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揺れる眸  作者: 佐倉硯
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高級すぎる人

十五が高本に対してどのような冷たい言葉を投げかけるのか、蝶子はただ心配でたまらなかった。

高本が居るとはいえ、蝶子に今までこんな冷たい視線を向けることはなかったと考えれば、当然のごとく考えられるのは十五が少しならずか蝶子に怒りを感じているからだ。

蝶子はただただ怯えた表情で十五を見つめれば、十五はあえてそれを見ないように高本に向けて口を開いた。


「ここで三分ほど待っていてください。お二人とも送って差し上げます」


十五の意外な言葉に、蝶子は「え?」と顔をあげた。

相変わらず無表情な物言いだったけれど、何の事情も知らない高本は「らっきぃ」と喜んで首を縦に振る。

高本の反応に、十五は静かに蝶子を見つめ、それから静かに言った。


「では今、車を取ってきますので」


それだけを告げると、十五は踵を返し、早足で廊下を歩いていく。

十五の言動に呆然としていた蝶子に、高本は歩み寄り蝶子の肩をポンと叩いた。


「ラッキーだったな。楽ができる」


「え、は、はい。そうですね」


戸惑いがちに蝶子が答えれば、高本はふっと微笑んだ。


高本に罪はない。


けれど今は高本の軽い言動に蝶子は少しだけ苛立ちを感じた。

変なことになってしまったと今更後悔しても遅いだろう。

高本は十五に送ってもらう気でいるし、本人が居ない今を見計らって逃げ出すこともできるわけがない。

自分にその気がないにしろ、十五は蝶子に対して想いを抱いている。

蝶子は自分の軽率な判断が間違っていたと反省し、そう考えた瞬間、酷く疲れを感じて大きなため息を漏らしながらようやく靴を履いた。


「お待たせしました」


そう言って十五が車の運転席から顔を覗かせた。

それほど長い時間待っていたわけではないけれど、十五が乗ってきた車を見て、蝶子も高本も言葉を失った。

高本はゆっくりと十五の乗る車に近づいて、感動したように目をキラキラ輝かせながらポツリと言葉を漏らした。


「すっげぇ……フェラーリだ……」


高本の言葉に、蝶子はギョッとした。

いくら車に知識のない素人の蝶子でも、フェラーリという車がどれだけの高級車かを知っている。

スポーツカーのような車ではあるが、後部座席のあるタイプでそれほど嫌味を感じられない。


酷い言い方になるが、たかが高校教師がこんな高級車を乗り回すなんてありえないだろうと思いながら唖然としていれば、十五は無表情のまま高本に言った。


「君は後部座席でいいかな?」


十五の言葉に、高本は何の疑いもなく素直に頷きながら律儀に「お願いします」と言って後部座席に乗り込む。

それを見ていた蝶子はハッとして高本に続くように後部座席のドアに手をかければ、十五は静かな声でそれを制止した。


「君は助手席に乗りなさい」


有無を言わせないような十五の口ぶりに、蝶子はビクリとしながらも静かに頷いて、後部座席に乗る高本を見る。

高本は蝶子が困っていることに気づかないくらい、後部座席に乗ってから車内をキョロキョロと興味深く見渡していた。

彼からの助けを諦めた蝶子は、仕方なく後部座席のドアを閉め、回り込んで助手席側のドアを開く。


「お、お願いします」


遠慮がちにそう伝えて、乗り込めばそこでようやくこの車が左ハンドルだということに気がついた。


蝶子は恐る恐るシートベルトをしめ、バックミラーで高本の様子を伺えば、まだ興奮冷めやらぬ状態で座席をなめるように見つめている。

十五はそれを見つめながらギアに手をかけると、二人にたずねた。


「どこまで送っていけばいいかな?」


