表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
駅員探偵ー駅から始まる私の恋ー  作者: 佳景(かけい)
4/8

第四話 汚れた水

 今日は一限の後、二限が急に休講になって、私は釉さんと絃花ちゃんと一緒に図書館に行くことにした。


 キャンパスの中央部にある図書館は白く四角い建物で、その向かいにはほとんど見分けが付かないくらいにそっくりな学食のビルが建っている。


 学食と図書館の屋根は繋がっていて、二つの建物の間はちょっとした広場になっていた。


 図書館は一階とM階が書庫になっていて、書庫に入れる四年生以上の学生はともかく、それ以外の学生が自由に出入りできるのは二階から四階までだ。


 でも三階は閲覧室や読書室しかないから、本棚が並んでいるのは二階と四階だけ。


 二階から四階までは吹き抜けになっていて、その吹き抜けの部分を囲むように、本がぎっしり詰まった本棚が並んでいる。


 四階の閲覧席は壁や窓に添って設えられていて、私はカウンター近くの写真集コーナーの前の席で、釉さんと絃花ちゃんと一緒に英語の予習をしていた。


 正面に仕切りのある木製の机に広げた教科書のレベルはこの大学の入試に無事合格できた人ならそう難しくない程度のもので、ほとんど止まらずにリングノートにシャープペンシルを走らせていると、机の上に置いていたスマートフォンが小さく振動してメッセージの受信を知らせてくる。


 私が手を止めて液晶画面を覗き込むと、高校時代の友達からだった。


 四季和奏しきわかなちゃん。


 高校一年と三年の時に同じクラスで、一番仲が良かった。


 卒業後は会う機会も減ったけど、春休みにも一度会ったし、時々はこうして連絡を取ることもある。


 どうしたのかなと思って、メッセージを開いてみると、


「聞いて! 今日電車で痴漢に遭ったの! それで彼氏に『助けて』ってメッセージ送ったら、タクシー飛ばして、電車の先回りしてくれて、痴漢を捕まえてくれたんだ! すっごく嬉しかったー!!!」


 と書いてあった。


 よっぽど嬉しかったみたいで、喜びで小さな体がはち切れそうになっている猫のスタンプが目に飛び込んでくる。


 確か和奏ちゃんの彼氏は和奏ちゃんと同じ大学の同級生だった筈だから、お金なんて大して持ってないと思うけど、それでもタクシーに飛び乗って助けに来てくれるなんて、本当に和奏ちゃんのことが好きなんだろう。


 紀之定さんに片想い真っ最中の私にとっては羨まし過ぎる話で、正直なところ妬ましくもあったけれど、せっかくこんなに喜んでいるのだから、ここは素直に「良かったね」と言ってあげるべきだった。


 それくらいのことができない相手なら、もう友達とは呼べない。


 文面からすると、痴漢の被害に遭ったことを引き摺ってはいないみたいだけど、気を許していない人に勝手に体を触られるってかなりショックなことだし、何ともないとは思えなかった。


 私は少し考えてから、返信を書き始める。


「大丈夫? 痴漢に遭うなんてショックだったと思うけど、彼がいい人で良かったね。彼を大事にしてあげてね」


 そう書いて送信すると、すぐに返信が来た。


「心配してくれてありがとう! 私なら大丈夫だよ! ねえ、今度会えない? 久し振りに会って話したいな」


 私はスマートフォンのカレンダーで予定を確認してみると、幸い今週の週末は特に予定がなかった。


 釉さん達には何か謎を見付けたらどんな些細なことでも教えて欲しいと頼んでいたけど、そうそう謎めいた出来事なんて起こる訳もなくて、もう半月近く紀之定さんとは挨拶以上の会話をしていないし、サーチする範囲を広げてみるのもいいだろう。


