episode 03
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これには一つだけ願いごとを叶える力があるんだよと、教えて貰ったのはイリスが七つの頃だ。それはアクセサリーと呼ぶほどのものではない、ただの金属のボールである。細かな模様が刻まれていて、揺らすと高く澄んだ音がした。
可愛らしいデザインの輝くそれは、すぐに宝物へ昇格した。何よりコレットと同じものであることが、イリスには嬉しかった。
『イリス、願いごと決まったの?』
そう問いかけてきたのは、イリスとお揃いのワンピースを着せられた少女だ。
『うん。ずっとココと一緒にいられますようにって』
『別のにしたほうがよくない? それにずっと一緒だなんて無理だよ。……契約期間だってあるんだから』
小首をかしげたコレットに対し、ぷくっとイリスは頬をふくらませた。
『私がココと一緒にいたいの。ココは違うの? 一緒にいるの嫌?』
『……嫌じゃない』
『ならいいの』
イリスはコロリと表情を変え、
『考えてみたけど身長は勝手に伸びるし、ピアノやスポーツは練習したらいいし、賢くなりたかったら勉強したらいいんだもの。ココの願いごとは?』
コレットは難しそうに金属ボールを見つめる。
『浮かばないの? 願いごと』
『願いごとってよくわからない。必要なものはあるし、課題や問題点もない……。だからこっちもイリスが使ったらいいよ』
『でもそれはココのだわ』
困ったように笑うコレットから願いごとは引き出せなかった。厳密には、イリスが健康であれば何でも良いとのことだったが、イリスは納得できなかった。自分のための願いは本当にないのか、粘り強く尋ねてもコレットは小首をかしげるばかりだ。願望が理解できないのか、とっさに浮かばないのか、そもそもないのか、イリスには判断がつかない。
『じゃあずっと一緒にいられますように、幸せになれますようにって、私が二つお願いする! 二人で半分こにするの』
さんざん悩んだ末の閃きに、イリスは目を輝かせた。
『これは二つそろってなきゃダメな願いごとなのよ。一つずつじゃ叶わないわ。わかる?』
コレットが諦めや戸惑い混じりにうなずいた。イリスの意向を受け入れたようだ。
オルゴールボールを持つ手を、二人は互いに絡め合った。高く澄んだ音が響く。
『ココも私のためでいいから、一緒にいたいって幸せになりたいって願ってね』
『わかった。イリスの願いごとを叶える。……約束する』
『うん、約束!』
そう笑いあった過去が、遠い。
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通された部屋は、店側と比べると天井が高かった。室内は、どっしり構えたソファと、猫足のセンターテーブルがあるシンプルな設えだ。クロスに模様があるのと、そこに飾られた大小様々なフォトフレーム、天井からいくつもつり下げられたライトが小綺麗で、イリスも悪い気はしなかった。
陽光を取り込むための窓は、縦長で固定されている。埃を通さないためだろうか。天気の良い昼下がりに風を通さないことが、少々残念だ。
(本当に、田舎だわ)
首都の景色しか知らないイリスにとって、窓の外側は異様だった。
ラブロックの工房が町外れに建っているため、青々とした人工の緑が広がっていた。大型の機器が野菜や麦や米を世話するために数台行き来している。ビニルハウスの辺りでは小型の機械が、野菜の出荷を行っているようだった。
樹冠がコントロールされた果樹林も、ここへ来る途中で見かけた。木材収集のための人工林もまばらに植えられている。
その向こう側、地平線の辺りは赤茶けた荒野がむき出しになっている。切り取られた空と建造物だらけの首都では見慣れない光景だ。この星に、自然の緑は少ない。
イリスが住む首都に中央公園や植物園、街路樹以外の緑はほとんどない。その希少な緑は富裕層が独占し、中流階級以下は足を踏み込むこともない。小さな観葉植物でさえ高級品なのだ。
