②
瀬名は自室のベッドの端に腰かけ、一冊の本を開いて読み耽っていた。
主に、無性愛について記載している本だ。近辺の図書館を見て回っても無性愛をテーマに出版されている本がなかったため、ネットで探して購入したのだ。ネット自体にも無性愛の情報を載せているサイトはあったけれど、以前に瑞樹に言われたように、ネット媒体の情報にあまり期待していなかった。しないようにしていた。間違った情報を取り入れて、間違った知識として蓄えて、間違った発言をしてしまうのは、今後生きていく上でも危険な言動となる。下手すれば相手の心をかなり傷つける可能性もある。
性というのは人の根幹的な部分であり、とてもデリケートな部分だ。
だからこうして、実際の無性愛者の体験談も含めた本から調べていく方が無難だと考えている。
その本には瀬名がいままで無性愛に関していまいち理解できていなかったこと、知らなかったことを仔細に記していた。
アユムや瑞樹が言っていたように、どうやら無性愛というのは難しい立ち位置にある性的指向、あるいは性的指向にカテゴライズできるかどうかも判断できない性質のようだ。また、性的な行為に嫌悪感を覚える性嫌悪や性行為への関心、思考が低下する性欲減退とも異なる。
だが性質的には異性愛、同性愛、両性愛と並ぶと考えられている。
観点を少し変えれば、アイデンティティとして考えるのが妥当なのかもしれない。
客観的に無性愛も性的少数者に区分されるのだが、無性愛には無性愛独自のシンボルがあるらしく、それを「プライドフラッグ」と呼んでいる。文字通り、旗のシンボルだ。似たようなものが性的少数者を象徴とする、虹色のプライドフラッグ。けれど、無性愛者を象徴するプライドフラッグは虹色ではなく、黒色、灰色、白色、紫色の四色から成り立っている。
変だな、と瀬名が思ったのは、LGBT──レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー──と性的少数者のシンボルフラッグが同じ虹色の旗なのに対し、なぜ無性愛は暗色を使用した旗色なのか、という点だ。同じプライドフラッグを使えばいいじゃないかとも考えた。
その点についての説明は、残念ながら、なかった。
しかし、だからなのかもしれない、と考えさせられるような一文に瀬名の目が留まった。
『無性愛者は異性愛、同性愛といった性的マイノリティからも不当な差別や迫害を受けているという研究結果がある』
筆舌に尽くしがたい、複雑な感情が沸き上がった。
──どうして。
自分の手に力が入っていることに、瀬名は気づかなかった。そのまま読み進めていくと、無性愛者の悲惨な待遇、対応、現状が記されていた。
世界中にあるLGBTのコミュニティの中には、無性愛者を厭うところもあるらしく、偏見にさらされている。でも、確証たる証拠がないため、どう対処対応することもできていないのだ。名のある活動家や当事者である社会学者がそういった、無性愛者の受ける悲劇的な境遇について「同性愛や両性愛よりも、人々の理解が遅れているから」と論じている。
瀬名は沈鬱な気持ちになると同時に、心の底から、安堵していた。
SMクラブのメンバーに無性愛をアウティングしたとき、彼らは瀬名を微塵も忌み嫌うことなく、快く受け入れてくれた。SMクラブがLGBTに限らず性的少数者全体を対象としたコミュニティであるからか、もしくはメンバー全員が偏見にさらされた経験を持っていたから瀬名を受け入れてくれたのかもしれない。なににしても、僕の入ったコミュニティがあそこでよかったと瀬名は改めて安心感を覚えた。
だけれど、もの寂しさも感じていた。
──僕は、虹じゃないんだ。
LGBTと性的少数者を象徴するフラッグは虹色、瀬名と同じ無性愛者は曇天のような暗色のフラッグ。もちろん瀬名の考えすぎで、妄想で、まったくの事実無根だが、コミュニティの仲間外れにされたような気持ちになった。
それは、SMクラブを自分の居場所だと無意識に認定していた証拠でもあった。
メンバーの誰もが寛容で、優しく、温かい。
ひとりも異常ではない、正常な人たち。
あのアットホームな居場所から追い出されるかもしれない、なんて考えてしまうのはメンバーに失礼極まりないだろうけれど、無性愛者の現状を知ってしまうと否応なく悲観的な想像は際限なく広がってしまう。
最初から孤独な人間は孤独を恐れはしないが、グループというものを味わってしまった人間にとって円の中からつまはじきされるかもしれないというのは、未開拓の虚空へ放り出されたような寂寞に震え恐れる。
瀬名はそれでも首を振って、ネガティブに沈んでいく思考を振り払った。僕と同じ無性愛の人が参加してくるというのに、僕がこんな状態だったら彼女を余計に不安にさせてしまう。
現実に目を向けて知るべきことを知っていくのは前向きでいい姿勢だが、一時的には知らなくていいことも、世の中にはあるのかもしれない。
本を閉じて勉強机の上へ置いた──今日のところはとりあえず、読むのは、知るのはこれくらいにしておこう。
黒のチノパンのズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、何件かメッセージが溜まっていた。送信者はいずれも同一人物で、船越圭太からだ。
『来週の水曜日、予定空いてる?』
これが船越から送られた最後のメッセージだった。これよりも前のメッセージに関してはバイトの愚痴やら、例の想い人の話ばかりで瀬名はそれらをスルーした。
来週の水曜、と考えてその日はちょうどSMクラブでバーベキューが開催される日だった。
既に予定が組んである旨を船越へ送ると、すぐさま返信が来た。不満を表した顔文字だけが送られてきて、瀬名も礼儀として申し訳なさを示す顔文字を送信した。諦めたのか、船越からのメッセージは止まった。
いましがた、瀬名は再認識する。来週には、ひとつ年上の、自分と同じ無性愛の女子がコミュニティへ新入することを。彼女は無性愛のことをどれくらい知っているのだろうか。少し気になった。コミュニティ内で、いずれ同じアイデンティティをもっている数少ない人物となる。ともあれ、僕はどうしようもなく、彼女と接点をもつことになる。
いろいろな感情が入り混じったまま、色々な人が一堂に会する日は近い。