のない相手の告白を断るのは面倒に決まっていた。


 「好きだと言ってくれる人の気持ちを無下にするなんて酷い」なんて言う人もいるけど、自分が望まない愛情なんて重いし、鬱陶しいと思う人の方が多いだろう。


 少なくとも私はそうだし。


 私がそう考えていると、釉さんも言った。


「絃花の言う通りだと思うよ。よっぽど顔が好みだったら、いきなり告白しても上手く行くこともあるかも知れないけど、性格とか価値観が合わなかったら、結局別れるしかないじゃん? せっかく時々は話してて、全然知らない人って訳じゃないんだから、成功率上げるためにも踏み込んでみれば?」

「そうだね。今度思い切って誘ってみるよ」


 私は決意を込めてそう言った。


 




 次の日。


 今日の講義は午後からだけど、大学の図書館で少し自習がしたくて、私は九時半頃に最寄り駅の改札を通った。


 エスカレーターで下りホームに下りて行くと、紀之定さんが電車の乗車待ちの列に並んでいて、私は思わずときめいてしまう。


 紀之定さんはいつもの制服じゃなくて、初めて見る藍色のスーツ姿だったから。


 今日も予報だと結構暑くなるみたいだけど、まだ気温がそれ程高くないせいか、紀之定さんはきっちり青いレジメンタルタイを締めて、ジャケットも羽織っていた。


 手には黒い鞄。


 いつもと違う紀之定さんはとても新鮮で、かっこいい。


 プライベートな時に声を掛けたら迷惑かなとも思ったけど、こんな機会は滅多にないだろう。


 私はエスカレーターを下りると、思い切って声を掛けてみることにした。


「おはようございます」


 紀之定さんは急に話し掛けられて、少しびっくりしたみたいだったけど、私を見るとすぐに笑顔で挨拶を返してくれた。


「おはようございます」

「今お帰りですか?」

「はい。本当は九時上がりなのですが、引き継ぎや着替えがありますから、どうしてもこれくらいの時間になってしまうんです」


 紀之定さんはそう言うと、小さく欠伸をしてから少し決まりが悪そうに続けた。


「すみません。昨日は泊まり勤務で……少し睡眠不足なんです」

「大変ですね。駅に泊まったりもするんですか」

「ええ。終電までいると、帰る手段がなくなってしまいますしね。泊まり勤務の時は、朝の九時頃から業務を始めて、終電の後に仮眠を取ってから、始発前にまた起き出して、これくらいの時間に引き継ぎをして業務を終えるんです。泊まりではない、日勤の日もありますけどね」


 言われてみれば、電車が動いていないと出勤したくてもできないのだから、きっと他の鉄道会社も似たようなスケジュールを組んでいるのだろう。


 私はそう納得しつつ、紀之定さんをご飯やお茶に誘おうとしたけど、どうしても言葉が出て来なかった。


 「別に告白する訳じゃないんだから」と何度も自分に言い聞かせたけど、いざ紀之定さんを目の前にしてしまうと、思った以上に難しい。


 断られたら気まずくなりそうだし、今みたいに話し掛けられなくなるなら、このままの方がずっと良かった。


 でも、今のままだとこれ以上の進展は望めないかも知れない訳で、どちらを選んでも悩ましい。


 そんな私の葛藤を余所に、下り電車が滑らかな動きでホームに入って来た。


 前の人に続いて紀之定さんと一緒に電車に乗り込むと、中は満員という程ではないにしろ混んでいて、とても座れそうにない。


 私はともかく紀之定さんは疲れている筈だから、できれば座らせてあげたかったのだけれど。


 私が手近にあった吊り革に捕まると、紀之定さんも同じように吊り革に捕まって、動き出した電車の揺れに抗しながら切り出した。


「そう言えば、昨日の貼り紙のことなのですが……」

「ああ、あのイタズラですね」


「確かにイタズラの可能性もあると思いますが、もしかしたらそうではないのかも知れません。あの貼り紙、今日も同じ物が階段に貼られていたんですよ」


 私は少しびっくりした。


 てっきり昨日一日だけのことだと思っていたのに、ひょっとしたらあの貼り紙の主は何か明確な目的があって、ああして貼り紙をしているのかも知れない。


「あれ、今日も逆さまに貼ってありました?」

「はい」

「じゃあ、きっとわざと逆さまに貼ってるんですね。一回だけなら間違えて逆さまに貼っちゃうこともあるでしょうけど、二回も間違えて逆さまに貼るなんて、ちょっと考え難いですし。でも、どうしてわざわざ逆さまに貼ってるんでしょう? 『反対から読め』ってことですか?」