 私は早速返信を書き、次の日曜日に和奏ちゃんと最寄り駅近くのドーナツ屋さんで待ち合わせることになった。






 高校時代の他の友達にも連絡を取ったけど、バイトやサークルの予定が入っていて予定が合わず、結局 私は和奏ちゃんと二人だけで会うことになった。


 約束の日曜日。


 私は約束の十三時の十分前に、駅のすぐ側にあるドーナツ屋さんの自動ドアをくぐった。


 このお店は私が通っていた高校に近くて、学校帰りにちょくちょく寄ったものだけど、大学に入ってからはめっきり行く機会が減って、ここに来たのは久し振りだ。


 ざっとお店を見回してみたけど、特にあの頃と変わったところはないみたいだった。 


 カフェテリア形式のお店にはいろいろなドーナツがずらりと並んでいて、その横にはレジカウンター。


 レジの近くには食器返却口があって、側には子供用の椅子が並んでいる。


 そして、お店の奥にはイートインコーナーがあった。


 大きな窓に沿って設えられた細長いテーブルの前には一人用の席があり、窓から少し離れた所には四人がけのテーブル席や二人がけのテーブル席の他、喫煙スペースも設えられている。


 お店の奥の方には、ネオンがきらめく時計や、もともとそういうデザインなのか、色褪せたのかよくわからない、レコードのジャケットらしき物も飾られていた。


 私は生クリーム入りのチョコレートがかかったドーナツと、カスタードクリーム入りのイチゴ味のチョコレートがかかったドーナツをトレイに乗せると、レジでアイスティーを注文する。


 会計を済ませてレジの近くの二人がけの席に腰を下ろしたところで、何気なく自動ドアの方に目をやると、丁度和奏ちゃんが入ってきた。


 明るめの茶色い髪は私と同じくらいのセミロング。


 眩しいくらいに白いシャツに、ネイビーベースにピンクの花柄のスキニーパンツ、白いハイヒール姿で、肩から青いショルダーバッグを掛けていた。


 ずば抜けて可愛い訳じゃないけど、まあまあ悪くない顔立ちだし、すらりと背が高くてスタイルがいい。


 おまけに長い付き合いでも人の悪口を言っているところを見たことがないような子だから、結構男の子に人気があって、女子にも好かれていた。


 全身から明るさが滲み出ているような、とても感じのいい子だけど、今はこの世の終わりが来たみたいな暗い顔をしていて、足取りも重い。


 一体何があったのだろう。


 私が内心首を捻っていると、私に気付いた和奏ちゃんが軽く手を振って来る。


 でもやっぱりその表情は冴えなかった。


 和奏ちゃんは一面チョコレートでコーティングされたドーナツをトレイに乗せると、レジでオレンジジュースを注文し、会計を済ませて私のテーブルにやって来る。


「……久し振りだね」


 私が恐る恐る声を掛けると、和奏ちゃんはテーブルにトレイを置きながら、沈んだ声で言った。


「うん……」


 和奏ちゃんは私の向かいのソファーに腰を落ち着けると、小さく溜め息を吐いた。


 あの和奏ちゃんがこんなに落ち込むなんて、よっぽどのことがあったのだろう。


 訊いたら傷付けてしまうかも知れないとも思ったけど、話せば少しは楽になるかも知れないし、私は思い切って尋ねてみることにした。


「ええと、気に障ったらごめんね。もしかして、何かあったの? 元気ないみたいだけど……」


 和奏ちゃんは暗い顔のまま、わずかに顔を俯けて私の問いかけに答えた。


「私、彼と別れるかも……」


 和奏ちゃんの言葉に、私は思わず声を上げた。


「えぇっ!? 何で!? この前はあんなにラブラブな感じだったのに!?」

「そうなの。あの時は最高に嬉しかったし、幸せだったの。でもね、昨日彼の家に行ったら、ちょっとって言うか、かなりがっかりすることがあって……」

「がっかりって、どんな?」

「あのね、彼は絵を描くのが趣味で、よく水彩画を描いてるんだ。で、水彩画を描く時って、絵の具に水を混ぜたり、汚れた筆を洗ったりするために水入れに水を汲んで使うでしょ? その絵の具で汚れた水を、頭から思いっ切りかけられたの」


 うわあ、それはキツイ。


 彼に会うならきっとオシャレして行っただろうに、当の彼にそんな風に服や髪型を台無しにされたら、立ち直れなくなりそうだった。


 でも「そんな最低な彼とは別れた方がいい」なんてことは、軽々しく言うべきではないのだろう。


 もしかしたら、何か誤解があるのかも知れないし。


 私はストローでアイスティーを啜ってから、慎重に言葉を選んで言う。


「……それはまあ、確かにがっかりはするだろうけど、事故みたいなものだったんじゃないの? その彼が水入れを持って転んだところに、たまたま和奏ちゃんがいたみたいな感じで」

