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君がいた虹の夏に  作者: ほしがひかる
SMクラブ
4/10

 場所は体育館近くの自動販売機前へと移動した。本校舎の自動販売機には炭酸飲料が充実しているため、それら刺激系の飲料水がないこちらの自動販売機は生徒たちにあまり需要がなかった。高校生は水分補給にさえ刺激を求める。


「それで」瀬名は自販機で紙パックのレモンティーを購入して続ける。「深い部分の話って、どういう話なの?」


 自販機の横に座ってコーヒー牛乳のストローを咥える瑞樹が振り返った。


「まあここに座りたまえよ、上坂くん」彼女は瀬名を自身の隣へ座るよう促した。


 指示通りに瑞樹の左隣の地べたに腰を下ろした。再び、それで話って、と訊こうとしたよりも早く、彼女が切り出した。


「昨日、上坂くんが船越君と話してるの、たまたま聞いちゃってさ」


 昨日、と瀬名は繰り返して、一日前の記憶を回想した。なにか、瑞樹葵の気に障るような、あるいは気にかかるようなことを圭太と話しただろうか。まったく覚えがなかった。強いて言えば、彼がバイト先の恋焦がれる女子の話から締めにはやや卑猥なワードが飛び交っていたかもしれない。

 けれど、そんなことは男子高校生であれば日常茶飯事、常に教室内をほっつき歩いているような話題ではないか、と思う。

 瀬名自身、友人たちの猥談へ積極的に参入することは滅多にないが。

 覚えてない? という風に、瑞樹が瀬名を(うかが)った。


「いや、瑞樹さんがなにを指してるのか、見当がつかない」

「さん、はいらない」彼女はコーヒー牛乳を啜った。「覚えてないかなあ。上坂くん、昨日、私的にはとても興味深いことを言ってたのに」


 自分自身の発言が発端なのに、まるでわからない。埒が明かないと判断し、瀬名は率直に訊ねる。


「昨日の僕はなにを言ってたの」レモンティーで喉を潤して続けた。「教えてくれる?」


 すると、彼女はようやく加え続けていたストローを口から離して、瀬名を見た。瀬名も真正面から視線をぶつけた。


「上坂くんは興味がないって言ってた」一拍の間を置いて、続ける。「上坂くんは、エーなのかな?」


 説明してもらったはずなのに、なにひとつ理解できていなかった。僕の頭が悪いのかな、と瀬名は自分の非を考慮しつつ、「興味がない? エーってなに?」と改めて問いかけた。


「なんかさ、船越君が恋人になれたらどうこうできるんだろうなーみたいなこと言ってたじゃない? それに上坂くんは興味ないねって言った」


 そこまで言われて、そうして瀬名は思い当たった。たしかにそんなことを発言していたけれど、どうしてそこを(すく)い取るのか?


「だから、上坂くんはA、つまり無性愛者なのかなって」

 聞き慣れない単語だった。「無性愛、者?」

「そう」と瑞樹が頷いて、交わし続けていた視線を逸らした。「無性愛者──アセクシュアルって耳にしたことないかな。LGBTとは違って自認的な性的指向だから定義もコミュニティや国に違って、本人ですら判別が難しいらしいんだけれど」


 呆気に取られた、というのが瀬名の素直な所感だった。ものの数秒で未知の言葉が次々に投げかけられてくるのに対し、彼女がなにを言っているのか、どんな話をしているのか、なにひとつ理解できていない。

 昨日の船越のように延々と語り続ける瑞樹に歯止めをかけなくては。


「待って、そもそも無性愛者って? LGBT? 性的指向?」


 質問は会話のストッパーとしては有効である一方、円滑に進まないため相手の機嫌を損ねる手段でもある。しかし瑞樹に関してはそんな心配も杞憂だった。


「ごめんごめん、いきなり言われてもよくわからないだろうね。じゃあまず確認からなんだけど、上坂くんはいままでに好きな人とか、いた?」

「いない」即答した。「そもそも好きっていうのが、わからないんだ。なににしても、あらゆることにしても」


 ふと、中学時代に好意というものを理解しようと試みて傷つけてしまった女子のことを思い出した。悲愴に満ちて、悲嘆した女の子。好意という感情があれを招く元凶であるなら、そんなものは理解しなくていい。

