一杯のカツ丼
一昔前、『一杯のかけそば』なる話が静かなブームになったけれど、それに共通するような話を行きつけの定食屋で聞いた。
話してくれたのはその店の常連で、昼間っから生酒を嗜んでいる60代のオヤジだ。 赤銅色の太い腕と、それにも増して赤黒い顔がちょっと強面だが、話し出すと結構面白いオヤジだった。
オヤジによると、話は30年くらい前とのことで、物語の舞台はこの定食屋、まだ先代夫婦が切り盛りしていた頃だ、と言う。 オヤジも今と同じく毎日の様に店にやって来ていたが、さすがに昼間からは酒を飲んでは居なかったそうだ。
同じ頃、21,2歳の青年が週に3日ほどやって来て、昼ならば今日のランチ、夜ならば決まってカツ丼とサワー一杯を注文していたそうだ。 なかなか気持ちの良い青年で、挨拶もはきはきして人懐っこく、いつも元気に「ごちそーさま!」と帰って行った。
さて、そんな彼がある雨の夜、店主がノレンを外そうか、と言う時間にやって来た。女将が「いらっしゃい」、と迎えたが「どうも」、と小さな声が返って来ただけ、いつもの元気が無い。「あれ?どうしたの?」女将が声を掛けると、ただ、「いつもの、ください。」との声。「あいよ。」店主が奥から声を上げ、その時は客も彼しか居なかったので、ものの10分ほどでカツ丼とサワーを店主が持ってくる。「お待ち!」テーブルにいつもの大盛カツ丼と、表面張力一杯に注がれたサワーが置かれる。 しばらく青年はそれを眺めていたが、やがて無言で食べ始める。
「どうしたんだろうね?」 調理場へ入った女将が小声で店主に尋ねるが、店主は、
「若いうちはいろいろあらーな。 黙っててやんな。」 としたり顔でいい、二人は静かに食べ終わって小声で、「ごちそうさま。」 と帰って行く青年を、「どーも!またどうぞ!」 と見送った。
その日以来、青年は店に来る事は無かった。
3年の後、ある蒸し暑い夜、やはり閉店間際にふらりと一人の男が店に入って来る。 汗臭い清潔とはいえない作業服と、古いヘルメットを片手に下げ、ニッカボッカ姿の男は真っ黒に日に焼けていて、無精ひげに覆われた顔を伏せるようにして、店の隅に腰を降ろす。
「ハイ!何にしましょう?」 女将が聞くと、男は小さく、「玉丼。」
「ハイヨ!」 女将は広告の裏を小さく切ったメモに注文を書くと、調理場の店主に「玉丼一丁!」と言いつつ紙片を渡す。
店主はそれに目をやると、「ハイヨ!」と声を上げ、作り始めた。
「暑かったねー今日も。」 女将は気さくに男に声を掛けるが、男は面伏せたまま、小さく頷くだけ。 女将も男の気持ちを慮って、それ以降は黙ってテレビを見ていた。
やがて、「ハイ、お待ち!」と店主が注文の品をカウンターへドン、と置く。 女将はそれを持って隅の男のテーブルへと運び、「ハイ、玉丼、お待ちどう。」 丼と味噌汁、新香と大き目のグラスに氷を入れて注いだ水を置く。
男は軽く会釈をすると、箸を割り、味噌汁を口に含むと、なぜか目を瞑って吐息を吐いた。 そして徐にグラスに口を付けると・・・
ギクッ、と男の動きが止まる。 驚いた男が女将を見るが、女将は笑みを湛えたまま。
「ささ、冷めないうちに。」 女将に勧められるまま男は半分呆然としながら丼の蓋を開けると・・・男は再び固まってしまった。 丼からは、うまそうな匂いが漂う。 とろりとした卵に玉ねぎと三つ葉、そして大きなカツがのった『玉丼』。
「あ、の、玉丼頼んだけど・・・」 男が掠れた声で言うと、女将は、
「これがいつもの『玉丼』だよ。 『お水』と一緒にね。」 にんまりと笑う。
「さあさあ、冷めないうちに食べとくれ。 もうすぐ店が閉まるから。」
男はテーブルと女将、そして調理場から覗いている店主とを見比べていたが、やがて箸を取って食べ始める。
「うまい・・・うまいなあ・・・」 男が呟くように言う。 女将も店主も黙って見ていた。 男は 「うまいなあ・・・」と言いながら、涙でくしゃくしゃの顔を拭いもせず、食べ続けた。
勘定を払う段になり、「お金、そんなにない、けれど・・・」 と消え入るような声を出したが、女将は 「玉丼一丁で400円だよ。」 と男が差し出した、なけなしの百円玉五枚から一枚を返した。 ちなみにあの頃、カツ丼は550円、サワーは270円だったそうだ。 男は深々と頭を下げ、逃げるように店を飛び出していった。 夫婦は表を駆けてゆく男の後姿を黙って見送った。
更に8年が過ぎた、ある夕暮れ時の混んでいる時間に、30代のスーツ姿の男と小学校一年くらいの男の子が入って来た。
二人は仲良く、近所の人間で一杯の店内で相席し、女将が来ると、「カツ丼と半カツ丼、サワーにオレンジジュース。」と注文する。
「ハイヨ!」 女将の声に珍しそうに店内を見渡す男の子を、男は目を細めて見ていた。 やがて注文の品が届くと二人は、「どうだ、おいしいだろ。」「うん、おいしいね、お父さん。」 楽しそうに食事をし、男の子はオレンジジュースをお代わりした。
食べ終わって男は男の子の手を引いて、「お勘定。」 と声を掛ける。
男が女将に、「ありがとうございました。」と深々と頭を下げると、女将はにっこり笑って、「カツ丼に半カツ丼、ジュース2杯にサワー・・・1880円。」 それを聞いた男は
「女将さん420円少ないよ。」 と2300円ちょうどを渡したのだった。
後日、一人でやって来た男が言うのには、あの時、田舎の父親が倒れ、大学を中退せざるを得なかった彼は、三男だったために、迷惑が掛かると思い田舎にも戻れず、そのままその日暮らしへとなってしまったのだった。 そして3年、その生活にも疲れ、死ぬ決心をし、最後の晩餐のつもりで500円を握り店に来たのだそうだ。
あの玉丼という名のカツ丼と水ならぬサワーを頂いた日以降、男は奮起して、小銭を溜め、小さいながらも堅実に商売をしていた印刷屋へ入社、今ではその会社の取締役になっているという。
ほろ酔い加減のオヤジが言う。 「人間、うまいもん喰って飲んで、なぁ、笑って過ごすもんよ、そうすればいいこともあらーな。」
酔っ払いの作り話かもしれない。 何故なら、その店主夫婦は2人とも5年前に相前後して亡くなり、今では息子夫婦が店を継いでいるからで、その息子夫婦は、そんな話は聞いた事がない、と笑って言うからだ。
しかし、僕は今日もその店のカツ丼を食べながら思うのだ。 この店はそんな事があってもぜんぜん不思議じゃないと。
オヤジの言うように、こんなうまいもんを喰って生きて行けば、いい事もあるんじゃないかと。
―了