田舎のほうが贅沢なのではないかと、ふとイリス考えた。
カペルの町は、首都ではお目にかかれないものがいくつもある。例えば、整備されていない道路の凹凸や、エリアごとに区切られた草原や森林。例えば、青紫をした深い色の空や、太陽の日差しの強さ。世界の彼方まで見通せるのではないかと感じるのは、建物がすくない平地だからか。
広々としていて余裕があり穏やかだった。限りある土地にすし詰め状態で暮らしている首都とは、重なるところがない。
(そう、まず匂いから、空気からして違うんだもの)
駅を降り立ったときに全身が感じたものすべて、新鮮だった。
ただ遊びに来ていただけなら、声を上げて走り回っていたかもしれない。大声で笑って、裸足で草の上に立ってみたかった。許可があるなら、森の中で隠れんぼをしてみたかった。人形師みたいに動きやすい服で、時間という拘束も忘れ、あの子と一緒に走り回って――
「珍しいものでもある?」
イリスは小さく飛び上がった。後ろから、同じようにキールが窓の外を覗いている。露骨に眉をひそめ、イリスは窓から離れた。先ほど連れ出されかけたことで不信感は増したのだ。
「あれ? もしかして、まだ機嫌直ってない?」
キールが困ったように苦笑した。
「さっきも言ったけど、お嬢さんは冷静になる必要があったと思うね。あのままわめき散らすだけじゃ、ルタは聞く耳持たなかっただろうし」
最悪の場合は警察に補導され、両親の元へ強制送還されただろう、とキールが説教臭く言う。それは正しい判断かもしれない。しかし、頭を冷やす方法ならば他にもあったと、イリスは唇を結んだ。
(子ども扱いして)
人形師は部屋に案内だけして、用を済ませてくるから待っていて欲しいと、出て行ったきり戻らない。長い沈黙の後、イリスは小さく息を吐いた。いつまでもへそを曲げているほうが、子どもか。
「ここを訪れたのは、二度目よ。でも、あのときは夜だったから景色や町のようすなんて覚えていないわ。あなた、首都へ来たことある? ここと全然違うのよ」
「確かにね。人少ないし、三階以上の建物はないし、移動は不便だし、何もない」
「木が、あるわ。あっちではお屋敷に観賞用が少しあるぐらいよ」
「都市部はそういう意味じゃ味気ないもんな。でも森は一般市民の立ち入り禁止区画だし、この辺も研究施設や工場だらけで迂闊に踏み込めない。のんびりしてそうで意外に不自由だよ? ――お嬢さんが初めてここへ来たのは、完成した〈ドール〉の引き取り?」
イリスは、迷惑そうにご親切な少年を一瞥した。会話を引き延ばす必要はないが、
「……そういえばこの部屋、見覚えあるわ」
オレンジ色のランプは、初めて訪れた夜を幻想的に彩っていた。古びた写真も、流れる音楽も、この部屋を特別なやさしい空間にしていた。
今、色あせて感じるのは単に昼間だからなのか。主が変わったからか。そういえば、フォトフレームやランプは少し埃がたまっている。
(色んな人が写っているのね)
どこかの家族か、兄弟か。場所も、年代も老若男女を問わず、壁一面にそれらは丁寧におさめられてあった。笑っているものは多いが、喜怒哀楽さまざまだ。十秒ほどの間隔で、写真は別のものへと切り替わる。イリスが触れると、メモリのナンバーが表示された。数百枚以上あるようだ。
「ああ、この部屋はエリックじいさんの趣味だったんだ。懐古主義に染まった人だったから、レトロなものがやたらあるんだよ。このランプとか、レプリカだけど暖炉とか、この絨毯とか」
言いながら、キールはイリスが写真を眺めているのに気づくと、
「それな、じいさんの宝物。ラブロックの〈ドール〉たちとそのマスターたち」
そう、と再びイリスはキールから距離を取る。
「あなた、いつまでここにいるつもり」
「俺も帰るべきだと思うんだけどね、ルタに頼まれちゃ逆らえなくて」
「仕事はどうしたのよ」
「今日は暇だから、お嬢さんも案内できたんだよ」
