利己主義な一滴
忘れていた。
忘れるように努めていただけなのかもしれなかった。通りすがりに匂いを嗅いだだけだ。
ほんの一瞬。
すぐに香水の名、エゴイストだと気付いた。甘い匂いは、私を再び傷つけるかのように締め付けた。
私は立ち止まり彼を探した。
いるわけがないのに。
あれから20年が経つ。
この長い年月の間に、彼の表情、しぐさひとつ……はっきりと思い出すことはできなくなっていた。薄情……だろうか。けれど、曖昧な記憶の中で、匂いだけは正確だった。
彼を愛した記憶が確実に蘇る。
横断歩道の真ん中で、取り残されているような気分になる。渋滞で車の流れはなく、後方からクラクションが鳴り響いた。
そうだ。
あの日もこんなふうにクラクションが鳴り響いたんだ。
待ちぼうけは慣れている。いつだって彼が待ち合わせ時間に来たことなんてない。
「なんや?この渋滞」
「向こうで事故あったらしいで」
そんなざわめきが聞こえてきた。
「バイクこけとった」
私は、彼の後ろに乗るために、いつだってジーンズを余儀なくされていた。
「ピクリとも動いてへんかったな」
待ちぼうけは慣れている。私はきょろきょろとあたりを見回した。事故のせいか車が混雑しているけれど、バイクでなら通り抜けられるんだから。
「歩道のとこにレアもんのクツ転がってた」
また買ってもーた、なんて電話の向こうで笑う彼を思う。きっと、無邪気な顔で笑ってる。
どうしてだろう、私は、その場を離れて、走っていた。「遅くなっちゃった」なんて、悪びれる様子もなく無邪気な笑顔で迎えにくる。だけど、私は、その場を離れて走っていた。
大丈夫。
きっと、違う。
絶対に、違う。
人だかりが見えた。
私は走るのをやめた。
…もうそれ以上走れなかったんだ。
シューズを拾い、抱き締めてその場に座りこんでしまったから。
クラクションが鳴る。気付くと信号が鼓動のように点滅していた。私は急いで横断歩道を渡る。スカートの裾がひらひらと舞った。