神様、それは恐喝です
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──神様、それは恐喝です
なんとかベールの神殿から逃げ出した広瀬とイブリス。
「追われてはいないようですね……」
シティ・ウォッチは完全に壊滅状態で追ってくるものはいない。そのことに広瀬はとりあえず安堵した。
「守護者君。よくやりました。イブリス様が見込んだだけはあります。さあ、この調子で全ての神々の信仰の守護者を叩きのめすのです」
「却下です、却下」
機嫌よくイブリスが告げるのを広瀬が即座に却下した。
ひとり間違って吹っ飛ばしただけであの騒ぎだ。全部の神に手を出したら、それこそ戦争になってしまう。まあ、イブリスはその戦争の神なのだが。
「神の命令に逆らうとは不届きものです。いいから次の神殿に乗り込むのです」
「もう今日は遅いから宿でも取って寝ましょう。ぐっすり眠ればもっといいアイディアが浮かぶますよ。ね?」
頬を膨らませるイブリスに広瀬が宥めるように告げた。我が侭な娘とその保護者のように見える光景だ。
「寝たところでイブリス様の考えは変わらな──」
まだイブリスが抗議しようとしたとき、キューと可愛らしい音が聞こえた。
音の主はイブリスの腹部だ。彼女は思い出したように自分のお腹を擦った。どうやら神でもちゃんと消化器官はあるらしい。
「あ、お腹空いているですね、イブリス様。なら、まずは食事にしましょう」
「むう……」
丁度いいというように広瀬が話題を逸らし、イブリスは不満げながらも空腹を訴える自分のお腹によって妥協した。
「ほら、あそこの出店からおいしい匂いがしますよ。あそこに──」
と、言いかけて、広瀬はある事実に気がついた。
出店で串焼きを買っている人々は出店の主人に硬貨を渡している。そう、商品には対価を支払うのだ。資本主義は異世界にもあった。
で、広瀬はポケットから財布を取り出してみた。
1万円札と小銭が僅かに入っている。が、それは日本銀行が発行した貨幣だ。この異世界で日本銀行の発行した貨幣が使えるとは思えないし、まして両替してくれるとは考えがたい。
「イブリス様。どうやら俺たちは無一文みたいですよ……」
絶望的な状態に広瀬が頭を抱えた。
これでは宿どころか食事の一食も取れない。このまま飢え死にするか、物乞いをするかである。
「安心するのです、守護者君。神はお金に困ったりはしないのです」
だがイブリスは平然としている。
「……何か凄い嫌な予感がするんですけど」
イブリスがまた先頭を歩いてアーカムの通りを進むのに、広瀬にはイブリスがベールの神殿に向かったときの事を思い出した。
ある程度通りを歩くと、イブリスは実に適当に大通りに面していた一軒の酒場の扉を開いて中に入った。
「なんだ?」
酒場で杯を傾けているのは成人以上の男性客ばかりだ。そこに、いきなりイブリスのような幼い少女が入ってきたのに、彼らは酒場の店主も含めて怪訝そうな表情でイブリスを見た。
「人間たちよ。このイブリス様に供物を捧げるのです」
勝手に酒場に入ってきたイブリスは起伏のない胸を張って命じた。
「……は?」
酒場の人間のリアクションはこれの一言に尽きる。
皆、いきなり供物を寄越せと命じてきた少女を目を丸くしてみていた。
彼らはイブリスをマジマジと見た後で、お互いに顔を見合わせると、一斉に笑い出した。
「ハハハ、お嬢ちゃん。ここは大人のお店だよ。大人になってから来なさい」
「冗談でもイブリスだなんて名乗ってると、本物のイブリスが夜にやって来て頭からガブガブと食べられてしまうぞ。怖いぞお」
酒場にいた人間たちはイブリスを笑って彼女をからかった。
それもそうだ。いくらイブリスが神聖なオーラがある美少女とは言えど、神がいきなり酒場にやって来て金を出せと言い出すとは誰も思うまい。