「そうだったらまだ良かったけど、あれは絶対わざとだよ。私の頭の真上で水入れをひっくり返してたし、体中に満遍なく掛けようとしてた感じだったし……」 


 うーん、これはフォローが難しそうだ。


 満遍なく汚れた水を掛けてきたということは、明らかにそうする意図があったとしか思えない。


 ささやかな希望を探そうと、私は問いを重ねた。


「じゃあ、本当に彼がわざとやったとして、嫌われるような心当たりはあるの?」


 和奏ちゃんはドーナツを頬張りながら、思案顔で私の問いかけに答える。


「うーん、それが特に思い当たることがないんだよね。昨日より前に彼に会ったのはあの痴漢に遭った日だし、メッセージのやり取りは毎日してたけど、書いてたのはその日の出来事ばっかりで、彼が怒るようなことは何も書いてなかったから。彼からの返信も別に怒ってる感じじゃなかったしね。もしかしたら、私のことが嫌いになった訳じゃなくて、他に好きな子ができて、別れ話するのが面倒でああしたのかも」

「確かに結婚してたって心変わりすることはあるけど、だったら口で言えばいいだけでしょ? わざわざタクシー飛ばして和奏ちゃんを助けに来てくれるような人が、別れ話するのが面倒だからって、そんな酷いことするなんて思えないんだけど。もしかして、何かどうしようもない事情があったんじゃない?」

「どうしようもない事情かあ……まあ、水掛けた後に平謝りで謝ってくれたし、別れたがってたらそんなことするかなあって思ったりもするんだけど……でも、嫌がらせ以外にどんな理由で彼女に汚れた水なんか掛ける訳?」


 そう訊かれても、私には何とも答えようがなかった。


 でも彼の言動は明らかに不自然だし、きっと何か理由がある気がする。


 この場でちゃんと説明してあげられたらいいのに、何もわからないのがひどくもどかしかった。


「……ごめん、理由はちょっとわかんないけど、とにかくこれからどうするかは一旦保留にしておこうよ。冷却期間を置いて、ちょっと頭冷やそう? まだ好きなんでしょ?」


「うん」


 和奏ちゃんは小さく頷いた。


 やっぱり、まだ彼に気持ちがあるらしい。


 これなら蟠りを消すことさえできたら、やり直す気になってくれそうだ。


 せっかくいい彼なんだから、こんなことで別れてしまうのは残念過ぎる。 


 私がそんなことを思っていると、和奏ちゃんは目を伏せて続けた。


「私、もうちょっとで誕生日だし、彼と一緒に過ごすの楽しみにしてたんだもん。できればこんなことで別れたくないよ」

「だったら、絶対に早まらないでね? 要は彼がそんなことした理由がわかって、その理由がちゃんと納得できるものだったらいい訳でしょ? 理由がわかりそうな人に心当たりがあるから、今度相談してみるよ。そこの駅で駅員してる人なんだけど、リアル名探偵みたいな人だから、きっとその彼がそんなことした謎も解けると思うし」

「その人って、前に莉緒ちゃんが言ってた片想いしてる人?」


 和奏ちゃんは小さく首を傾げてそう訊いてきた。


 前に紀之定さんのことは話していたから、話が早い。


「そう、その人。この前、ちょっとしたきっかけで謎を解いてもらったんだ。電車と謎解きが好きな人で、謎があったら持って来ていいって言ってくれてるの。話せるチャンスなんだよ。だから協力して欲しいんだ。その時のこと、もっと詳しく教えてくれない?」

「そういうことなら協力するよ。謎を解いてもらえると、私も助かるし」


 和奏ちゃんは快くそう言ってくれた。やっぱり持つべきものは友達だ。


 私はこんなこともあろうかと、念のため持って来ていたメモ帳とシャープペンシルを鞄の中から出しながら言う。


「ありがとう! で、昨日彼に会ったところから、できるだけ詳しく聞かせて欲しいんだけど」

「ええとね、昨日はお昼ご飯を食べてから彼の家に行ったの。着いたのは一時半くらいだったかな。彼は実家暮らしなんだけど、家の人はみんな出掛けてて、家にいるのは彼だけだった。そう言えば彼、ドアを開けた時からずっと様子がおかしかったんだよね。妙に緊張してるって言うか、おどおどしてるって言うか……何でもすぐ顔に出るタイプだから、わかりやすい人なの。私と別れるつもりだったから、あんな態度だったのかな……?」


