第一話 メモ
あれはとある冬の日――グレーのコートに黒いパンツ、黒いマフラーに黒い手袋、黒いブーツで防寒対策をしていても、体の芯まで冷えてくるような、とても寒い冬の日のことだった。
あの時まだ大学一年生だった私は、大抵午前中から講義があって、朝早く電車に乗ることが多かったけど、あの日はたまたま午前中の講義が休講になったおかげで、昼頃からゆっくり大学に向かっていた。
通学に使っている駅に着いて改札を通ると、入ってすぐ左手に精算所。上り下りのエスカレーターに階段、エレベーターが左右に一つずつあり、右手のエレベーターの近くにはトイレがあった。
私が乗ろうとしていた下り電車は丁度行ってしまったところで、電車を降りた人達がエスカレーターやエレベーターでばらばらと改札に上がってきている。
電車を乗り逃したのは残念だったけれど、時間に余裕を持って出て来たから、一本遅い電車でも間に合うだろう。
私が下りのホーム行きのエスカレーターに乗っていると、見知らぬおばあさんがゆっくりした足取りで上りエスカレーターに向かっているのが見えた。
そのおばあさんに、箒とちり取りでホームの掃除していた駅員さんが手を止めて声を掛ける。
「こんにちは」
何気なく駅員さんに目を向けると、その人は二十歳くらいの若い男性だった。
黒い短髪に、丸い眼鏡。
なかなか整った顔立ちの、優しそうな人だ。
アンティークゴールド色のエンブレムと、襟に配したテープがアクセントになった、チャコールグレーのスーツがよく似合う。
スーツと同じ色の制帽。胸元の名札には「紀之定」と書かれていた。
珍しい苗字だなと思っていると、続けて紀之定さんの優しい声が聞こえてくる。
「ここ何日かお見掛けしなかったから、ちょっと気になってたんですよ。お元気そうで良かったです」
ほっとしたように言う紀之定さんの声を聞きながら、私は少し驚いた。
ここは決して大きな駅じゃないから、お客さんが少ない時間ならよく来る人の顔を覚えるのはそう難しくないかも知れないけど、特に親しくもなさそうな人にわざわざ声を掛けて心配してたことを伝えるなんて、何ていい人なんだろう。
ただ日々の仕事をこなすだけでも大変だろうに、その合間にこんな風に人を思いやるなんて、例え紀之定さんと同じ仕事をしていたとしても、私にはとてもできないかも知れなかった。
思わぬ所で見付けた人の優しさに胸が仄かに温かくなるのを感じていると、おばあさんが言う。
「ご親切にどうもありがとう。実はちょっと風邪を引いてしまって、家で寝込んでいたんですよ。娘から孫のお迎えを頼まれてるから、無理をしてでも行きたかったんだけど、この年になると体が言うことを聞いてくれなくてねえ」
「そうでしたか。まだ寒い日が続きますから、お体は大切になさって下さい」
「ええ、ありがとう。お兄さんもね。それじゃ」
「お気を付けて」
紀之定さんはおばあさんを見送ると、再び掃除を始めた。
できればちょっと話してみたいなと思ったけど、結局話し掛ける勇気が出なくて、エスカレーターを降りた私は少し離れた所で足を止める。
だって、何て言って話し掛けたらいいんだろう。
何か落し物をしたとか、ちゃんとした用事があるならまだしも、そうでないのに話し掛けたりしたら、迷惑がられるに決まっている。
でも、私の目はついつい未練がましく掃除をする紀之定さんを追っていて、それから駅に来る度に紀之定さんの姿を捜すのが、私の日課になっていた。
恋とは呼べないかも知れない、淡い想いを私が抱いていること――それどころか私のことすら紀之定さんは知りもしないだろうけど、それでも顔が見えるだけで嬉しくて、だから私は今日もあの駅に行くのだ。
※
紀之定さんのことを知ってから半年くらいが経ち、私――小桜莉緒はこの四月から大学二年生になっていた。
