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九日目の前日

 熱の篭った外気は皮膚にまとわりつき、17時を過ぎて尚、蒸し暑かった。しかし水島家の内部は、常に全館25度に設定されているため場所によっては寒い。


 8月も終わりかかった土曜日の夕方。キッチンのテレビが『明日の夜に台風襲来』と騒いでいるのを、しずりは椅子に腰かけて観ていた。


 明日の日曜日が9日目。これでこの短期アルバイトも終わる。

 龍之介には『最終日』の明日までには、メリーゴーラウンドの処理方法を探しておくから、それまで動かないでと言われた。色々あったが、コウタや龍之介に助けてもらえて何事も無く終われそうな気配。でも明日は台風で大荒れとの予報で、電車が止まったらどうしようかと考えていた。


 そこへ微かにドアの開く音がして、先輩家政婦の土屋さんが入って来る。手に持つ銀色のトレイにはお粥の入った茶碗やスプーンが、ここを出たときと同じ状態で乗っていた。


「奥様、召し上がらなかったんですか?」

 動かした形跡の無いカトラリー。立ち上がってトレイを覗いたしずりが尋ねると、土屋さんは溜息をつく。


「いらないって。昨日もお昼に少し食べただけなのにね」

 せっかく作ったのにと呟き、土屋さんはテーブルの上にトレイを置いた。

 水島夫人は、ここしばらく具合が悪く食も細っている。今日など朝食も昼食も食べていない。それが1時間ほど前には食べる意思を見せたと聞き、しずりも一安心と思っていた。


「そんなに具合が悪いんですか」

 奥様が急速に体調を崩して、もう一カ月近くになるのではないのか。


「昨日もお医者さんには来てもらったの。夏バテからくる風邪でしょうってことで、また薬も出してもらってね。お年寄りは怪我も病気も回復に時間かかるから……」

 かかりつけ医の診断について語った眼鏡の先輩家政婦は、ちょっと首を捻った。


「でも何かおかしいのよね……」

「おかしいって?」

「『うるさい』、『こっちに来るな』って言うのよ。表情とかも、たまに別人みたいに見えて」

 介護の資格も持っている女性の言葉に、しずりが思わず目を瞠ったとき。

 二階でガタン……、と何か物が落ちるような音がした。二階には奥様一人。


「様子見てくるわ」

 土屋さんの顔色が変わり、足早に部屋を出て行く。しずりも心配で二階の様子を伺っていると、テーブル上で振動音がした。しずりのスマホが光っている。


「コウタ君……?」

 発信者はコウタだった。スマホを手に取り、しずりが通話を開始するなり

『しずりん今どこ!? 大丈夫!?』

 コウタの声が飛び出してきた。何かとても焦っている。


「バイト中よ。どうしたの?」

『俺とアッキーと車でそっち向かってるトコで、うわ!』

『しずりちゃん!?』

 コウタからスマホを奪い取ったと思われる声は、龍之介だった。


「あ、ハイ? アッキー君?」

 私の名前覚えてたの……と、ほんのりしずりが驚いているとスマホの向こうで龍之介が怒鳴った。


『水島さんの部屋のポスター剥がして! すぐに!』

 今までの彼の口調からは想像も出来ない命令的で一方的な指示。水島夫人の部屋のポスターといえば、アレしかない。しかしアレは雇用主から触ってはならないと言われていた。


「ポスターを剥がすの? どうして?」

『ウチの“先生”に言われたの! 後で説明するから!』

 教えてほしかった疑問への答えは後回しにされた。そのとき階上から大きな物音と、動物の吠え声に似た叫びが聞こえた。


「しずりちゃん! ちょ、ちょっと来てーッ! キャアア!」

 女性の悲鳴に、しずりは龍之介に「ごめんね」と言い置き電話を切る。スマホをエプロンのポケットに入れダイニングから飛び出した。


「土屋さん!?」

 カーペットの敷かれた螺旋階段の下で、土屋さんが倒れている。助け起こすと僅かだが額から出血していた。何か聞き慣れない音と気配に、しずりは二階を見上げる。

 電波ラジオのノイズに近い、シャー……ジー……という音。


「……奥様?」


 表情の無い水島典子氏が階段の上で立っていた。普段は車椅子とエレベーターを使っている人が、肩をいからせ立っている。手には部屋に飾ってあった三又の大きなアンティークの燭台が握られていた。