「むう……。守護者君、この不信心者たちに目にものを見せてやるのです」
「いや。イブリス様、これはないと思いますよ」
不満げに頬を膨らませるイブリスの後ろから広瀬が酒場に入った。
そして、賑やかだった酒場の空気が一変した。
「あ、あいつ、ベールの神殿で暴れてた奴じゃないか……?」
「あ、ああ。俺は見たぞ。シティ・ウォッチを一方的に殴り殺してた化け物だ」
酒場は静まり返り、気温がサアッと低下した。恐怖によって。
ちなみに殴り殺したと言っているが、シティ・ウォッチは重傷者が多数発生しただけで、奇跡的に死人は出ていない。
「落ち着け、お前ら」
恐怖に支配され、落ち着かない酒場で低い声が響いた。
声を上げたのはスキンヘッドの大男だった。頭部に深く、大きな傷の跡が残っているし、実に物騒な長剣を下げているところからして、堅気の人間でないのは明白だ。
「おい、お前。アレシア様に手を上げたらしいな、ええ?」
「いやあ。あれは事故でして……」
ギロリと大男が広瀬を睨むのに、広瀬は困った表情で頭を掻いた。
「俺はアレシア様には随分と世話になったんだ。そんな恩人に手を出したってんなら、シティ・ウォッチが黙っていても俺が黙ってないぞ。イブリスの亜神だかなんだか知らないが、覚悟はできてるだろうな?」
そう凄んで大男は拳をパンパンと鳴らした。殴る気満々だ。
「おお! ドラゴン食いのオズウェル!」
「Aランク冒険者で、ドラゴン討伐の実績もあるあんたならやれる!」
大男──オズウェルが現れたのに、イブリスの亜神という恐怖に沈んでいた酒場が再び活気を取り戻した。
「ちょっと待ってくださいよ! 暴力反対──」
「うるせえ! 一発食らいやがれ!」
制止しようとする広瀬を無視して、オズウェルは広瀬の顔面に拳を叩き込んだ。
……のだが……。
「な、なあっ!?」
拳は広瀬の顔面には到達しなかった。
広瀬が瞬時に顔を庇ってオズウェルの拳を受け止め、オズウェルの巨大な拳はそのまま広瀬の手の中でピクリとも動かせずに止まっていた。
「ぐぬぬぬっ!」
オズウェルは額に青筋を浮かべ、ビキビキと筋肉を唸らせて拳を動かそうとするが広瀬の手からは全く動かせない。
「オ、オズウェルの一撃が……!?」
「冗談じゃない! トロールでも殴り殺せるパンチだぞ!?」
どうやらオズウェルというのは随分と規格外の人物だったようだが、戦争と武力の神たるイブリスの亜神である広瀬の相手ではない。伊達に腕力、暴力、破壊力の能力を得ているわけではないのだ。
「ぬおおおっ!」
「あのう。そろそろ止めません?」
依然として広瀬に拳を叩き込もうと無駄な努力をしているオズウェルに、広瀬はもう帰りたいと思いながら告げた。
「舐めるなあ!」
オズウェルは叫び、もう一方の手で広瀬に打撃を放った。
「危なっ!」
と、広瀬は思わずその手をグイッと押し返してしまった。
反射的にやってしまったので、それなりの力が篭っており──。
「の、のわああっ!?」
オズウェルが完全に吹っ飛んだ。
その巨体が軽々と宙を舞い、勢い良く酒場のカウンターの向こうに突っ込むと壁を貫き、上半身が壁に刺さった状態で止まった。
ガラガラとカウンターの酒が棚から零れ落ち、オズウェルに向かってガラスの割れる音を立てて落下してくるもオズウェルは既に痙攣するだけだ。完全にノックアウトされてしまった。
「……またやっちまった」
目の前の惨状に広瀬は頭を抱える。意図せずして人を棚に突っ込ませるのは今日で2回目だ。
「な、なんてこった……!」
「こいつは本当にイブリスの亜神だ! そうでなきゃ悪魔だ!」
酒場は恐怖から混乱に移行した。
「すいません。弁償とはか今、ちょっと無理で──」
「ひいっ! な、何でも差し上げますので、命だけはお助けを!」
店を破壊してしまって謝罪しようとした広瀬に客たちが叫び始めた。