紀之定さんとは相変わらず一言も話せていないけれど、あの駅を使う時にはいつもオシャレには気を抜かないようにしている。
いつ話せる機会があるかわからないのだから、いざという時に後悔しないように、いつも万全の体勢を整えておきたかった。
私はマンションの自分の部屋で、ドレッサーの大きな鏡を覗き込み、念入りに髪型や服装をチェックする。
紀之定さんのことを知る前の私は、オシャレにあまり興味がなかったけど、この半年の間にいろいろ勉強して、以前の私を知る友達には「変わったね」と言われるようになった。
鏡に映る私はまあまあ可愛いと言える顔に見えるけど、紀之定さんにはどう見えるだろう。
整えた眉に、マスカラを塗った上向く睫毛、ピンクのアイシャドー、チーク、赤い唇。
黒に近い茶髪はセミロングで、緩く毛先を巻いている。
白いワンピースの上に、裾に黒いレースをあしらった淡いピンクのトレンチコートを羽織って、靴は黒いパンプスにするつもりだった。
ボタンをきっちり閉めて、ベルトを締めたトレンチコートの裾は長く、ドレスめいた緩やかな襞を作っていてゴージャスな雰囲気だ。
レースを取り外すこともできるけど、今日の服ならレースがあった方がいいだろう。
大学に行くだけなのに、ちょっと気合いを入れ過ぎかなとも思うけど、最近買ったこのコートは今一番のお気に入りだから、できるだけたくさん着たかった。
私は髪と服を整え終わると、部屋の戸締りを済ませて、黒いトートバッグを手に部屋を出る。
両親はもう仕事に行っていたし、兄弟はいないから、今家にいるのは私一人だ。
私の部屋は玄関を入ってすぐ右手にあって、部屋を出て一歩歩けば、そこはもう玄関だけど、私は敢えて家の奥に向かって一通りの戸締りをしてから、ようやく玄関へと向かった。
下駄箱から黒いパンプスを取り出して履くと、ドアを開けて外に出る。
今日はとてもいい天気で、緩やかに吹く風が私のコートを小さく揺らした。
日差しは暖かそうだけど、日陰は少し寒いし、風はひんやりとしている。
やっぱりコートを着て来て正解だったみたいだ。私はマンションの廊下を歩いてエレベーターに乗り込むと、迷わず一階のボタンを押した。
程なくしてエレベーターを降りると、郵便受けと非常階段への扉を横目にマンションのエントランスを出て、目の前に伸びた国道を左に向かって歩いていく。ひっきりなしに車と騒音が行き交う国道に沿って十分くらい歩けば、私がいつも通学で使っている駅があった。
反対方向にある一つ隣の駅はとても大きなそれで、店や人通りも多いけど、こちらの駅は小さな駅ビルやショッピングセンターはあるものの、駅周辺には今一つ活気がない。
車は多いけど、歩いている人は二十人もいないだろう。
この辺りはマンションや一軒家が建ち並ぶ住宅街で、人は多いのに、どうにも魅力的な店に乏しかった。
だからこの辺りの住人は、日用品や食料品以外の買い物や食事には、隣の大きな駅まで行くことが多い。
と言うか、隣の駅に店が充実しているせいで、こちらでいくら頑張っても結局向こうに客を取られてしまい、ますます向こうに店が集中してこちらが閑散としていくという悪循環に陥っている気がした。
かく言う私も、家の近所ではあまり買い物をしない一人だし。
少しして駅に着いた私は、スロープ付きの階段を上がり始めた。
ここは地上駅だけど、改札は二階にある。
すぐ近くにはエレベーターもあるものの、二階くらいならエレベーターを待つより階段で行った方が早いから、あまり使ったことはなかった。
階段を上り切ると、駅と繋がった小さなビルの出入り口やエレベーターが目に入る。
それらを素通りした私は、駅名が書かれた看板の下の通路を歩いて改札へと向かった。
ICカードの定期券で改札を通る時に、さり気なく精算所を覗いてみたけど、紀之定さんはいないみたいだ。