 何か囁いた水島夫人だったが、突如凄まじい速度で螺旋階段を駆け下りてくる。

 しずりは咄嗟に土屋さんを抱えてキッチンへ引き入れ、ドアを閉めた。ガンッ! と扉に叩きつけられる硬い音がした。音は何度も続く。ドアに鍵は無い。取っ手を握りしめて押さえるしかない。


「何があったんですか?」

 しずりは力いっぱい取っ手を握りしめ、土屋さんに尋ねる。


「わ、わかんない。びっくりした……ベッドから落ちて、口からあの黒い煤か煙みたいなの吐いて埋まってたのよ。何かと思って助けようとしたら叫んで暴れ始めて……殴られてね。痛たた……」

 タオルで傷口を押さえ、電話を手に取りながら土屋さんが言った。

 黒い煤。煙。しずりにそんなものは見えなかった。


「どうしましょう。取り押さえるのは?」

「無理よ危ない! すごい力だったから……。救急車呼ぶわ!」

 ドアの向こうの人は叩く事をやめ、乱暴にガチャガチャと音を鳴らしてドアを引っ張り始めた。


「土屋さん警察にも……」

 しずりが言い終わる前に

「きゃあ!」

信じられない力で取っ手が引っ張られドアをこじ開けられた。しずりは廊下に放り出されて転ぶ。起き上がり見た先には、水島典子氏がいた。次の標的は自分、と覚悟した。だが


「……え?」


 奥様は、しずりを見ていない。

 目玉をむき出しきょろきょろと、獲物を求めている目はしずりを見ていない。サンルームへ続く裏口付近にいた土屋さんを標的と定めたか、燭台を手にそちらへ走り出す。


――――私のこと、見えてないの?


 そうとしか判断できない。と、わかれば。


「しずりちゃん!?」

「大丈夫です! 外に逃げて! 助けを呼んでください!」

「ど、どこ行くのよ!? ひゃあああ!」

 逃げていく土屋さんの声を後に、しずりは食堂を出て螺旋階段を駆け上がり奥様の部屋へ向かった。


 奥様の部屋は二階の一番奥。

 開け放たれた扉の中に踏み込むと、主がいないせいか普段よりがらんとして見えた。御殿の中でもこの部屋は奥様の頭の中そのもので、好きなものだけに囲まれた世界。でも美しかった壁の絵画も、華麗なドレッサーも、ピンクのカーテンも倒れたり引き裂かれている。


 その部屋の北側の壁に、場違いな真っ白の紙が貼られていた。

 龍之介が『剥がせ』と言った紙。触れてみると紙は意外と分厚い和紙で、のりでしっかり張り付けてある。しずりは兎にも角にも『ポスター』をべりべりと壁から剥がした。


 それで剥がしたは良いが。

 これをどうするべきか聞いていない。


 部屋を出て階段の手摺に掴まり、階下を覗いた。2階まで吹き抜けの広い玄関ホールでは、まだ水島夫人が走り回っている。奥様は立ち止まり燭台を振り上げるや、飾り棚の上の花瓶を叩き割りホールに砕ける音が響き渡った。白百合か薔薇でなければならないと決められていた生花と硝子の花瓶が、大理石の床で散らばった。


 しずりはスマホを取り、コウタに電話する。『はい!?』と出たのはコウタではなく龍之介だった。


「アッキー君、剥がして、どうしたらいいの?」

『何かあった?』

「さっきから急に奥様の様子がおかしくなって、走り回って暴れてるの」

『え、何でだ!? しょうがない。その紙の表になってた方を内側にして折り畳んで燃やして! 庭とか、火事にならない場所で!』


 余裕の無い声で指示してくる龍之介に「やってみるわ」と答えて再び電話を切る。言われた通りにポスターを折り畳んで、しずりは気付いた。

 燃やせと言われても屋敷はオール電化。タバコを吸う人もいないから、ライターも無い。


「仏壇もアロマランプも無いし……あ!」

 裏野ドリームランドへ行くとき使っていたショルダーバッグに、蝋燭とマッチが入っていたと思い出した。


 奥様が一階のリビングへ向かったのを階上で確認してから、しずりは靴音を潜めて階段を下りる。キッチン横の家事室のドアを開けると、土屋さんの姿は無かった。助けを求めて外へ脱出したのだろう。籠に入れてあった黒いショルダーバッグを取り出した。蝋燭とマッチとポスターを手に、玄関ドアを開けて外へ駆け出す。