 一方、隣の少女は嬉しそうに目じりを下げていた──なぜ嬉々としているのか、瀬名にはわからない。


「そっかあ、そっかそっか。なら、上坂くんはやっぱり無性愛なのかもしれないね」


 これから長く話すと考えたのか、瑞樹は一気にコーヒー牛乳を吸い上げて紙パックをぺしゃんこにした。準備は整ったようだ。


「それじゃ、最初は無性愛の話からだね。無性愛って言っても、さっき言った通り定義が曖昧で人によっても、コミュニティによっても、国によっても異なるんだ──どこも言ってることは大体同じなんだけどね。一応、日本では性的な関心がない人を指すの。で、私的には恋愛感情とか異性そのものに対して意識が希薄な人もそうなんじゃないかなって思ってる。そして昨日、上坂くんは何気ないつもりで言った一言だったかもしれないけれど、悩んでることはないのかもしれないけれど。私は、私と同じ、そういう性的少数者の人を探してたんだ」


 要約、簡潔に言えば情欲がない人、それを無性愛者と呼ぶらしい。瀬名はそう咀嚼した。正直に言えば、心当たりがあった。恋愛感情が希薄、という瑞樹の言葉は瀬名の心の的をたしかに射ていた。

 だが、それよりも気になったのは。


「同じってことは、瑞樹も無性愛者?」


 彼女の返答は、ノーだった。


「私は無性愛じゃないけど。あー、ここでもうアウティングしちゃっていいかな?」


 何かを確かめるように、瑞樹は首を傾けて瀬名を一見した。

 瑞樹が逡巡したのちに、続けた。


「私、女の子が好きなんだ」あどけない微笑みを浮かべて言った。「あ、これ、絶対誰にも言わないでね」


 少し、気落ちした。

 というのも、放課後に密談することから始まる恋物語がスタートから瓦解した、なんてことではない。瀬名は心のどこかで、自分と同じ境遇の人を探していた。恋に恋しない、異性にも恋しない人を。話の流れからして、もしかすると瑞樹もそうではないかという期待があったのも確かだった。そこが早々と切り落とされたから、少し、肩を落としたのだ。

 ──同性だったとしても、瑞樹は恋を、好意を知っている。

 それは青春の真っただ中を過ごす同年代として、天地の差が生じていると瀬名は考える。こう考えていると恋愛に切望していると勘違いされてしまうかもしれないが、望んでいるわけではない。客観的に、一般的に見れば、恋愛を素直に楽しめている学生は活き活きとしている。その明暗の差だ。


「なんで」誤魔化すように瀬名が言った。「なんで、僕みたいな人を探してたの?」


 瑞樹は一瞬、ぽかんとした表情──どんな表情も抜け落ちた顔になった。それから、また口角を上げた。


「寂しいっていうか、なんて言うか、私も心弱いんだよね。だれか一人でも同じような人が身近にいてくれると心の支えになるっていうか。とにかく、セクシュアルマイノリティの人がいれば、私ひとりだけじゃないんだって安心するじゃん?」

「いきなり共感を求められても」瀬名は苦笑した。「それで、探してたんだね」

「うん」


 これまでのうら寂しい様子を表すみたいに、彼女は小さく膝を抱えた。


「コミュニティには参加してるんだけどね。でも同じ学校に通ってる人でいないかなって、ずっと思ってた」

「コミュニティって、なに?」


 また会話が滞ってしまうが、もはや気にしなかった。自分にとって未踏の世界は知らないことばかりで当然の話なのだ。いつまで経っても訊くことを恐れていては、遠方から望遠鏡で眺めているのと変わりない。


「私みたいなLGBT──同性愛の人とか、両性愛の人、性同一性障害の人が集まって色々話すところ、存在を受け入れてくれる場所、かな」

「そんなのがあるんだ」

「うん。私の参加してるコミュニティ、高校生限定なんだ。同じ年齢くらいの人ばかりだから、気を遣う必要もないし、すごくアットホームな感じなんだよ」

 