「僕も最初はそう思いましたけど、解読に当たって特に反対から読む必要はありませんでしたから、きっと他の意図でそうしているのでしょうね」


 やっぱり、あの貼り紙には何らかのメッセージが込められていたらしい。


 一体どうやってそのメッセージを読み解いたのか、私には見当も付かなかったけど、流石紀之定さんだ。


 私が感心していると、紀之定さんは続けた。


「多分、あれは逆さ看板と同じなんだと思います」


 聞き慣れない単語に、私は目を瞬かせた。


「逆さ看板って何ですか?」

「人の興味を引くために、わざと逆さまに設置した看板のことですよ。看板が逆さまになっていたら目立ちますし、誰でも気になるでしょう? あの貼り紙のメッセージからしても、きっと人に注目してもらうために、ああして逆さまに貼ってあるのだと思います」


 なるほど。


 そう言われれば納得だけど、逆さ看板なんて物があるなんて今初めて知った。


 名探偵なんて言われるキャラは単に推理力がずば抜けているだけじゃなくて、物知りだったりするものだけど、紀之定さんも例外じゃないみたいだ。


 単に私が無知なだけかも知れないけど。


「つかぬことをお伺いしますが、五月二十八日の七時二十五分に、あの階段の辺りに来られますか?」


 急に紀之定さんにそう訊かれて、私は戸惑いながら答えた。


「多分行けると思いますけど、それが謎解きに必要なことなんですか?」

「いえ、謎はもう解けていますから、決してそういう訳ではないのですが、僕一人で行くよりも一緒に来て頂いた方がいいと思うので。もし僕の推測が間違っていたら、無駄足を踏ませてしまうことになるでしょうし、お願いを聞いて頂く義理もありませんから、気が乗らないなら断って頂いて構いませんよ」


