物的証拠は 崖の下に
冷たい洞窟の土の上に 2
BY 古い歯ブラシ
~ この続編を、二階堂刹那さんに捧げます ~
突然、固定電話のベルが鳴り響いた。オレンジ色の画面に文字が浮かぶ。8月2日。午後7時15分。広瀬。電話は10回鳴って、切れた。
広瀬が電話をかけてきたのは久しぶりだった。 私が広瀬からの電話に出なくなって、もう半年以上になる。最近は、広瀬も電話をかけてこなくなっていた。
再び、ベルが鳴った。また広瀬からだった。10回鳴って、切れた。1分後に、また広瀬がかけてきた。切れては鳴り、鳴っては切れる。そんなことが数回、繰り返された。
そして、ようやく電話は鳴らなくなった。
私がほっとした時だった。別の誰かが電話をかけてきた。私は受話器を取った。それは警察からの電話だった。
「午後7時15分、ご主人の車が名古屋高速3号線で多重事故に巻き込まれました。」
夫は即死だった。
ショックが強すぎて、泣くことも、悲しむこともできなかった。夫の死という現実を、感じることも、考えることもできなかった。心臓が鼓動を打つたびに、全身が痛かった。
葬式の後の、初七日の席でのことだった。夫の友人たちが広瀬のことを話していた。
「広瀬からの電話、早かったな。」
「俺、広瀬は木下と一緒にいたのかと思ったよ。だって、7時半だよ、あいつから木下が事故にあったことを電話で聞いたのは。」
「あいつ、木下の車に盗聴器でも仕掛けていたんじゃないのか。」
盗聴器。その言葉はずっと解けなかったパズルの一片となって、さまざまな不審な事柄を
つなぎ合わせた。体の中を恐怖が突き抜けた。
私は病院のベッドの上で目を覚ました。あの日のことは、今も忘れることができない。
私は夫の死を受け止める前に、広瀬の恐怖と戦わなければならなくなったのだ。
その広瀬はもういない。私は泣いた。声を上げて泣いた。やっと、夫の死を悲しむことが
できる。悲しみに身を委ねることができる。私は泣き続けた。
8月9日、加藤修二は杉谷憩の家に来ていた。厨房から運び出された鍋類はスクラップになってしまっていた。憩の家のどの配管からも、トリカブトの毒は検出されなかった。ここで木下鈴子が毒を作り、2人に飲ませたという証拠は全くない。
裏口を調べていた加藤は、配電盤のリビングの照明がオフになっていることに気が付いた。リビングの照明を調べると、盗聴器が仕掛けてあった。その盗聴器は取り外しが難しいタイプのものだった。おそらくこれに気が付いた木下が、ブレーカーを落として、盗聴を防いだのだろう。
広瀬はここに来ていたのだ。安藤と一緒に来る前に、おそらく何度も。そしてその都度、自分がここに来たという痕跡を残して、木下に見せつけていた。
盗聴器以外に、広瀬は何を残していったのだろう。
そんなことを思いながら、加藤は2階に上がった。かつて客室だった1室に、木下は寝泊りしていた。10畳ほどの広さの板の間で、錠がかかるようになっていた。この錠は木下が取り付けたものだった。室内は質素だった。携帯用のガスコンロが一つ。小さな冷蔵庫と電子レンジ。窓際の作り付けのテーブルの上には、夫の位牌と写真があった。小さな花瓶に、野の花が活けてある。その横に、パソコンとSDカードがひとつあった。
加藤は一階に降りると、リビングのドアから外に出た。外階段には、木下の血をふき取った跡が残っていた。あちこちニスが剥げている。建物の裏手に回ると、木下が飛び降りた崖は目の前にあった。切り立った赤い土壁の下に、うっそうと茂った雑木林が見える。
木下が助かったのは、奇跡に近い。彼女は死ぬつもりだったのだ。もし、木下が完全犯罪を企んでいたのならば、自殺するはずはない。物的証拠がないのは、木下が意図的に隠したからではない。だとすると、証拠はどこかにあるはずだった。