 和奏ちゃんは話しながらだんだん不安になってきたみたいで、目元に滲んだ涙を拭った。


 彼の気持ちがわからなくなってしまって、気持ちが不安定なんだろう。


 私は何とか和奏ちゃんを安心させたくて、メモを取っていた手を止めて言った。


「まだそうと決まった訳じゃないよ。ネガティブにならないで。それで、彼の家に行ってそれからどうしたの?」

「彼の部屋に通してもらったら、彼は丁度絵を描いてたの。彼は実物の模写とかじゃなくて、自分の頭の中にある風景を描くのが好きな人なんだ。特にプロになるつもりはないみたいだけど、凄く上手いんだよ。虹色の鳥とか、ガラスの家とか、綺麗で不思議な物をたくさん描いてるの。私も彼の真似して、簡単な絵を描くようになったんだけど、上手く描けたら嬉しいし、楽しいし、彼が絵を描くのが好きな理由がちょっとはわかるようになったかな」


 和奏ちゃんはそう言いながらやっと今日初めての笑顔を見せてくれて、本当に彼のことが好きなんだなあと私は思った。


 できれば何とかしてあげたいけど、そのために私が今できるのはメモを取ることだけだ。


 私が素早く手を動かしていると、和奏ちゃんが続ける。


「それでね、私はいつも通りに彼に画用紙とシャープペンシルをもらって、テーブルを挟んで彼の向かいに座ったの。私は絵を描き始めたけど、向かいに座った彼は筆を手に取っただけで、何だか上の空みたいだった。変だなって思ってたら、彼が立ち上がって水入れを持ち上げたの。で、私の頭からばしゃーっと水を掛けたんだ。頭だけじゃなくて、指の先までびっしょりになるようにね。私は彼のことを責めたけど、彼は言い訳もしないで何度も『ごめん』って言ってから部屋を出て行って、すぐに白いタオルと柄物のタオルを持って戻って来たの。それで白いタオルで左手を拭いてから、タオルを替えて顔や髪の毛も拭いてくれたんだけど、絵の具って独特の匂いがあるし、いくら五月でも濡れたままじゃ風邪引きそうでしょ? だからシャワーと着替え借りて、その後すぐに帰ったんだ」

「なるほどね」


 私はメモを取りながら、少し気になったことを訊いてみた。


「絵の具で汚れるってわかってるのに、彼はどうして白いタオルなんか持ってきたんだろうね? 汚れが目立っちゃうのに。それに、そのタオルで拭いたのは左手だけだったんでしょ?」