今日はお休みなのかも知れない。
私は少しがっかりしながら、エスカレーターに乗って下り電車のホームへ下りた。
平日の昼間だけに、ホームはかなり空いている。
電光掲示板の脇にある時計は十時五十分を差していて、次の電車まではまだ十分近くあった。
もしかしてあの日みたいにホームにいたりしないかなと捜してみると、紀之定さんは箒とちり取りを手に、ホームの端で掃除をしているところだった。
前にも何度かこれくらいの時間に掃除をしているところを見たことがあるけど、お客さんが少なめだから、こういう仕事をし易いんだろう。
私はそれとなく紀之定さんの近くで足を止めると、控えめに紀之定さんの様子を窺った。
紀之定さんはあの日と同じように、てきぱきと掃除をしながらホームを歩いて行く。
近くにいられるだけで嬉しかったけど、どうしてもそわそわしてしまって落ち着かない。
何気なく手をコートのポケットに入れた私は、そこにメモを入れっ放しにしていたことを思い出した。
取り出して開いてみると、白い無地のメモ用紙には、ただ一言「八月三十一日」とだけ書いてある。
これは一体、何の日付けなのだろう。
私がそう疑問に思った時、急に強い風が吹いて、私の手からメモ用紙を攫って行った。
メモ用紙は幸い線路ではなく、ホームの上――紀之定さんの近くに落ちる。私は慌ててメモ用紙に駆け寄ったけれど、その前に紀之定さんが拾って、笑顔で私に差し出してくれた。
「落とされましたか?」
「はい、ありがとうございます」
私は差し出されたメモを受け取りながら、少し上擦った声で言う。
もっと普通の声で、愛想良く言おうと思ったのに、私だけに向けられた笑顔が嬉しくて、とても上手くはできなかった。
緊張するけど、やっと巡ってきたチャンスを逃したらいけない。
私は少しでも長く会話を続けたくて言った。
「でもこれ、私の物じゃないんです。誰の物だかわからなくて……」
「落し物ならお預かりしますよ?」
やった、これでもう少し話ができる。
私はつい緩みそうになる表情を、できるだけ動かさないようにして言った。
「いえ、そういう訳じゃないんです。昨日図書館から借りた本に挟まってたって司書さんに言われたんですけど、私には覚えがなくて……」
「それは興味深いお話ですね。よろしければ、詳しくお聞かせ願えませんか?」
私がきょとんとすると、紀之定さんは少しばつが悪そうに言った。
「ああ、すみません。実は僕、電車に乗るのが好きな、所謂『乗り鉄』なのですが、いつも電車に揺られながらミステリー小説を読んでいるんです。特に『日常の謎』系ミステリーが大好きで、こういうちょっとした謎には目がないもので……やっぱり駄目でしょうか?」
駅員さんだから鉄道オタクなのは納得だけど、ミステリーオタクでもあるというのはちょっと意外だった。
私もミステリーは好きでよく読むし、結構趣味が合うかも知れない。
私は少し嬉しくなって言った。
「全然駄目じゃないですよ。大した話じゃありませんから、面白くも何ともないと思いますけど」
「いえ、是非お願いします」
紀之定さんにそう請われて、私は昨日の出来事を話し出した。
昨日は本当は朝から講義だったけど、午前中の講義が休講になったから、私はマンションの自分の部屋でくつろいでいた。
私の部屋には一面白い壁紙が貼られていて、大きなチェストやドレッサー、本棚、炬燵にもなるローテーブル、床板はどれも柔らかな木の色だ。
ベッドや枕のカバー、カーテンは大柄なダマスクが華やかな淡いピンクで、私のお気に入りだった。
淡いピンクの座椅子に座った私は、ローテーブルに向かって、図書館で借りた読みかけのミステリー小説を開く。
栞は挟んでいないから、まずはページをぱらぱらとめくって読んでいたページを探すところから始めた。