「いや。別に命を取ったりは──」
「俺には子供がいるんです! 生贄にするのは勘弁してください! 持ってるものは全て差し上げます! お慈悲を!」
誤解を解こうとする広瀬に客たちは口々に命乞いを叫ぶと、財布をテーブルに置いて店の裏口に殺到した。
客たちは瞬く間にいなくなり、残っている人物は気絶しているオズウェル、どうしていいのか分からずに唸っている広瀬、自慢げなイブリス、そしてカウンターで蹲っている酒場の店主。
「お店の方ですよね? お客の方が財布を置いていってしまって──」
「うわああっ! み、店のものは何でも自由に持って行って構いません! ですので、お助けを!」
その店主も自分の店を放棄して逃げ去った。
「……どうするんだ、これ」
気絶しているオズウェル以外はついに全員が逃げ去った酒場で広瀬は周囲を見渡す。
テーブルには客が置いていった財布が山ほど残っており、結構膨れているところを見るに相応の額が入っているだろう。そして、店のカウンターにも商売の上がりである金が収まっている。
「よくやったのです、守護者君。さあ、供物を回収するのです」
「いや、イブリス様。これ、供物じゃないですよね? どちらかというとこれって犯罪ですよね?」
満足そうに広瀬を褒めるイブリスに、広瀬は冷静に返した。
「何を言っているのです。彼らはこのイブリス様に供物を捧げると言っていたではないですか。これはイブリス様に捧げられた供物です。神は犯罪など犯しません。神は常に正しいのです」
「なんか供物を捧げてもらう過程に重大な間違いがある気がするんですが……」
どこまでも平坦な胸を張ってイブリスが堂々と宣言するが、広瀬はどうにも納得いかない感じがした。
だが、先立つもの──金がなければ広瀬も困る。
「すいません。戴きます。そのうち返しますから」
逃げていった客と店主に謝りながら、結局広瀬は客の財布と店の金を頂戴したのだった。
「このキラキラしたのは金貨ですかね。イブリス様はこの世界の貨幣価値って分かります?」
「そんな些細なことは神が気にする必要はないのです」
財布の中からこの世界の貨幣を取り出して確認する広瀬に、イブリスはどうでもいいというように返して酒場から外に出た。
「さあ、守護者君。この調子で供物を集めるのです」
「え? まだやるつもりなんですか……?」
またしてもイブリス暴走開始である。
彼女は次々にランダムに通りに面する店に入り、傍若無人に供物を要求し、先ほどと同じように広瀬が現れると大混乱。そして、金銭をゲットである。
「キャー! た、助けて!」
「命だけは!」
店から人々が逃げ出し、通りは徐々に混乱していく。
男も女も子供も老人も、広瀬を見ると悲鳴を上げて逃げ出す。
「何か、悲しくなってきましたよ、イブリス様……」
自分の顔を見ただけで人々が泣き叫んで逃げていくのに、広瀬は少々暗い気分になったきた。
「これでいいのです。これで人間たちはイブリス様を信仰するのです」
広瀬と違ってイブリスは上機嫌だ。彼女はこれで信仰が増えると本気で思っているようである。
イブリスと広瀬は30軒あまりの店舗を“襲撃”し、がっつり供物を手に入れた。
「ちょっと取りすぎじゃないですか、イブリス様。流石にもういいですよ。そろそろ宿を取って、休みましょう。これ以上やらかしたら、本当に犯罪ですよ。信仰を得られなくなりますって」
手に入れた供物は広瀬が両手で抱えなければならないサイズになってきた。額にすれば相当のものである。
「神は宿などに泊まらないのです。手に入れるべきはしっかりした神の住居です」
そう告げると、イブリスは通りを真っ直ぐ進んだ。
目指したのは、不動産屋。
そう、不動産屋だった。
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