「うん。私もちょっと変だなって思ったけど、きっと大したことじゃないよ」


 和奏ちゃんはそう言ったけど、謎を解く鍵はそこにある気がした。


 だからと言って、肝心の真相はさっぱりわからないのだけど。


「大体のところはわかったから、今度相談してみるね」

「うん。お願い」


 和奏ちゃんは縋るような眼差しでそう言った。






 和奏ちゃんと会った翌日。


 すっかり日が暮れた大学の帰り、私は駅のホームでばったり紀之定さんに会った。


 紀之定さんを一目見た途端、私は自分の心臓が小さく跳ねるのを感じる。


 恥ずかしくて逃げ出したいような気持ちにもなったけど、やっぱり会えた喜びの方が大きくて、とても幸せな気持ちになった。


 紀之定さんは車椅子のお客さんの案内を終えたところみたいで、駅で何度か見掛けたことがある、取っ手の付いた大きな板のような物を持っている。


 駅には本当にいろいろな人が来るから、駅員さんも対応が大変だ。


 私は労いの気持ちを込めて、できるだけ愛想良く紀之定さんに挨拶した。


「お疲れ様です、こんばんは」

「こんばんは」


 紀之定さんはいつも通りの笑顔でそう挨拶を返してくれた。


 只の営業スマイルとわかっていても、やっぱり微笑みかけられると嬉しくなってしまう。


 だがここであまり舞い上がり過ぎてしまうと、私の気持ちに気付かれるだけじゃなくて、間違いなく変な子だと思われるだろう。 


 私は懸命に気持ちを落ち着けながら、紀之定さんに問いかけた。


「あの、今ちょっとお時間大丈夫ですか?」

「ええ、少しだけなら」

「じゃあ、また謎を解いて欲しいんです。友達が彼と別れるか別れないかの瀬戸際で、何とか解決してもらえませんか?」

「それは責任重大ですね。必ず解けるとはお約束できませんが、頑張ってみましょう」

「お願いします」


 私は鞄のポケットから昨日書いたメモを取り出すと、紀之定さんに手渡した。


 紀之定さんはメモを開いてざっと目を通すと、また元のように折り畳んで、「ありがとうございました」という言葉と一緒に私に返してくる。


 私は逸る気持ちを抑えつつ、紀之定さんに尋ねた。


「どうですか? 友達の彼が水を掛けた理由、わかりました?」

「ええ、多分。彼はきっと、お友達の指輪のサイズが知りたかったんでしょう」


 紀之定さんの答えに、私は思わず呆気に取られた。


 こんな方法で指輪のサイズを調べるという発想が私にはなかったし、もし本当に指輪のサイズを調べるのが目的なら、和奏ちゃんの手だけを濡らせばいいだけで、全身びしょ濡れにするなんて全く筋が通らない。


 私は混乱しながら、紀之定さんに言った。


「あの、根拠を聞かせて欲しいんですけど」

「彼女の左手を白いタオルで拭いた後、彼はわざわざタオルを他の物に取り替えた訳ですよね? びしょびしょになってしまって、もう用を成さないというならわかりますが、普通手を拭いたくらいではそこまで濡れません。それなのに敢えてタオルを替えたのは、お友達の左手の跡を取ることが目的だったからです。お友達の頭から水を掛けなくても、手だけに掛ければ目的は達成できますが、それではお友達に本当の狙いに気付かれてしまうかも知れないと思って、わざと全身に水を掛けたのでしょうね。お友達は誕生日が近いということですし、その彼はきっと誕生日プレゼントに指輪を贈るつもりなんですよ」


 本当の狙いを隠すために、敢えて不必要なことをして動機を隠そうとするのは、ミステリー小説でしばしば見られる手法だ。


 言われてみれば納得だけど、よくこんなことを考え付くものだなあと、感心せずにはいられなかった。


「もしかして、そういう経験があるんですか?」


 私がそう問いかけると、紀之定さんは言った。


「ええまあ。実は僕も、高校生の時に付き合っていた女の子にサプライズで指輪をあげようとしたことがあるんです。まあ、高校生がお小遣いで買える程度の物ですから、おもちゃと大差ない代物ですけど、少しでも喜ばせてあげたかったんですよね」


 いかにも高校生らしい、ちょっと背伸びした感じのエピソードは微笑ましかったし、どんな相手でも付き合った人を大事にしてくれそうだなあと好感を持ったけれど、胸がもやもやせずにはいられなかった。


 見ず知らずの紀之定さんの彼女に、どうしても嫉妬してしまう。紀之定さんが「付き合っていた」と過去形で彼女の話をしたことからして、もう別れているのだろうけど、紀之定さんはその人のどこを好きになったんだろう。


 凄く気になる。 


 私が悶々としているとも知らず、紀之定さんは続けた。


「勿論バレたらサプライズになりませんから、本人にバレないように指輪のサイズを調べなければならない訳ですが、これが結構難しいんですよ。ネットで調べれば、相手が寝ている間に指のサイズを測るとか、相手が付けている指輪を外した隙に指輪の内側を紙に書き写すとか、いろいろな方法がヒットしますけど、彼女は指輪をしていませんでしたし、高校生くらいで付き合った期間も短いと、なかなかチャンスがないんです。それにネットに出ている方法は、彼女も知っているかも知れないでしょう? それで敢えてネットに載っていないやり方で調べようと思って、わざとオレンジジュースのグラスを倒して、汚れた彼女の手を拭いたナプキンから指輪のサイズを割り出そうとしたんです。まあ、グラスを倒した拍子に彼女の服まで汚してしまったおかげで、彼女を怒らせてあっさりフラれるという、本末転倒なことになってしまったんですけどね」