栞を挟んだまま本を返して失くすのが嫌で、私は図書館で借りた本には栞を挟まないようにしているのだ。
少しして昨日最後に読んでいたページを見付けると、私は早速読み始めた。
ラストが気になったから、本当は前日の夜に最後まで読み終わってから寝たかったけど、昨日はフランス語の予習に思ったより時間を取られて夜遅くなってしまったのだ。
眠くてぼうっとした頭で読んでも、内容が頭に入って来ないし、それなら翌朝頭がすっきりした状態で読んだ方がいいに決まっている。
やがて最後のページを読み終わり、満ち足りた気持ちで本を閉じた私がスマートフォンで時間を確認すると、ディスプレイに十時二十三分と表示された。
三限が始まるのは十三時二十分だけど、通学に一時間半近くかかるから、三限から行く時には家で早めの昼食を済ませていくことが多い。
でも今日は図書館から借りた本の返却期限だから、先に図書館に寄って、大学の学食で昼食を摂るつもりだった。
図書館がある辺りは大きな通りから外れているから、暗くなってから行くのはできれば避けたい。
私は黒いトートバッグに借りてきた本を入れると、ドレッサーの前で化粧を直した。
鏡に映る自分に満足したところで、スツールから立ち上がって部屋の戸締まりをする。
お父さんもお母さんもとっくに仕事に出掛けているし、出掛ける前に家の戸締まりを一通り確認しておこう。
私はトートバッグを肩に掛けると、窓がある部屋を回って戸締りを済ませ、玄関へと向かった。
下駄箱から取り出した黒いパンプスを履くと、白いプルオーバーに黒いパンツ、レースを取った淡いピンクのコート姿の自分を見下ろして、おかしくないかよくよくチェックしてから、玄関の外に出て鍵を閉める。
そうして廊下を歩いてエレベーターで一階に降りると、小さなエレベーターホールを抜けてマンションの外に出た。
図書館は駅の近くだから、私は迷わずに駅の方へと歩き出す。
図書館は駅より少し遠いけど、坂道を登ったり、わざわざ建物を回り込んで駐輪場に自転車を停めたりする手間を考えると、自転車より歩きの方が楽だった。
私は国道沿いに歩いて駅や総合スーパーの脇を素通りすると、道路を渡ってもう少し真っ直ぐ歩いてから、細い坂道に入っていく。
真昼の住宅街は人通りはあまりなく、車も時々しか通らない。
騒音が少しずつ遠ざかる中、道なりに真っ直ぐ歩いていると、柵の向こうに福祉活動ホームの白っぽい建物が見えた。
福祉活動ホームと同じ敷地の中にある図書館には、老人福祉センターが併設されている。
私は福祉活動ホームの脇をすり抜けて、その奥にある階段を上がった。
近くには車や自転車でも入れる出入口もあるけど、歩きならこっちから行った方が断然早い。
階段を上がれば、目の前はもう図書館だった。
老人福祉センターが同じ建物の中にあるだけあって、建物はかなり大きい。
細長いタイル張りの、これと言って目立つ特徴もない建物だけど、図書館兼老人福祉センターなら、これくらい落ち着いたデザインの方がいいだろう。
こちらは正面玄関ではないけど裏口があって、私は図書館と老人福祉センターの名前が書かれた自動ドアをくぐると、目の前の階段を上がった。
階段を上り切ると、そこは正面玄関のロビーになっている。
右手には福祉センターの受付があり、その真上には『海の音』と題された巨大なレリーフが飾られていた。
受付の向かいには『団体活動掲示板』と書かれた大きな掲示板と椅子があり、視線をもう少し右にずらせばエレベーターと階段がある。
更に視線を右にずらせば図書館の出入り口があり、上を見上げれば手描きの大きな浦島太郎の絵が一面に広がっていた。
この辺りは浦島太郎に因んだ地名が多く、地元の人にとって浦島太郎は馴染み深い物語なのだ。
私が自動ドアを通って図書館の中に足を踏み入れると、検索機や新聞・雑誌のコーナーが真っ先に目に飛び込んできた。