加藤はあの時、建物から飛び出してきた彼女の姿をはっきりと覚えている。彼女は手ぶらだった。保護された時も、彼女は何も持っていなかった。でも、もし、あの時、彼女が身に付けていたとしたら、それはこの崖下のどこかにある。
昨日、安藤がストーカー対策室長だったことは、トップシークレットになった。それに従って、加藤もストーカー対策室から外された。にもかかわらず、上は安藤の判断、言動には間違いがなかったことにして、押し通そうとしている。決して安藤の非を認めてはならない、というのが上からの指示だった。しかもあの時に、加藤がここに居たことが大問題になっている。警察官が上司を尾行するなど、あってはならないことだった。もし、木下を有罪にする物的証拠を見つけなければ、加藤は退職を余儀なくされる。加藤も逃げ場を失っていた。
夫の葬式が終わるとすぐに、私は業者に依頼して、家の中に仕掛けられたすべての盗聴器を外した。それから数日後、広瀬は毎日、私の前に現れるようになった。彼は私の一日の、一週間の、一か月の行動パターンを知っていた。
9月10日、私は警察に行き、安藤にこれまでの経緯を話した。すると、安藤は私にこう言った。
「物的証拠はありますか。あなたが撤去したという、その盗聴器を広瀬が仕掛け、盗聴していた、という物的証拠です。また、1日に1回、必ずあなたの前に現れることを確実に裏付ける物的証拠です。たとえば写真とか。」
「いいえ。」
「広瀬はあなたに恋愛感情を持っているのかしら。あなた、告白されたこと、あるの。」
「いいえ。」
あれが恋愛感情であるはずがない。初めて会った時から、広瀬が私を見る目はターゲットをロックオンした獣の目だった。追い詰めて、射止めるだけの。私の意思も感情も認めない。必要としない。むしろ、邪魔なのだ。愛おしさとは真逆の感情だ。
「あのね、」
と、安藤は言った。
「そもそも、恋愛感情があって、それがもつれた場合でないと、ストーカー規制法の対象にはならないの。」
「そんなばかな。」
門前払いにあって、しかたなく警察署を出た時だった。警察署の門の前に、広瀬が立っていた。私は悲鳴を上げて、走って安藤のところに戻った。
「広瀬がいるわ。今、門の前に。来てください。」
私は安藤を引っ張って行った。だが、広瀬の姿はなかった。安藤は疑いの目で私を見た。
「いたのよ、ほんとうに。防犯カメラで確認してください。」
「警察にそんなものはありません。」
「でも、いたんです。どうか、被害届を受理してください。」
「ああもう、わかりました。受理します。そして、その広瀬という人から、話を聞いてみます。」
こうして安藤は嫌々私の被害届を受け取った。
書類の上では、安藤の仕事ぶりはいつも完璧だった。当事者の言い分をサンプルに合わせて切り取る。都合の悪い部分は捨てて、足りないものを付け加える。それを当事者に納得させる。それでも恋愛がこじれた程度なら、警察が介入するだけで、冷や水的な効果があった。
だが、このやり方は広瀬には通じなかった。彼は警察のストーカー対応に熟知していた。もちろん、物的証拠を残すはずもない。社交性を発揮して、ハイクラスの人間としての魅力を振りまき、安藤を虜にしてから、木下に誤解されて困っていることを切々と訴えた。
「私は盗聴したことはありませんし、ストーカー行為をしたこともありません。木下の奥さんとは、葬式でお会いした程度です。どうか、木下さんの誤解を解いて、彼女を安心させてあげてください。」
広瀬の言うことを、安藤は頷きながら聞いていた。
11月2日、加藤は街中で偶然、木下を見かけた。彼女は花を抱えて平和公園行のバスに乗り込むところだった。バスが発車すると、反対車線に止まっていた黒い高級車が動き出した。それを運転していた男は、広瀬だった。
加藤はこのことを安藤に話した。すると安藤は激怒した。