 何だかよくわからないけど、わざわざこんな頼み事をしてくるからには、きっとそれなりの理由があるのだろう。


 電車が減速してきているのを感じながら、私は言った。


「わかりました。絶対行きます」

「ありがとうございます。では、僕はここで降りるので」


 紀之定さんがそう言った時、電車がゆっくりと停まってドアが開いた。


 せっかく同じ電車に乗れたのにもうお別れなんて、残念で仕方がなかったけど、見送る以外にどうしようもない。


 私は寂しさを押し殺して、笑顔を作った。


「お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね」

「ありがとうございます。あなたもどうぞお気を付けて。それでは、失礼します」

「さよなら」


 私が軽く会釈をすると、紀之定さんも会釈を返してから、足早に電車を降りて行く。


 結局誘えなかったなあと、私は小さく溜め息を吐いた。






 その後は特に紀之定さんと話す機会がないまま、私は約束の五月二十八日を迎えた。


 せっかく紀之定さんに会えるのだから、今日こそはちゃんと紀之定さんを誘うつもりだったけど、いざ紀之定さんを前にしたら、また言えないかも知れない。


 ただ話すだけならちゃんとできるのに、内容がちょっと変わるだけで、どうしてこんなに難しくなるのだろう。


 手紙を書こうともしたけど、こっちも上手く書けなくて、私は結局手紙を書かずに駅に行った。


 改札を通る時に、上にある大きな時計を見ると、丁度七時二十分になるところだ。


 約束の時間には十分間に合う。


 ラッシュ時だけあって、駅はかなり混雑していて、私は人に押し流されるようにして、階段へと向かった。


 もうすぐ紀之定さんに会えると思うと、それだけで鼓動が速くなってくるのがわかる。


 私が階段を下り始めると、紀之定さんはもう先に来ていた。


 紀之定さんの姿を一目見られただけで、ひどく嬉しかったけれど、同時に今日こそはちゃんと誘わないといけないというプレッシャーを感じて、少し苦しくなる。


 私がドキドキしながら階段を下りて行くと、紀之定さんが立っているのは私が貼り紙を見付けたのと同じ場所だった。


 もしかしたら、あの貼り紙は毎日決まった場所に貼られていたのかも知れない。


「おはようございます」


 私が紀之定さんの一段上で足を止めてそう挨拶すると、私に気付いた紀之定さんが顔を上げて挨拶を返してくる。


「おはようございます。すみません、わざわざ来て頂いて」

「気にしないで下さい。大学に行くついでですから。紀之定さんこそ、お仕事は大丈夫なんですか?」

「はい。上司に事情を話して、少しだけ時間をもらって来ましたから」


 紀之定さんはそう言ったけど、私は腑に落ちないものを感じた。


 一体どういうことなんだろう。


 上司が許可を出してくれたということは、あの貼り紙が仕事に関係あるみたいだけど、何が何だかさっぱりわからなかった。


 私が紀之定さんに説明を求めようとした時、紀之定さんが誰かに声を掛ける。


「すみません、この一週間ずっとここに貼り紙を貼っていたのは君ですか?」


 私が振り返ると、高校生くらいのブレザー姿の男の子が、私が立っている段の二段上に立っていた。


 いかにも大人しそうな子で、どこか疲れたような、元気のない感じだ。


 他の人はみんな私達を避けて歩いて行くのに、この子だけが足を止めて私と紀之定さんを見ている。


 男の子が返事の代わりに、肩に掛けた鞄の中からあの貼り紙を取り出して見せると、紀之定さんは続けた。


「こちらの方が君の貼り紙に気付いて、わざわざ僕の所に持って来て下さったんですよ」


 訳がわからないけど、私がとりあえず男の子に会釈をすると、紀之定さんは更に言葉を継ぐ。


「君のメッセージは読みました。何か、僕達で力になれることはありますか?」

「大丈夫。ありがとう」


 男の子はその唇にあるかなしかの笑みを浮かべてそれだけ言うと、私と紀之定さんを避けて歩き出した。


「ちょっと待って」


 私は男の子を呼び止めた。


 今この子を行かせてしまったら、もう二度と会えないかも知れない。


 その前に一つ訊いておきたかった。


「何のために貼り紙をしてたの?」

「賭けだよ」


 男の子は一瞬だけ私を見てそう言うと、そのまま人混みに紛れて行ってしまった。


 疑問が解けるどころか、ますます訳がわからなくなって、私は紀之定さんに尋ねる。


「あの、何がどうなってるんですか?」

「彼、きっと電車に飛び込むつもりだったんですよ」


 紀之定さんの答えに、私は心底驚いた。


 呼ばれて来てみたら、人身事故の目撃者になるところだったかも知れないなんて、普通誰も思わないだろう。


 上司が紀之定さんに時間をくれたというのも、そういうことなら理解できた。


 人身事故なんて起こったら、ダイヤは乱れるし、死体の処理も大変だし、お客さんからのクレームも山のように来るに違いない。


 それを未然に防げるかも知れないなら、ほんのちょっと仕事を抜けるくらいのことは大目に見る気にもなれるだろう。


 得心が行ったところで、紀之定さんは続けた。


「あの貼り紙の「―」と「・」で書かれた数字、モールス信号だったんです。普通に書いたらバレバレですし、敢えて数字の形にすることでカムフラージュと、読み方の順番を示したんでしょうね。モールス信号は「―」と「・」だけを使って書き表される単純なパターンのものですから、逆から読むと全然別の意味になってしまったりもしますし」