入ってすぐ左手にはカウンター。
向かいにある記帳台や新聞席の奥には背の低い本棚が並ぶ絵本や紙芝居のコーナーがあり、その左手は児童書コーナーになっている。
そして一般書のコーナーや一般閲覧席は、図書館の右手にあった。
落ち着いた色のライトが照らす図書館は一部がガラス張りになっていて、木々の木漏れ日が差し込む閲覧席で本を読むこともできる。
休みの日や夕方頃には自習に来ている学生さんも多いけど、今は定年退職して時間があるらしいおじいさんや小さい子供連れのお母さんが何人かいるだけだ。
勿論カウンターも空いていて、私はまず借りていた本を返すことにした。
また新しい本を借りていくつもりだけど、荷物を減らして少し身軽になってから本を探したい。
私が返却カウンターの前で足を止めると、作業中だった司書さんが私に気付いて手を止めた。
二十代半ばくらいの若い男の人で、今までにも何度か顔を見たことがある。
私はトートバッグの中から文庫本を取り出すと、カウンターの上に置いて言った。
「すみません、返却お願いします」
「お預かりします」
司書さんは文庫本を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。
図書館によっては中身を確認せずに返却処理をする所もあるけど、この図書館では汚損をチェックするためにいつもこうしてざっとページをめくる。
不意に、司書さんの手が止まった。
特に本を汚した覚えはなかったから、何だろうと思って司書さんが手を退かしたページを覗き込むと、そこには見覚えのない白いメモが挟まっていた。
「お忘れ物ですよ」
司書さんはそう言って私にメモを差し出したけど、私は顔の前で軽く手を振った。
「いえ、私のじゃありません」
「でも、あなたが借りた本に挟まっていましたから。本以外は受け取れませんし」
「そう、ですか……」
私は仕方なくメモを受け取ると、開いてみた。
そこには私の字じゃない字で「八月三十一日」とだけ書かれていて、やっぱり私の物じゃない。
変だなと思いながら、私はとりあえずメモをコートのポケットに入れた。
「という訳なんです」
私がそう話を締め括ると、紀之定さんは言った。
「なるほど。確かに妙な話ですね。でも、あなたが気付かない内に、ご家族やお友達が本にメモを挟んだ可能性もあるのでは?」
「何か理由があって隠しているのかも知れませんけど、家族も友達もみんな心当たりはないって言っていました。置き引き対策で荷物を置いたまま席を立たないように大学側から言われてますし、バッグには貴重品だけじゃなくてお化粧ポーチなんかも入ってますから、友達と一緒の時でもバッグを置いて席を立つことはありません。昨日は家で私が一番遅くまで起きてましたし、起きた時には家族は出掛けた後でしたから、家族の可能性も低いんじゃないかと。絶対とは言い切れませんけど、昨日の朝に残りのページを読んでから本を返しに行きましたから、もしメモが挟まっていたらその時に気付いたんじゃないかと思います」
「じゃあ、結論は一つですね」
紀之定さんは謎が解けたようで、自信たっぷりの口調で続けた。
「メモを挟んだのは、その司書さんでしょう」
「やっぱり、そうですよね……」
あれからいろいろ考えて、私も紀之定さんと同じ結論に辿り着いた。
私でも家族でも友達でもないなら、メモを挟んだのは司書さんしかいないだろう。
ページをチェックする振りをして、メモを挟んだに違いない。
そのくらいの見当は付いたけど、まだわからないことがあった。
「どうして、あの司書さんはこのメモを私に渡したんでしょう?」
「それはわかりませんが、この『八月三十一日』が何の日かわかれば、その司書さんの意図もわかるのではないでしょうか?」