「そんなの、ただの偶然よ。」
「いや、広瀬はストーカーです。しかも、まだストーカー行為は続いています。広瀬を呼んで、警告を出すべきです。」
「あら、私は木下に被害届を取り下げるように言ったのよ。だって、木下はあれ以来、何も言ってこないから。」
「広瀬はストーキングの方法を変えただけです。それに木下はまだ気が付いていない。彼は危険です。寛解と悪化を繰り返しながら、エスカレートしていくタイプです。」
「あなた、何様なの。私の言うことはいつも絶対に正しいのよ。覚えておいて。」
安藤は取り合わなかった。
12月24日、クリスマスイブのことだった。いつものように、黒い車が私の後をつけてきた。私は細い路地に入った。この道には車は入れない。ずっと細い道が続くのだ。やったわ。そう思った時だった。車の止まる音が聞こえてきた。
しまった、と思った時は、もう遅かった。広瀬が路地を駆けてきた。広瀬は私の肩を捕まえると、私を引き寄せた。それからナイフを取り出した。彼はナイフで私の頬をそっとなぜた。瞼、唇、首筋を、冷たい金属が這う。鎖骨、胸、腰、ナイフの刃先はゆっくりと下に降りていく。そして彼はナイフを突き立てる仕草をした。
しばらくして、彼は私の肩を放した。ガクガクと震えてもつれる足を何とか引きずって、私は彼から離れた。涙があふれて止まらなかった。私は警察に行き、安藤に経緯を話した。
加藤は安藤に進言した。
「広瀬に警告と、接見禁止命令を出すべきです。早くしないと、木下が危険です。」
ところが安藤は出かける用意をしながらこう言った。
「物的証拠もないのに弁護士に警告や命令を出したら、面倒なことになるだけよ。まあ、木下が殺されて死体になれば、それが物的証拠になるけれど。でも、もし、広瀬が本当にストーカーだったとしても、彼は弁護士よ。殺しまではしないわ。」
「安藤さん、これから広瀬の事務所に行くつもりですか。」
「ええ。広瀬が何回も警察に呼び出されるのは立場上困ると言ってきたから。」
「いえ、ここに広瀬を呼び出すべきです。」
「行ってくるわ。2度と、私に指図はしないでちょうだい。」
こうして安藤は広瀬の事務所に出かけて行った。
広瀬の事務所は、名古屋の一等地の高層ビルの中にあった。彼の父親も弁護士で、親子2代でこの事務所を経営していた。安藤は小さな応接室で、広瀬と話をした。
「困りましたね。私も注意して、彼女には近寄らないようにしているのですが。私としては、彼女の訴えはすべて彼女の妄想だとしか、言いようがないのです。このままでは、私は彼女を名誉棄損で訴えざるをえませんね。」
「私も、木下には本当に困っています。私はストーカー対策室長として、3年間仕事をしてきましたが、彼女のようなケースは初めてです。年度末までに処理しないと、私の成績が下がってしまうわ。」
「何とか、彼女が被害届を取り下げるように、図らっていただけませんか。」
「ええ。それが誰にとっても最善の方法ですものね。木下も仕事を変えるといっていましたから、ここらで気分を一新してほしいですわ。」
「ほう。仕事を変えるんですか。」
「ええ。今度はレストラン『花咲』の厨房で働くそうですよ。」
「そうですか。」
それ以来、安藤は広瀬の事務所を頻繁に訪れるようになった。加藤が何を言っても聞こうとはしなかった。それどころか、安藤は何度も木下に被害届を取り下げろと迫った。
一週間後、8月14日、私は退院すると、その足で杉谷村に向かった。途中、コンビニとホームセンターに立ち寄った。買った荷物を小さなデイバックに入れた。車を走らせ、山道を上る。3週間暮らした景色が私を迎えてくれた。森の緑と風が私を包む。やがて憩の家の駐車場に着いた。
よかった。警官はいない。私は建物の裏手にある、崖に向かって走った。
続く