その言葉にようやく我に返ったように高本は助手席と運転席の間に身を乗り出して十五に笑顔で言う。


「あ、俺も彼女の家に用があるので彼女の家にお願いします」


蝶子が今の今まで伏せておいたことを、高本はケロリと言ってしまった。

高本の言葉に、十五の無表情が始めて崩れ、眉間にしわを寄せて高本に振り向いた。


「こんな時間に彼女の家にお邪魔するのかい?立ち入ったことを聞くようですが……君たちは……付き合っているの?」


そんなことはないとすぐに否定したかった。

蝶子がそんな器用な人間でないことを十五本人だってちゃんと理解しているはずだ。


けれど十五はまるで高本を挑発するような、あまりにも冷たい言い方だったので、蝶子はすぐに否定の言葉を告げることはできなかった。


「いえ、彼女が今日、家に一人だと言っていたものですから、ちょっと写真のことで話をしようかと」


理由になっていないと言いたいが、決して間違ってもいないので蝶子はただハラハラと高本の能天気な発言を聞くことしかできない。

発言した当の本人は、十五のイライラとした態度に気づいておらず、意気揚々としている。


「感心しないですね……」


ポツリと漏らした十五の発言に、高本はようやく十五が不機嫌そうにしていることに気がついた。


「女性一人の家に押しかけるなんて感心できませんね。教育者の立場からしてそういった行為は許せません。ましてやお付き合いしていない方の家に訪問するなど……」


先ほどよりもはるかに低い声で十五がそう漏らせば、高本は自分が失言をしたとようやく気がついたようで、気まずい視線を蝶子に向けた。

どうしようという困惑を含んだ高本の視線に蝶子は、慌てて助け舟を出すように言った。


「ま、また今度にしましょう先輩。今度母が帰ってきた時には新しい写真も一緒にできてくることですし」


二人に気を使うように言った蝶子の言葉に、高本は「そうだな」と仕方なさそうに言って十五に向き直れば、自分の住所を告げた。

蝶子もようやくホッとして自分の住んでいる場所を告げれば、十五は相変わらずムッとした表情のまま考え込んで静かに言った。


「では高本君……だったかな?君から送っていこう」


「はい、お願いします」



 ―*―



十五が運転中、車内は始終、高本の独演だった。

決して話が得意ではない高本だったけれど、高本自身も車の異様な雰囲気に気がついており、それをどうにかしようと必死のようだ。

一生懸命写真の話をする高本に、蝶子は相槌を入れては愛想笑いを浮かべるも、高本の言っていることは半分も頭の中に入ってこない。


時々遠慮がちにチラリと十五を見れば、十五は運転に集中しているのか蝶子に見向きもしなかった。


「ありがとうございました」


数十分ほど三人でのドライブを楽しみ、高本は満足そうにそう言って降りていく。

それから助手席に座る蝶子に向けて笑顔を見せると「また明日」と言って手を振った。

蝶子もつられるように微笑んで手を振ろうとすれば、途端、車が急発進して蝶子は車の揺れとともに体を大きく揺さぶった。

驚きのあまり十五を見れば、十五は相変わらず前を見据えたまま無表情のまま運転を続けている。


二人きりになってしまったことで、蝶子は気まずさを募らせた。


何か話そうと必死に話題を探るも、なかなか思うように浮かび上がってはこない。

どんな話をすれば十五の機嫌が取れるのか、それだけを考えて手元に視線を落としていれば、体に感じる異様な感覚に心臓が高鳴った。


車がだんだんとスピードをあげていた。


広いまっすぐな道とはいえ、蝶子は今までに感じたことのない速さに素直に怯える。


メータを覗き見れば、針は100キロ以上を指しており、幾度となく車線変更を繰り返し、前を走る車をギリギリのところで追い抜いていく十五の荒い運転に、蝶子はとうとう根をあげた。


