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高校一年生で肝要なことは、高校という子供と大人の板挟みに慣れることだ。上坂瀬名はそう考えた。そうして環境に慣れ、二年生になってから自分という存在をクラスメイトに明かせる。仲の良い友人に隠している秘密はあれ、なかなか深いプライベートまで話せる間柄になるはずだ。
進級してクラスメイトの面々が変わって、ようやく落ち着いてきたゴールデンウィーク明け。
特筆すべき出来事はなかったはずだ。
でも友人たちとのありきたりな下の話から、すべてが始まったことだけは確かだ。
1 五月上旬
前の席に座る短髪男子の船越圭太が振り返り、瀬名を見据えて言った。
「聞いてくれ、瀬名」
文系選択者として今日一日の授業で最も気だるい化学が終わり、船越は少し疲弊しているようだった。あるいは襲い掛かる睡魔と闘っていて、授業の内容を一抹も覚えていないかもしれないけれど。
「どうしたん」と瀬名が耳を傾けた。「昨日の続き?」
「そう」
昨日、瀬名は船越から相談を受けた。バイト先にいる他校の女子に想いを寄せている、とのことだった。
無味だった日常にコショウ程度のスパイスが加えられた。少しの間──いつまで続くかは判然としないが──は、まったくの退屈ということはないだろう。瀬名は従順に聴覚へ意識を向け続ける。
「マジでね、可愛いんだよ、いや綺麗なんだよ、いや綺麗と可愛いの中間? 両方を備えてるっていうのか? とにかく、めちゃくちゃいいんだよ」
「昨日も聞いた。なにか発展があった?」
船越が大袈裟に肩を上下させて、あからさまに落胆している様を見せた。「進展発展があったら、こんな表情してねぇっつの」
知る由もない彼の恋事情の八つ当たりに、瀬名は微かに眉をひそめた。
「はいはい。それで、僕はなにを聞けばいいの?」
「聞いてくれよ」
「だから聞いてるっての」椅子の背もたれに寄りかかって続ける。「言っとくけれど、適切なアドバイスとかを僕に求めても意味ないからね。期待しないでよ」
「いや、とにかく話さえ聞いてくればいいや。もう、なんて言うのかね。すっげぇ胸が苦しいの。誰かに話さないと肺が火傷しそうなの」
「乙女か、お前は」
船越の有様に瀬名はツッコミを入れて笑った。おかしくて仕方ない。たった一度の恋が、先日まで堅物だった彼をここまで変えたのだから。
「瀬名だってわかるだろ? 一目惚れとか、いままで一度くらいはあったはずだ」
瀬名は首を振った。
「ないよ」
「嘘だ」船越が即座に返した。「お前、それは盛ってる。恋愛経験なくても、恋したことくらいはあっただろ。幼稚園のときの先生とか、小学校のときの教育実習生とか、中学校のときの図書委員だった女子とか、バイト先での他校の人とか」
「それ全部、圭太の体験談だろう」天井を仰いで続ける。「本当に、一回もないよ」
瀬名は幼少期から好き嫌いがないことをよく褒められた。給食でピーマンをつまはじきしたこともないし、苦手な授業科目もないし、嫌いだった人もいない。
だが好き嫌いがない、つまり嫌いがなければ好きもない。料理、趣味、勉強、友人、異性のどれをとっても「好き」という概念が理解できない。中学生時代に恋愛を理解しようと試みたことはあったものの、結局得られたものはなかった。
それだけでなく瀬名には、本能的に人が抱く性欲すらわからなかった。湧かなかった。
たとえば性欲が強い人に「セクサロイドを抱け」と命令したとしたら、その人物は是非もなくセクサロイドを抱くだろう。その行動の根源的な部分にあるのは快感である。快感を求めてその人物はズボンを降ろすに違いない。瀬名は、まず意味を問う──それをしなくちゃならないのは、なぜ? と。理由なくして行動に移さない、移せない。根拠ありきなのだ。
だから性的不能というわけでは、ない。意思とは無関係に屹立するものは屹立する。万が一、適齢期を過ぎた女性の妊娠確率よりも低い確率で将来自分が結婚するとしたら、奥さんに子供が欲しいと求められるだろう。そしたら奥さんの欲求に応えてあげることも可能ではある。
だが、いままで瀬名の性意識と身体が重なったことはない。
それに周囲に血気盛んな、自分とは違う「汚れた愛」を夢見る生徒たちがいると懐疑することが度々ある。どうして僕は性欲がないのだろう。この疑問が解決したことも未だにない。
だから、少しだけ、恋に没頭している船越が羨ましく思えた。
注釈をつけると、彼とは気の合う友人である。けれど、気が合うと好きは似ているが異なる。
「僕の話はいいよ」瀬名は逸れた話を戻した。「で、その人、なんて名前だっけ?」
「四つの季節って書いて、四季さん。本名はわからん」
「え、知らないの? ていうか、それ、あだ名なの?」
「俺ホールで、四季さんはキッチン。シフト表もホールとキッチンで別だし、みんなそう呼んでるんだから、しょうがねえじゃん。今度キッチンのシフトで確認してくるけど」
「その四季さんに直接訊けばいいじゃないか」
瀬名の当然の指摘に「バカ」と船越が一蹴した。「まだ一回も話せてないんだよ、最初の挨拶以外で。いきなり話しかけたら変なやつだと思われるだろ」
疑いようもなく船越が変人だと思うのは僕の間違いなのか、と瀬名は心の内で自問した。
「あー、マジで四季さん天使。四季さんがキッチンにいる日、俺やる気マックスになるんだ。てかね、スタイルも綺麗なんだよ。スレンダーっていうの? 体の線が綺麗で──」