むう、と口を噤んだイリスは、長いすのやわらかなクッションに座った。初めて訪れたときもここに座ったのだ、と思い出しながら。あの時は、向かいの一人掛けのソファに先代人形師が腰かけたのだ。まるで娘にするように、やさしく〈ドール〉の頭を撫でていた。
数年前の記憶が鮮やかに蘇る。
胸元からイリスはネックレスを取り出した。丸い金属のボールがくっついている。先ほど落としてしまったが、傷はついていない。
「それ、ベル?」
無神経、お節介、意味不明、と内心でキールを罵りながらも、イリスはしぶしぶ口を開く。
「違うわ。オルゴールボールよ。私の〈ドール〉とお揃いでパ……父が買ってくれたもの」
コレットとの絆を確かめるように、イリスは小さくボールを揺らす。涼やかな音色を聞くうちに涙が目を覆い、慌てて呼吸を整え、宝物をしまいこんだ。これ以上、キールに隙を見せたくなかったのだ。
「それで、さっきの続きは?」
キールがきょとんとした。
「さっき、人形師は契約を破棄できるとか言っていたじゃない。忘れたの」
「それな。……〈ドール〉は滅多に売買されないってこと知ってる? 基本的にレンタル制だってこと」
イリスは頷く。〈ドール〉たちは役目を終えたら各工房へ戻される。その役目は様々だが、イリスの場合は兄弟型として〈ドール〉をレンタルしていた。忙しい両親に代わる家族を求めたのだ。
「つまり、〈ドール〉は生み出された工房の所有物なんだよ。ラブロックの場合、人形師が主人として相応しくないと判断したら、契約を一方的に破棄できるんだ。レンタルも人形師のお眼鏡にかなった奴だけって話だけど、やっぱ面談だけじゃわからないことも多いし。特に『こころ』を宿す〈ドール〉は特別だから」
色々こじれることもあるんだよ、と少年が肩を竦める。
そこへ、キィときしんだ音を立てながら扉が開いた。身構えたイリスは、ぽかんと口を開く。やってきたのは、つるりとしたボディが鈍く光る旧式のロボットだったのだ。
筒状のボディをしたそれは、アームに紅茶と焼き菓子のトレイを乗せ、器用にテーブルへ並べていく。カタカタと食器が小刻みに揺れた。紅茶が波紋を描くたび、見てられない、と何度イリスが腰を浮かせただろう。何事もなく作業を終えたロボが信じられなかった。スクラップ寸前の型なのに!
キールが笑いを堪え、「サンキュー、アーサー」とひらひらと手をあげた。ロボットはくるりと頭部を回転させた。カメラアイが明滅し、『どういたしまして。ごゆっくりお過ごしください』と小さなディスプレイに文字を並べている。呆気にとられたイリスへも、くるりと頭部を縦に動かした。お辞儀のつもりなのか。近くで見ると、あちこちに細かな傷や凹みがある。
「な……何なのあれ? 首都じゃあんな旧型見たことないわよ。骨董品じゃない! 何十年前の……ううん、それ以上昔のでしょう! どうしてあんなのが動いてるの。信じられない」
ロボの姿がドアから消えるなり、イリスは食ってかかった。
「アーサーは、ルタが初めて直したロボだよ。ゴミ同然に棄てられて、バラされかけてたジャンクをさ、まだ動くからって。パーツもガラクタからかき集めてさ、それでも足りない分はわざわざ作って。あいつみたいなの、ここじゃ他に何体もいるよ」
イリスは異様さに怯んだ。人形師にとって、機械は旧式であってもガラクタではないのだ。型がどうではなく、現実では見向きもされなくなったものも、大切に扱っている。ふと、壁際に並べてある写真から、圧力を感じた気がした。
人形師の目にイリスはどう映っただろう。
(取り上げる権利? あの人の判断一つで? 私はあの子を失うの?)
何年も一緒に過ごしてきたのに?
「私的なことって言いにくいだろうけど、どんな思いでここまで来たのか、ちゃんと話したほうが良いよ。冷静にさ。大事な〈ドール〉なんだろ」
キールはそう指摘して、焼き菓子を一つつまんだ。紅茶も遠慮なく喉へ流し込んでいる。イリスはへたり込んで、ぎゅっとオルゴールボールを握りしめた。
灼けるような思いを抱きながら。