 そう言って照れ臭そうに笑う紀之定さんは、いつもより子供っぽくて、少し可愛い。


 今まで見たことのない紀之定さんの顔が見られて、私はひどく嬉しくなった。


 だけど、その気持ちは不安の前にあっさりと萎んでしまう。


 あまり詮索するのは良くないと思いつつも訊かずにはいられなくて、私は紀之定さんに訊いてみた。


「……今は、また別のお相手がいるんでしょう?」

「いえ、残念ながら。この職場は女性にはあまり縁がないですし、僕が電車やミステリーの話ばかりするので、女性には敬遠されがちですしね。今のところは、高校時代の彼女が最初で最後の交際相手です。彼女が言うにはとにかく話が合わないのが不満で、僕がグラスを倒した時にとうとう我慢が限界に達したそうですが」


 紀之定さんがフリーだというのは嬉しかったけれど、私はこんな素敵な人に彼女がいないなんて本当かなあという疑念を抱かずにはいられなかった。


 紀之定さんには何度もお世話になっているし、平気で二股を掛けたりするような人だとは思いたくないけど、女の人と寝るためにならどんな嘘でも平気で吐く人がいることくらい、男の人と付き合ったことがない私でも知っている。


 職場に女性がいないから出会いがないとか、オタクだけに女の人と話が合わないというのは、ある程度納得の行く理由ではあるけど。


 私が何とか真実を見極められないかと紀之定さんを見つめていると、紀之定さんは視線を逸らすことなく、真っ向から私の視線を受け止めて言った。


「何だか話が逸れてしまいましたね。僕の推測が外れていたらがっかりさせてしまいますし、当たっていたら当たっていたでお友達に聞かせる訳には行きませんが、何とか上手く話してお友達を安心させてあげて下さい。その彼がお友達を大事に想っていることには変わりないと思うので」


 紀之定さんの言う通り、和奏ちゃんの彼が指輪をあげるつもりがなかったとしても、きっと心変わりした訳ではないのだろう。


 もし本当に心変わりしていたなら、きっと和奏ちゃんに水を掛けた後に平謝りしたりしないで、そのまま追い出していた筈だ。


 和奏ちゃんには後で「事情があって詳しくは説明できないけど、例の駅員さんが『彼は和奏ちゃんのことをちゃんと好きだと思う』って言ってたから、安心していいよ」とメッセージを送っておこう。


 これできっと、この件は丸く収まるに違いない。


 私は紀之定さんに向かって丁寧に頭を下げた。


「どうもありがとうございました。きっと友達も喜ぶと思います」

「お力になれて何よりです。せっかく好き合っているのに、誤解で別れてしまったら気の毒ですしね。それでは、僕はこれで」

「はい、失礼します」


 私はもう一度お辞儀をすると、紀之定さんに背を向けて歩き出す。


 紀之定さんが本当にフリーかどうか確かめる方法はないけど、紀之定さんのことを信じたいとは思った。


 まずは信じてみないと、誰が相手でも最初の一歩を踏み出せない。


 傷付くのが嫌でその一歩を頑なに踏み出さない人もいるんだろうけど、もし今の関係を変えられるチャンスがあるなら、私は勇気を出してみたかった。


 今はまだ無理だけど、もうちょっと仲良くなれたら告白してみようかなと思う。


 実行できるかはわからないけれど。 


 私は心に勢いを付けるように、階段を駆け上がり始めた。






 二週間後の夜。


 夕食を済ませた私はマンションの自分の部屋で座椅子に座り、白いテーブルに鉄道の本を広げていた。


 今まで鉄道に興味なんてなかったけど、紀之定さんが鉄道オタクだと知った時から、ちょくちょく鉄道関係の本を読むようになったのだ。


 今読んでいるのは、元運転士だった著者が書いた、鉄道の仕組みや運転士の仕事について書かれた本。


 電車はとても身近な乗り物だけど、ただ乗っているだけではわからないことがたくさん書かれていて、結構面白い。


 特に興味のない分野でも、今まで知らなかったことを知ることは基本的に楽しかった。 


 私が黙々とページを捲っていると、不意にスマートフォンが振動してメッセージの受信を知らせる。


 本のページからディスプレイに視線を移すと、和奏ちゃんからメッセージが来ていた。


 早速目を通してみると、薬指に指輪を嵌めた左手の写真と、


「誕生日に彼がサプライズで指輪をくれたよ! 彼が水掛けたのはこのためだったんだね! いろいろありがとう!」


 という文章が目に飛び込んでくる。やっぱり紀之定さんの推理は正しかったみたいだ。


 今度会えたらお礼を言おう。


 私は自分の唇が微かな笑みを作るのを感じながら、返信を書き始めた。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