 私もモールス信号というものがあることくらいは知っていたけど、日常生活で使うことはないし、あの「―」と「・」がモールス信号なんて思いもしなかった。


 私はすっかり感心して紀之定さんに言う。


「よくモールス信号なんて知ってましたね」

「いえ、決してきちんとした知識があった訳ではないんですよ。以前見た映画にモールス信号を使うシーンがあって、あの『トン・ツー・トン』の音を紙に書いたら、こういう感じになりそうだなと、試しにちょっと調べてみただけなんです」


 紀之定さんは少し居心地が悪そうな顔でそう言った。


 こういうあくまで謙虚なところもいいなあと思いながら、私は再び問いかけた。


「で、そのモールス信号で何て書いてあったんですか?」

「『タスケテ』、です。欧文式に解読してみても該当する文字が一部ありませんでしたから、和文式の解読で間違いないでしょう。あの貼り紙には『五月二十八日の七時半に助けて欲しい』というメッセージが書かれていたんですよ。『死ぬ』とは一言も書かれていませんでしたけど、彼は具体的な日時を指定して人の助けが必要になる事態が起こることを予見していた訳ですし、ここは駅です。駅係員としては大変残念なことですが、電車に飛び込んで命を絶つというのはよく知られた自殺の方法ですから、自殺しようとしていたというのはそう飛躍した推測ではないと思います。それに、彼は先程『賭け』だと言っていましたしね。きっと周りに助けてくれる人がいなくて、見ず知らずの人間の善意や気まぐれに期待して、賭けをしたのでしょう。もしあの暗号を解いた誰かが五月二十八日の七時半に声を掛けてくれたら生きよう、そうでなければ電車に飛び込んで死のうと。『タスケテ』というメッセージからして、本当は死にたいとは思っていなかったのだと思いますが、余程追い詰められていたのでしょうね」

「そんな……」


 紀之定さんの推理が正しいとは限らないけど、さっきの男の子は明らかに元気がなかったし、何らかの問題を抱えてもおかしくない感じだった。


 私より年下の男の子が自分で命を絶とうとするなんてあまりにも痛ましいし、今回ばかりは紀之定さんの推理が間違っていて欲しいけど、実際誰にも手を差し伸べられずに死んでしまう子がいるのは否定し難い事実だ。


 あの子もクラスにどうしても馴染めなかったり、イジメを受けていたりするのかも知れない。


 今回は思い留まってくれたみたいだけど、あの子を取り巻く環境が変わらなかったら、あの子は今度こそ死んでしまうのかも知れなかった。


 もし何も変わらなくても、今日紀之定さんと私がここにいたことで、あの子がこの先何とか生きることにしがみ付いてくれたらいいと思う。


 さっき初めて顔を合わせた、名前も知らない子だけど、心からそう思った。


 多分紀之定さんも私と同じことを思ったから、敢えて私をここに呼んだのだろう。


 たとえ何もできなくても、あの子を気にかけてあげる人は一人でも多い方がいい。


 私がそう納得していると、紀之定さんは優しく笑って言った。


「今日はいらして下さって、どうもありがとうございました。きっと彼も嬉しかったと思います」

「いえ、特に何もしていませんから、お礼を言われる程のことじゃありません。私で力になれることがあったら、また声を掛けて下さい」

「ご親切にありがとうございます。それでは仕事がありますから、僕はこれで」

「頑張って下さいね」


 私は一度言葉を区切ると、紀之定さんを誘おうとしたけど、やっぱりどうしても言えなくて、代わりに違う言葉を吐き出した。


「じゃあまた」


 私は紀之定さんと会釈を交わすと、階段を上る紀之定さんと反対に、後ろ髪を引かれる思いでホームへと向かった。


 結局紀之定さんを誘えなかったのは残念だったけど、ちょっとした人助けもできたことだし、一日の始まりとしては上々だろう。 


 私は近くにあった乗車待ちの列に並ぶと、さっきの男の子を捜してみたけど、人が多くて見付けられなかった。


 このホームのどこかにいるあの男の子も、もしかしたら私と同じ電車に乗って、これから学校に行くのかも知れない。


 明日も明後日も、その先もずっと。そうでなかったとしても、ただどこかで元気にしていてくれたらいいと思いながら、私はやって来た電車に乗り込んだ。






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