思ってもみなかったことを言われて、私は目を瞬かせた。
「八月三十一日って、何か特別な日でしたっけ?」
私が通っている大学の後期の始まりは九月一日じゃないけど、小・中・高校と新学期は九月一日だったから、八月三十一日と言えば夏休み最後の日というイメージしかなかった。
私は宿題は早めに終わらせるタイプだから、最終日に宿題に追われるようなことはなかったけど、毎年憂鬱な気分で過ごしていた記憶しかない。
私が首を傾げると、紀之定さんは言った。
「はっきり断言はできませんが、例えば三月三日はひなまつりの日であると同時に耳の日でもありますし、八月三十一日も何かしらの日と定められているのではないでしょうか? 今はまだ四月ですから、呼び出しだとしたらあまりにも先の話になりますし、その司書さんが伝えたいことがこの日付けの中に込められていると考えた方が自然でしょう」
「ですね……ちょっと調べてみます」
私はコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、『八月三十一日』をネットで検索してみた。
そして、ディスプレイに表示された文字列に私は目を瞠る。
「……『I LOVE YOUの日』、だそうです。八つのアルファベットと三つの単語、一つの意味を持つ言葉ってことで、英語圏では有名みたいですね」
会話らしい会話なんてほとんどしたことがない私に、あの人が想いを寄せているらしいとわかっても、正直あまりピンと来なかった。
でもそれを言うなら、紀之定さんのことが気になっている私だって似たようなものだし、私の何かがあの人の心の琴線に触れることがあってもおかしくはないだろう。
私がそう納得していると、紀之定さんは言った。
「やっぱり、愛の告白だった訳ですね。何となくそんな気はしていましたけど。確か司書さんは若い男性だったんでしたよね?」
「はい」
『八月三十一日』は八三一の語呂合わせで『野菜の日』でもあるらしいけど、そちらは無視していいだろう。
ほとんど見ず知らずの異性に図書館で野菜を勧める人がいるとも思えないし。
「でもこれ、かなり回りくどい告白ですよね。私が気付くとは限らないのに、どうしてこんなわかり難いことしたんでしょう?」
「多分、はっきり『好きだ』と伝える勇気がなかったんでしょうね。気持ちに気付いて欲しいけど、気付かれるのが怖くて、でも伝えたくて……気付かれなくてもいいと、そう思っていたのかも知れませんよ」
あくまでも推測だけど、紀之定さんのそれは当たっている気がした。
好きな人に、自分の想いに気付いて欲しい。
でも恥ずかしくて、拒絶されるのが怖くて、気付いて欲しくない。
そんな気持ちがごちゃまぜになって、このメモになったのだろう。
このままあの司書さんの想いに気付かなかった振りをするか、はっきり断るかはまだわからないけど、少なくとも私にあの人とどうこうなる気は全くなかった。
今の私は紀之定さん以外の人に興味はないし、紀之定さんのことを少し知ることができて、もっと紀之定さんのことを知りたくなったから。
私は紀之定さんに向かって、丁寧に頭を下げた。
「おかげ様で、謎が解けてすっきりしました。ありがとうございました」
「こちらこそ、興味深い謎をありがとうございました」
紀之定さんは私に頭を下げ返すと、笑顔で続ける。
「また何か興味深い謎がありましたら、お話を聞かせて頂けると嬉しいです」
それはつまり、新しい謎という手土産さえあれば、また紀之定さんと話せる機会があるということだ。
絶対に謎を見付けよう。
私はそう固く決意しつつ、頷いた。
「わかりました。その時には、また謎を解いて下さい。じゃあまた」
「行ってらっしゃい」
私はもう一度紀之定さんに頭を下げると、後ろ髪を引かれる思いで丁度ホームにやって来た電車に乗り込んだ。