五日目
奥様は風邪気味とのことで、夕食はいらないと言われた。
今日の仕事は階段を彩るステンドグラスの窓拭き。エントランスホールの掃除。季節の食器の入れ替えといったところだった。それらが片付いた後、しずりは先輩家政婦の土屋さんと一緒に夕食を頂いた。腕を見込まれ採用されたという土屋さんのロールキャベツは、料理店などとはまた別の温かい家庭の味だった。
本日の水島御殿には奥様の他には、しずりと土屋さんの二人しかいなかった。一般家庭のリビングより広いであろうキッチンで、ニュースの音声が反響している。自己判断でテレビを持ち込んだのは土屋さんだと聞いた。窓ガラスの向こうでは、整然と並ぶ庭の木々が風に靡いている。
この屋敷で常勤しているのは基本的に土屋さん一人。平日には青木さんという女性も働いていて、しずりも一、二度会ったことはある。少々取っ付きにくい感じの人だったが、水島家で20年近く働いているベテランとのことだった。
「土屋さん。奥様のお部屋のポスターなんですけど」
しずりは以前から聞こうと思って、聞きそびれていたことを尋ねてみた。「ポスター?」と土屋さんは箸を持つ手を止める。
「北側の壁に、選挙ポスターくらいの大きさの紙が貼ってありますよね?」
「ああ~、はいはい、アレね!」
アイランドカウンターの向かいの椅子で豪快に笑った土屋さんは、面長の顔に眼鏡をかけた女性だった。年はしずりの父親と同じ。旦那さんを早くに亡くし、息子と娘二人を一人で育てたという人。
「面接のとき、奥様に『何が見える?』って訊かれたんです。私は真っ白にしか見えないんです。土屋さんは何か見えますか?」
質問してみた。奥様は何が見えているのか尋ねても「そのうちね」と笑うだけで教えてくれない。
「私は『文字』に見えるのよ~。漢字みたいな文字がずらーって並んで見えるの。読めないけどね。アレ、見る人で見え方が違うのよ」
再びロールキャベツを口へ運び、土屋さんは教えてくれた。あの白い紙をどの角度で見ると文字が浮かんでくるのか、しずりは不思議に思った。
「あの紙、何なんですか?」
「さあ~? どういう仕組みになってるのかしらねぇ……? 青木さんは『線みたいなものが見える』って言ってたし、前にここで働いていた人の中には『蜘蛛が見える』って言ってた人もいたわよ。だまし絵みたいなものなんじゃない? ほら、前に『見る人によって色が違って見えるドレス』とか、あったでしょ」
土屋さんは独自の見解を示した。光の加減等々の作用で、紙に仕込まれた絵柄や文字が様々に出てくるならそれもまた面白い。
「どうして貼ってあるんですか?」
「……ここだけの話よ? 水島の旦那様が亡くなった後、このお屋敷にしばらくの間、変なお坊さんが出入りしてたらしいの」
土屋さんは口元に手を当て、声を落として言った。
「お坊さん?」
「お坊さんか霊媒師か、よくわかんないわね。私もここでお世話になってまだ2年くらいだから、当時の事情を知ってた人からの又聞き。そのお坊さんから、奥様が買ったんだか貰ったんだか……青木さんなら知ってるかもよ?」
どこの誰かも不明だが、ある日『お坊さん』が水島家へやって来た。
奥様が面会したので、全く知らない人でもないのだろうという。そして奥様はあの『紙』を手に入れ、自室の北側の壁に貼っている。部屋の構成とあのポスターみたいな紙は、トータルコーディネイトとして不調和だった。ともあれ「触らないように」と注意されているので、しずりは触らない。
「奥様って……霊媒師とか信じる方なんですか」
「しずりちゃんもそう思う!? 全然そんなタイプに見えないわよね! 昔は違ったらしいわよ」
湯飲みから口を離して、土屋さんの声が大きくなった。眼鏡の奥の目も見開かれ、大きくなっていた。
「その辞めた人の話しだと、昔の奥様は一切『そっち』には無関心でね。このお屋敷建てるときも、地鎮祭なんか全部省略したらしいわよ。嫌いだったんでしょ。お金のある人の所には、霊感商法だの色んなのがどんどん寄って来るって聞くからね。奥様は交通安全や商売繁盛のお守りも、『ふんっ』てな感じで」
鼻にも引っ掛けない。屁とも思わない。以前の奥様はそういうスタンスだった。
「理性の人だったんでしょうか」
「まぁねぇ……偉い学者さんの娘だったそうだから」
土屋さんは、また独自の見解を示した。
「でも単純に、お金はもっと別の部分に使いたかったんじゃない? 奥様、お茶やパーティーが好きでしょ? この前も久々のお客さんで大張り切りだったじゃない。昔は何だかんだで、毎日のようにパーティーしてたそうよ。懇親会だの昼食会だの親睦会だのって。どこだかの国の大使や、政治家や財界の奥さんお招きしたり、逆にお呼ばれされたり。毎日そんなのやってれば、お金もかかるわよねぇ。いくら旦那が大金持ちの資産家って言っても」
がはは、と笑う土屋さんに悪口の陰険さはなかった。奥様の暮らしを羨みもしなければ蔑みもせず、ゴシップ的に聞き流しているといった風だった。
「そういう奥様が、どうして?」