 あ、嫌な予感がする。

 瀬名が思い至ったときにはすでに遅く、瑞樹が言った。


「上坂くんも来てみる? 今度の土曜日、何人かの人と集まるんだけど」

「いや、いいかな」


 瀬名の逡巡のない返答に「なんで」と瑞樹は吃驚(きっきょう)の声を上げた。

 なにをそんなに驚いているのか、瞬間にはわからなかったが、瀬名は瑞樹の顔を見て瞬時に理解した。


「上坂くんも気持ち悪いって、おかしいって思うの? ホモフォビアな気持ちを抱いてるの?」


 瑞樹は、瀬名の制服の袖に力強く、引き止めるかのようにしがみついた。


「お願い、別にコミュニティには参加しなくてもいい。けど」次第に感情が剥き出しになっていき、声が大きくなっていく。「(ばく)()だけは、それだけは絶対にやめて。さっき誰にも言わないでって、私──」


 瑞樹のそれは、明らかに拒絶を恐れているものだった。同性愛の知識に乏しい瀬名ではあるが、ホモフォビアという単語は見聞したことがあった。極端に言えば、同性愛者を(いと)う感情。自らが同性愛者であることを明言した少女にとって拒絶は、最も恐れるものであるに違いない。

 けれど、そうじゃない。

 瀬名が「いや、いいかな」と言ったのは、そうでは──ない。


「僕は、まだ恋とか愛を知らないだけなんじゃないかなって考えてるんだ」


 話の急な切り替えに、袖にしがみつく彼女は受け止め切れていないようで、先ほどの取り乱し方が嘘のように、ストップボタンを押したように急停止した。

 瀬名は続ける。


「無性愛っていうのをついさっき初めて知ったけど、自分が性的少数者だと自認できていないんだ。自らを認めたくないんだ。くだらない矜持(きようじ)だって思うだろう? 別に瑞樹とか、他のLGBTの人を蔑視(べつし)しているわけじゃない。きっと、僕は自分が可愛いんだよ」


 拒絶ではなく、抵抗感がある。

 拒絶は自分と違う相手を拒み、抵抗はいままでの自分を保守するために抗う。

 セクシュアルマイノリティを忌み嫌っているわけじゃない。それは間違いない。けれど、自分が新しい場所へ踏み入るのに、恐れている。それだけの話だが、この不安は見方を変えればありふれている話なのかもしれない。入学、入部、入社、転校、転職。どれも新境地への踏み出しであり、誰もが不安を感じている。変化に恐れない人はいないはずだ。不安を覚えてから悲観的に考えるか、楽観的に考えるかの差異。それが一歩分の歩幅が大きく変わってくる。


「無性愛者として、瑞樹のコミュニティへ参入することから逃げたいだけなんだ」


 これは保守的な弁明であり、建前だ。

 本当に言いたいことは、拒絶を恐れている瑞樹を落ち着かせるひと言。


「さっきの拒否は、拒絶じゃないよ」


 瀬名は努めて柔和な笑みを浮かべた。これまで作ったことのない、自分でも不思議な心情になる微笑み。自らのためではない、誰かのためのそれは、果たして有効だった。

 袖をつかむ瑞樹の手が緩んだ。


「ごめん、私の早とちりだったね」


 好きになる対象が人と違うという違和を抱いている瑞樹がそうなるのも仕方ない話だろう、と瀬名は考える。僕自身もわからない話ではない。周りの友人たちが恋に恋したり、現に恋人ができたりしている中で、僕だけ恋愛以前の問題、好きという概念が理解できていない。なんとなく焦燥感に駆られる覚えが何度もあった。


「周りの人と違うのが怖いっていうのは、まあ、僕もわかるよ」

「上坂くんはそれで、困った経験とかなかった?」

「困ったことはなかったな。けど、悩んだよ」瀬名は視線を地面に落とした。「中学のとき、一度だけ女子と付き合ったことがあった」


 なぜこの話を切り出したのか、瀬名自身も理由は判然としなかった。たぶん、平等でありたいからかもしれない。瑞樹が同性愛であることをカミングアウトしたのだから僕もなにか、と。


「告白されて、ちょうどその頃の僕は好きを理解しようとしてたんだ。気まぐれに、合理的にその子と付き合ってみることにした。結果から言えば、結局好きを理解できなくて、その子を好きになれなくて、その子を傷つけることになって、一カ月ももたずに別れた」