壊れたラジカセみたいに延々と四季という人物の魅力を語り続ける友人の姿は、正直に言って、見ていて愉快だった。
授業と授業の合間に設けられた休憩時間は十分。その内のおよそ八分間を彼は浪費して、そして最後を卑猥に締めくくった。健全でありきたりな男子高校生として。
「──恋人になれたら、どエロイこと、できるんだろうな」
机に頬杖を突いていた瀬名は、ふと片方の口角を上げて返した。
「あまり、興味ないね」と言って、瀬名は心の中で訂正する──あまり、じゃなくて、全く、だけど。
なんだよ、お前もやりたい盛りだろ、と船越が口を尖らせていた。
***
その夜だった。
瀬名のツイッターのタイムラインは、あちこちへ散らばった中学の同級生の呟きで埋まっていた。『中学に戻りたいわ』『彼女できました! 誰も取らないでね。あと女絡み要らないデス』『明日の放課後、誰か遊べる人いないかな』『こいつ、ホント馬鹿www』『あの禿げ教師、もうやめろよ』。
──みんな、元気だな。
それは、あるいは皮肉を込めた所感だったのかもしれない。昨日になってやっと些細な刺激が加わっただけの日常を過ごしている瀬名が、青春を謳歌している同級生を羨望しているのは否定しない。でも、同時にくだらないなと軽視している自分がいることも事実だった。
タップとスライドを繰り返していると自室のドアの向こう側から、母に入浴の催促をされた。携帯電話をベッドへ放って瀬名は着替えを持って浴室へ向かった。
シャワーだけ浴びて、早々に自室へ戻ってきた瀬名が再び携帯電話を手に取ると、何らかの通知を表す青ランプが点滅していた。おそらくメールだった。日々大量に送られてくる広告のメール。いちいち確認するのが億劫になる通知に一瞬の苛立ちを覚えたが、確認してみたところ、広告のメールではなく、ツイッターのダイレクトメッセージだった。なによりも先に、差出人の名前に目がついた。
ミズキ
知らない相手だった。しかも、瀬名のフォロー外のアカウントだった。どうやら相手はDMを送ってくる直前にこちらをフォローしたようだ。最初は中学の同級生にミズキという名前が該当する人物がいたか、思い返した。けれど記憶している限りでは、瀬名の同級生にミズキという名前の女子はいなかった。もしかしたら関わりのなかった女子の中にそういう名前の人物がいた可能性はある。だとしても、なぜ僕に? 一瞬にして様々な疑問が頭に思い浮かびあがった。
数々の疑問を置いて、先ずもって送信されたメッセージに目を通す。
『こんばんは、上坂くん! 同じクラスの瑞樹葵です! 私のこと、わかるかな? クラスの廊下から二列目、一番後ろの席の女子!』
そこまで読んで、瀬名は彼女の顔と名前が合致した。緩めのパーマをかけたような短い髪型の女子だ。瀬名は窓側の列の席に座っているため、教室という狭い世界では彼女と遠い距離に位置する。けれど彼女のことは知っている。学校では絶えず話し相手がいる、明るい性格の少女。瀬名のクラスメイトのカテゴリーでは、そう区分されていた。
瑞樹からメッセージが送信されたのは、つい五分前。彼女の自己紹介だけで、唐突に彼女がメッセージを送ってきた意図がわからない。何はさておき、瀬名は『こんばんは。わかるよ』とだけ返信した。間もなくして携帯電話のバイブレーションを手の中で感じた。
『それならよかった! 急にごめんね』
『別にいいけれど、どうしてまた僕にメッセージを?』
三分ほどの間が空いて、再びバイブレーション。
『ちょっと上坂くんに訊きたいことがあったんだ。それで明日の放課後に時間を空けておいてほしいと思って、メッセージを送ったんだ!』
このやりとりでは訊けないことなのだろうか、と瀬名はどこか怪訝なところがあった。明日なら明日でも構わないのだが。
一応、その旨を伝えてみるも、すぐに否定の意を濁らせた返信が来た。
『うーん、DMでもいいんだけれどさ、お互いにプライベートな話になると思うんだ! だから、そういう深いところの話は直接話すべきなのかなって!』
お互いにプライベート? 深いところの話? その文字たちが一体自分のどこを指しているのか、一切理解、予測ができなかった。なぜ今日、ましてや数分前に接点を持ち始めた彼女と私的な話をしなければならないのか、思い当たる節もない。こちらとしてはなんのメリットもない上に、端的に言って怪しすぎると瀬名は直接話したこともないクラスメイトを警戒する。
拒否しよう。
そう結論した矢先、返信していないのに携帯電話が震えた。
『上坂くんの答えを出すより先で悪いんだけど、先に場所だけ教えとくね!』
と彼女に先手を打たれた。頷こうか断ろうか足踏みしていたのが悪かったんだ。
『明日の放課後、そのまま教室に残っててくれると嬉しいな!』
数秒のあいだ液晶を眺め、瀬名は携帯電話をベッドの枕元へ放り、自身もベッドへ背から倒れ込んだ。シャワーから上がって僅かに眠気が押し寄せている。このまま眠ってしまう前に瑞樹葵へ返信した方がいいだろうか。時間が時間なので眠ってしまったということにして無視しても構わないだろうか。悩んでいるうちに瞼の開きが鈍くなってきた。
結局のところ、瀬名は返信について悩んでいたが、そのまま眠り落ちてしまった。
だが宵闇へ意識が落ちる前、一つの指針だけは決まった。
──明日の放課後、急いで帰宅しよう。