「わかんないわ~。でも旦那さん亡くなって息子さんは海外で。一人でいるうちに気が弱くなったんじゃない? この前も何だか質問攻めにされちゃって」
「質問ですか?」
「買い物に行って帰ってきたら、『どこへ行っていたの? なぜすぐに戻って来なかったの? 私に何か隠しているんじゃないの?』って……突然言い出したてびっくりしたわ。さすがにお年かしらねぇ?」
しずりの疑問に、土屋さんは自然現象を語るように答える。以前しずりも、『目つきが鋭くなった』と急に言われて驚いたことがあった。奥様は猜疑心が強くなっているのだろうかと思う。
サンルームで午後のお茶のお相手をしていたとき、一度だけ奥様本人に聞いた。
昔、近所で『閣下』と呼ばれるお家があり、少女の奥様がそこへ行儀見習いへ行っていた話。マントルピースがあるお屋敷にはピアノや月琴、美しい緑色の絨毯に優雅なティーテーブルなどが並び、皆様といただく紅茶がそれはそれは美味しかったと。
――――夢のようだったわ。
奥様は心底楽しそうに話していた。
「あ、そろそろ時間だわ。支度しないと」
壁の時計を見上げると、『裏野ドリームランド』へ行く時間が近付いていた。
しずりの呟きに土屋さんが「ねえ」と声をかけてくる。
「しずりちゃん……私もう一度、奥様に話してあげようか? 危ないわよ、こんなの」
最初から土屋さんは、危険性を訴えて雇用主に掛け合ってくれていた。しかし水島夫人には「大丈夫よ」と片付けられ、取り合ってもらえなかったそうで。
「夜に女の子一人であんな場所行かせるなんて。万が一事故でもあったら大変でしょ? 奥様の発想が時代錯誤なのよ。簡単な設備の管理なら、それこそ警備会社の人か何かに行かせればいいじゃない。少しくらいお金かかったって!」
下の娘さんが今年就職という土屋さんは、しずりのことも気にかけてくれているようだった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。もう慣れました」
お辞儀して「ごちそうさまでした」と言った後、席を立ったしずりは食器を片付けエプロンを外す。荷物置き場兼、更衣室として使っているキッチン横の家事室へ着替えに向かった。
「ちょっとでも変なやつ見たら、すぐ逃げなさいね!」
「はい」
その励ましと共に水島家の門の前で土屋さんに送り出されたのが、いつもと同じく夜の7時頃。
しかし往路の電車が車両故障で遅れたため、遊園地への到着が遅れてしまった。
――――急がないと、バスが来ちゃう。
平常どおりに『仕事』を終えたしずりは正面ゲートを目指して、足は小走りになっていた。
全体に、今までより時間が押している。
この時間の駅へ向かうバスは本数が少ない。『裏野ドリームランド前』の発着予定時刻は、20時20分だった。このバスを逃すと次のバスを1時間近く待たなければならない。現在時刻は20時を過ぎている。
今夜は風が強かった。その中でしずりは右手に懐中電灯を持ち、左手でメリーゴーラウンドの操作マニュアルをショルダーバッグへ入れようとした。それも歩きながら、という点に無理があったかもしれない。
「あっ!」
マニュアルの一枚が、風に攫われ飛ばされる。急いで懐中電灯で照らし、逃げた紙を追いかけた。
「待って待って!」
呼びかけても紙切れは止まってくれない。ひび割れたコンクリートの上を、枯葉や小枝と一緒にシュルシュル滑っていく。転がるA4サイズの紙が柵の隙間を抜け引っかかって止まったのは、巨大な観覧車の足元だった。
「危なかった……」
しずりは観覧車の周囲に巡らされた低い柵を乗り越え、震える紙切れを捕まえる。貸与されたものを紛失するところだった。マニュアルをバッグへ仕舞い、観覧車を見上げる。
「立派な観覧車……」
案内図の説明によれば高さは40m。赤、黄、青とそれぞれカラフルに塗られた丸いゴンドラは16台。ドリームキャッスルと並ぶランドマーク的存在だったホイールは、今も威容を保ち静かに佇んでいた。
近くで見るのは初めてだった。しずりは観覧車も乗ったことがない。狭い空間で景色を眺める楽しさというのはどういうものなのだろう……と、つい時間を忘れかけたとき。
《――――》
何かが、しずりの耳に届いた。
風の音に混じって人の声が聞こえた気がした。見回す景色は夜風に弄られ、周囲の黒い影がざわめいている。
《……て》
聞こえたそれに「え?」と振り向いた。
懐中電灯で照らすと、赤く塗られた可愛いゴンドラが僅かに揺れていた。他の黄色や青のゴンドラも、徐々に揺れ始める。
《出し、て》
《次は誰》
《イヤだ、出しとくれよう》
赤いゴンドラの中から聞こえたのは、掠れた少女の声のような。古びて歪に軋むような。
空耳。風のいたずら。それとも……と、しずりの思考が揺らぎかけたとき。
――――ちょっとでも変なやつ見たら、すぐ逃げなさいね!
何故か蘇った土屋さんの声。
帰らなきゃ、と再び柵を乗り越えたしずりは時間が遅れていることを思い出していた。スマホで時刻を確認すると、20時10分。「バスに間に合いますように」とそれだけ考えて走った。その後の道では何も起こらなかった。
5日目の今日も、無事に終わった。