 石畳のポーチの上でマッチを擦ってみる。マッチなんてキャンプで一、二度使った経験があるだけ。折れてしまったり、折角点いた火もたちまち消えてしまう。焦る気持ちを押し殺し

「ついた!」

5本目でまもとに火が点き、蝋燭へ移して『ポスター』を燃やそうとした矢先。

 後ろに感じた気配。ノイズに似た音。


 振り向いたそこに居たのは、しずりの知っている水島典子ではなかった。

 やっと『見えた』。


 目、鼻、口、耳から、黒い煤か煙に似たものが止め処なく噴出している。それは蝗の群れのように、蠢く黒い塊となって水島夫人を包んでいた。聞き取りにくく掠れた低い声が、途切れがちに聞こえる。


《き……奴か……邪魔だてし……か》


 囁く黒い塊は揺らぎ、時折人の形を再形成する。


 頭が割れ、黒く焦げた顔はほぼ原形がわからなかった。身体はボロボロに斬られている。傷からは黒い血がふき出し、足元は流れ落ちた血溜まりに浸っていた。

 これが『無間』かと思った。『無間』は手に握った凶器を振り上げる。

 しずりは座り込んで、煙と煤の黒い塊が見せる亡者の幻を見上げていた。


 その玄関先へ門を蹴破る大きな音と、しずりの名を叫ぶ声がして


「なめんなーッ!!」

 蠢く黒い塊へ、怒鳴り声と水が一気にかけられた。寺社仏閣で見かける木桶を持ったコウタだった。水を被った黒煙は呆気なく、どろどろと黒く地面に広がっていく。


「燃やせ! 早く!」

 一足遅れて駆けてきた龍之介が、しずりの手から『ポスター』をもぎ取り石の玄関ポーチに投げ捨てた。しかし火のついた蝋燭でも紙は燃えず、蝋燭の火の方が弱まっていく。


「ちっくしょッ!」

 龍之介がお経か呪文のようなものを、聞き取れないほどの高速で唱え始めた。同時に腕を伸ばし、しずりの肩を掴んで自分の背後へ下がらせる。次の瞬間


 バンッ!!

 大きな爆竹が爆ぜたのに近い音と閃光が辺りを覆った。「きゃあ!」としずりは反射的に耳を塞ぎ、目を閉じる。


 やがて目を開けると炎も煙もなく、さっきの『ポスター』は僅かな白い灰になっていた。全身水浸しの水島典子氏が仰向けで倒れている。辺りの黒い煙も、煤も消えていた。


「しずりん無事か!? ごめん遅くなって! 怪我は!?」

「だ、大丈夫……ありがとう、来てくれて」

 木桶を片手に、汗だくのコウタがしずりを覗き込む。

 コウタの声で、しずりも現実感覚を取り戻せた。薄い灰になった紙が散らばっている。倒れている水島典子の存在をもう一度確かめた。水島夫人の痩せた頬に血の気はないが、胸は上下していて息はある。


「これで……終わったの?」

「アッキーすげー」

 しずりとコウタが交互に言うと、こちらも肩で息をして龍之介が首を振った。

「強引な送り火で、送り返した……でも、今のは殆ど俺じゃない。俺の太刀打ち出来るやつじゃなかった」

 自分の腕や身体にかかった灰を、手で払っている。整った顔に浮かぶ表情は険しかった。


「誰か、手伝ってくれた……女の人?」

 茜に染まる空を見上げて言う。白い月を見つめ、淡茶色の瞳で考えていたが

「しずりちゃん、キミの……お母さんて、もしかして」

 何だかたどたどしい口調に戻って龍之介が尋ねる。しずりはハッとした。


「亡くなってるわ……10年前」

 答えた声に、救急車のサイレンが重なった。

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