「やだっ!先生っ!ゆっくり走ってくださいっ!」


蝶子の叫ぶような訴えにも、十五は応じないようにまたアクセルを強く踏み進める。


身を縮こまらせ、走り行く景色を見ることに恐怖を覚えた蝶子は目をつぶって、先ほどよりも大きく叫んだ。


「いやっ!!怖いっ!!」


蝶子の叫びがようやく耳に届いたのか、十五はハッとして蝶子の体に影響を与えないようにゆっくりとスピードを落としていく。

助手席でガタガタと体を震わせる蝶子を見つめながら、十五は見知らぬわき道に入り、人気のない草むらに車を押し込め停車させた。


ゆっくりとエンジンを切り、シートベルトをはずすと、十五は伺うように蝶子を見つめる。

シンと静まり返った車内には、蝶子のすすり泣く声しか聞こえてこなかった。


「……蝶子さん」


十五の声に、蝶子はビクッと体を震わせた。

先ほどとは比べ物にならないほど優しくなった十五の声に、蝶子は涙をぬぐいながら静かに顔を上げる。

無表情だった顔は崩れ、悲しそうに蝶子を見つめる十五に蝶子は何も言えないでいた。


「本当に……申し訳ありません……。怯えさせるつもりはなかったんです……」


本当に申し訳なさそうに蝶子を気遣う十五の態度に、蝶子はゆるゆると首を横に振った。


「私が悪いんです。先生の気に障るようなことを、故意ではなかったとはいえ、先生を傷つけてしまった……。本当にすいません」


蝶子の言葉に十五は何も言わずに蝶子の髪を撫でた。

優しく、そこから十五の温もりが心に染み渡るように広がっていく。

十五はふと目を細め、切なげに蝶子を見ると静かに自分の胸中を語った。


「本当に……嫉妬で狂い死にしそうでした。僕も自分で驚くほど彼に嫉妬していて……。貴女が僕以外の男性を見ているだけでも気が狂いそうになる……」


蝶子の両腕を穏やかにつかみ、顔をしたに伏せてしまった十五の行動に蝶子は困惑した。


なんと自分は浅はかな考えで彼との関係を怖そうとしていたのだろうと。

彼の気持ちも考えずに自分だけの都合で考えていたと、蝶子は酷く恥ずかしくなる。


始めは冗談か何かだとも疑っていた。

相手は先生だったし、いい大人だ。

弄ばれて捨てられるのではないかという気持ちも捨てきれない。

けれど十五はこれほどまでに蝶子を想ってくれていた。


会ってまだ二日目だけれど、彼の優しさに触れられたのが自分でよかったと素直にそう思った。


蝶子は落胆する十五の背にそっと手を乗せた。

それに反応するかのように十五はゆっくりと顔を上げる。

十五は優しく微笑みながら蝶子の頬を撫で、自分の額を蝶子の額にコツリとくっつけた。

間近に迫る十五の顔に、蝶子は頬を赤く染めて目を逸らせないでいる。

互いの眼鏡がカツンと小さく音を立ててぶつかれば、蝶子は気を逸らすように呟いた。


「あの……せんせ……」


蝶子の言葉に十五はゆるゆると目を細め、体勢を保ったまま親指で蝶子の唇をなぞった。


「また……名前で呼んでもらえなかった……」


「あ……」


「意地悪な唇だ……僕はどうやらこの唇に甘い罰を与えなければいけなくなった」


意地悪くそう微笑み、十五の顔が次第にゆっくりと近づいてくる。

跳ね上がり暴走を始めた心臓に、どうしようもない戸惑いを覚えた蝶子は、身を強ばらせた。



ぐぅ~……



突然聞こえてきた音に、十五は閉じかけていた目を見開いた。

蝶子の耳にも確かにそれは聞こえ、音の正体がわかれば顔を真っ赤に染める。

蝶子は穴があったら、いや穴がなくとも自分で土を掘り返してでも入りたくなった。


こんな時に限って蝶子のお腹が鳴ってしまったのだ。


たったそれだけのことで今までの雰囲気は見事に崩壊した。

十五はゆっくり蝶子から離れたかと思えば、蝶子に背を向けて体を震わせる。

静かだった車内に十五の笑いを噛みしめる声だけが響き、蝶子はますます顔を赤らめた。


一層のことならこっちを向いたまま笑われた方がマシだった。

変な気の使われ方をした蝶子はまだ笑いの止まらないらしい十五に頬を膨らませて言った。


「先生っ!!」


窘めるような、叱る物言いに、十五はようやくこちらを向いてくれたけれど、まだ笑いが止まらないらしく、クスクスと笑いながら目尻に浮かんだ涙を拭っている。

膨れ面のままの蝶子の頭をポンポンと撫でながら、十五は素直に謝った。


「す、すいません。あまりにもタイミングが良過ぎたもので……堪えきれませんでした」


「限度というものがあります」


心外だといわんばかりにムッとしながら蝶子が言えば、十五はようやく笑いを収めて穏やかな笑みを蝶子に向けた。