 最低だろ、と瀬名は自嘲した。

 しかし。


「そうかな」


 と瑞樹は立ち上がって自販機の側面に背中を預け、瀬名を見据えた。彼女の視線に否定的な感情はなかった。


「そんなの、ありふれた話じゃない? むしろ両思いで付き合い始めるっていう方が事例としては少ないと思う。片思いの子が告白して、運よくオーケーされて、でも付き合い始めたらうまくいかなくて。古本屋に安売りされてる恋愛漫画くらいに、きっと、月並みなことだよ」


 瀬名は首を振る。


「そうかもしれないけれど、問題は別れたことじゃない。相手の子を自分のために利用して傷つけたってことだよ」

「どうしてその女の子が傷ついたって、上坂くんはわかるの?」

「それは」


 瑞樹の返しに、瀬名は(きゆう)した。

 確認したわけではない。でも、普通に事の経緯から考えれば相手は少なからず心に傷を負ったはずだ。一過性のものであり、時間が薬となってすでに癒えている可能性もある。が、記憶までなくなったわけじゃない。記憶に残り続けている限り、思い出す。その度に苦い思いをする。

 なにより、瀬名はその目で見たのだ──別れを告げた際に、女の子が流した涙を。


「あの子は泣いてた。それは、僕が傷つけたっていう他ならない証拠だろう」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよ」


 真摯な表情で、瑞樹は続ける。


「あのね、上坂くん。女の子は男の子が思ってるよりずっと強いんだよ。もし相手の子が心を痛めてなかったとしたら、言い方悪いけど、それは上坂くんの思い上がり。あるいは、上坂くん自身がとても偽悪的な人で、純粋な善しか許容できなくなってるの。偽善が許せなくて、相手の子を利用したエゴイスティックな自分自身を許せなくなってる。でも、その理由のためにまた相手の子を利用しようとしてる」


 そこはよくないよ、と瑞樹は芯の通った声で言った。

 瀬名は彼女の瞳を見続けた──彼女の主張を、言葉を、素直に綺麗だと思った。

 正しくて、ガラスの破片のように鋭くて、確実に胸に刺さった。

 性に、恋愛に、困難し、苦難し、苦悩してきた彼女だからこそ放てる言葉なのだろう。

 人が美しい景色を見たときに言葉を失うみたいに、瀬名はなにも言えなくなった。すると瑞樹は優しい笑顔を見せた。


「もしかしたら、それが原因なのかもしれないね」

「なにが?」いや、違う。「なんの原因?」

「上坂くんは好きを理解できないんじゃなくて、理解してはいけないって心の深い場所で思ってる。中学のときの出来事がきっかけで、咎人みたく、ずっと十字架に縛り付けている。だから、なにも好きになれなくて、嫌いにもなれないんじゃないかな」


 どうだろう。

 中学の一件は、瀬名の思考を手堅く制限している。とは言え、そのせいで理解を拒もうとしているかどうかは不明だ。元から好き嫌いがなかったのは明白な事実だし、それが無性愛に直結しているかもわからない。少なくとも、中学のことが拍車をかけたのは間違いない。


「それか、本当に無性愛者なのかも」

「僕にもわからない」瀬名は苦笑した。「僕自身のことは、僕が一番近いから、近すぎて全体を見渡せない」


 ストローを咥えてレモンティーを吸い上げようとすると、いつの間にか、飲み干していた。瀬名は腰を上げて、紙パックをゴミ箱へ捨てた。

 それなら、と瑞樹の声が背中越しに聴こえて振り返った。


「一回だけでもコミュニティにおいでよ。確証はないけど、上坂くんの知りたいこと、理解したいことが存在する場所だと思うよ。なんか宗教の勧誘並にしつこくて、ごめんね」


 自分が知りたいこと、理解したいこと。

 それらの答えがある場所があるのだとすれば。


「そのコミュニティ、なんていう名前なの?」


 行ってみるのもいいかもしれない。


「最初に言っておくけど、セクシュアルマイノリティのイニシャルだからね。SMクラブっていう名前」


 瀬名は小さく笑って、袖で口元を隠した。


「なんか、ずいぶんな名前だね」

「私もちょっと思ってる」


 どこにでもいる女の子のように、普通の女の子のように、瑞樹葵は歯を見せて笑った。

 ──性的少数者は、異常性愛者なんかじゃないんだ。

 その誰もがきっと、普通の人となんら変わりない。


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