「では笑ってしまったお詫びと、怯えさせてしまったお詫びを兼ねて食事に行きましょう。ご馳走させて頂きます」


十五の気の利いた言葉に、蝶子は少しだけ戸惑ったものの素直に小さく頷いた。

お腹が空いているのは確かだし、十五の機嫌をわざわざ損ねるような方向にもっていきたくはない。

このまま家に帰っても一人で食事をするだけだと思えば、二人のほうが楽しいに決まっている。


蝶子の素直な頷きに、十五は照れたように微笑むと、運転席にしっかりと座りなおしシートベルトに手をかけながら言った。


「では安全運転をさせて頂きます。もしもの時の為にしっかりとシートベルトを締めて下さいね」


「はい」


十五は横目で蝶子がシートベルトを締めているのを見ながらエンジンを掛けると、ゆっくりと後退して草むらを出る。

それから言葉で表現したように忠実な安全運転で車を発進させた。


学校を出たときとはまるで違い、今は緊張感もほとんど薄れ、蝶子と十五との会話はよく弾んだ。


「蝶子さん、何か嫌いな食べ物はありますか?」


「いえ、好き嫌いはありません。何でも食べます」


「では和・洋・中ならどれが?」


「やはり日本人なら和食ですね」


蝶子がうんうん、と一人で頷きながらそう言えば、十五はこちらを向いていないのにわかっているかのようにクスクスと笑みを漏らす。


「それではお寿司を食べに行きましょう」


「お寿司……ですか?」


「お好きじゃありませんか?」


「いえ、大好きです。けれど……その……お寿司は高すぎるのでもっと手軽に食べられる場所が……」


遠慮がちに躊躇いながら呟く蝶子に、十五は眉毛の両端を下げて前を見据えながら言った。


「遠慮はいりませんよ。お詫びを兼ねているのですから、もっと贅沢を言って下さってもかまいません」


優しく気遣う十五の言葉に、蝶子はふと十五の顔を見る。

運転に集中しながらも蝶子との会話を楽しんでくれているようで、蝶子はホッとしながら自分もまた前を向いた。

フロントガラスを駆けていく景色はすでに暗闇の中に街のイルミネーションが映し出されている。

周囲から見られているのではないかという不安もあったけれど、平気そうな十五を見ていれば、大丈夫なのだと錯覚させられ、安堵する。


蝶子は少しだけ考え込んで、それから少しだけ微笑んで言った。


「ではひとつ我侭を聞いてくださいますか?」


「何なりとお申し付けください、お姫様」


かしこまった十五の台詞に、蝶子は少しだけプッと噴出して笑った。

十五の言葉は本当に不思議で、自分がまるで本当のお姫様のようになった気分になる。

浮き上がった気持ちを抑えながら、蝶子は十五を見て言った。


「お食事の後に、デザートをつけてください」


「甘いもの、お好きなんですね?」


「はい」


「もちろんです。食べきれないほどの大きなパフェをご馳走しましょう」


冗談めいた言葉でも蝶子は嬉しくなって無意識に手をパチパチと叩いた。

その蝶子のご機嫌な様子に、十五も思わず顔を綻ばせる。

それから「そう言えば」と思い立ったように、十五は蝶子に尋ねた。


「学校にいる間、メールと電話を数回させて頂きましたが、お気づきですか?」


十五の言葉に、蝶子が思い出したように「あっ」とつぶやけば、十五は苦笑いを浮かべて「やっぱり」ともらした。


「す、すいません……一人になる機会に恵まれなかったものですから」


「トイレの中などでチェックして頂ければよかったのに」


十五がため息交じりに、呆れ混じりにそうつぶやけば、蝶子はようやくそのことに気がつき「あ、そっか……」と口元に漏らした。

それを聞いた十五は蝶子の天然のような発言にプッと噴出して仕方ないといったように続けて言った。


「学校へ携帯を持ってくることは禁止されていないんですから、休み時間などに見ていただければうれしかった」


十五のボヤキに蝶子は反省するように身を縮めた。

実際、十五の言っているように学校に携帯を持ってくることは禁止されていない。

世の中何が起こるかわからないし今現代の学生には必要なものだからと佐倉校長が当たり前のように許可をしている。


さすがに授業中などに携帯をいじっていれば没収されることもあるが、先生の小言を聞いて反省の色を見せればすぐに返してもらえる。

それでも直らない人は家族に連絡を入れられ、テスト期間に入れば全科目60点以上とらなければ夏休みや冬休みを献上しなければならないという究極のお仕置きが待っているので、生徒はそれをしっかりと守っている。

やることはやれ、羽目をはずすときは思いっきりはずせという自由奔放なモットーの校長先生の考え方は生徒の支持を幅広く集めている。

それはそれで理解できないでもないが、蝶子の場合はわけが違う。

十五にもらったばかりで携帯の使い方がわからない。

二人の関係がバレてしまっては、十五も自分も困ることになると考えた上での行為ではあるものの、必ずと念を押されていたのに忘れてしまっていた自分が情けないと思えた。


「す、すいませんでした」


「構いませんよ。今はこうやって蝶子さんとデートできたのですから。今日送らせていただいたメールの目的は達成できました」


にこやかに話す十五の言葉に、偽りはないようだ。

怒らせてしまったかと思ったが、優しく許してくれた十五の心の広さに感謝した。



 ―*―



「こ、ここですか?」


「はい、そうですけど……?何か?」


何か?どころの騒ぎではない……と蝶子は心の中で毒づいた。

あれからまた他愛もない話をしながら十五の運転でたどり着いたお店は蝶子の予想を遥かに上回ったものだった。

駐車場に車を止め、降りた時には本当に天地がひっくり返ったかと思うほど眩暈が蝶子を襲った。

お寿司と言われたから、てっきり回転寿司か何かだと思っていたけれど、目の前に立つ店はどう考えてもそういう場所には見えない。

由々しくそり立つその店は、ドラマやセレブを紹介する番組に出てくるような立派なお店だった。

木の香りが充満し、和を代表するような美しい建物だ。

紺色の暖簾の下がるその入り口で、蝶子はかなり戸惑った。


「どうかなさいましたか?」


「あ……あの……先生……この店はちょっと……」


「お気に召しませんか?」


「そうではなくて……私には敷居が高すぎます……」


「そんなこと、気にしなくて構いませんよ?」


「で、でも……私、制服のままですし、こういったお店は私みたいな人間、ご遠慮されるのではないでしょうか?」


おずおずと躊躇うように話す蝶子に、十五はにっこりと微笑んだ。


「平気ですよ。このお店は僕の父が設計したものですから、僕はお得意様なんです。お店の方も皆、いい方ばかりですから気兼ねなくお食事を楽しみましょう」


「え?」


十五の言葉に蝶子が戸惑いの言葉を漏らすも、十五はそっと蝶子の背に手を添えて店の中へ入っていく。

どう抵抗することもできずに蝶子は十五が進めるままに店の中へ足を踏み入れれば、静かな空間と柔らかな水の流れる音が聞こえた。

細い廊下が先にずっと続いており、脇には人工の小さな川が流れている。

入ったとたん、時間の流れが変わったような感覚に捕らわれていると、店の奥から着物を着た品のいい女性が姿を現した。


「まぁまぁ、黒澤様、ようこそおいでくださいました」


穏やかな口調で十五に話しかける女性は、その口調通りの柔らかな笑顔を向けるも、十五は途端に無表情になって女性に言った。


「女将、奥は空いていますか?」


「ええ、大丈夫ですよ。……そちらの可愛い方は?」


十五の質問に返答しつつ、女将と呼ばれたその人は十五の隣に寄り添うように立つ蝶子を、優しい視線で見つめてそう付け足すように十五に尋ねる。

女将の言葉に十五はゆっくりと蝶子の肩を抱きしめて自分の下へ引き寄せると、静かに言った。


「僕の大切な方です」


十五の言葉に女将は相当驚いたらしく、目を見開いて蝶子をマジマジと見つめ、それから目を細めて意味深げに微笑んだ。


「まぁ、黒澤様の……。今までどんな女性にも目もくれなかった黒澤様の心を射止めた方ですのね?」


「立ち話はいい、部屋に案内してください」


少しだけ怒ったような十五の口調にも、女将はクスクスと笑みを漏らしながら部屋へ案内するために廊下を歩き始める。

蝶子は緊張しながらも十五に寄り添うように歩き、いくつもの閉ざされた襖を横目に見ながら一番奥の部屋へと案内された。


六畳程度の小さな部屋ではあったが、その真ん中に低いテーブルが置かれ、それを間に挟むように二枚の座布団が置かれている。

左側には小さな床の間があり、そこに飾られている生け花は、素人の目から見てもそれは見事なものだった。

入り口の反対側には障子の空いた窓があり、そこには見事な日本庭園が広がっている。

蝶子はそれを見てますます恐縮し、十五を見上げれば、十五は蝶子を見つめながら上座に座るように促した。


「お勧めはあるかい?」


二人がテーブルを挟んで向き合うように座れば、女将は小さな手帳のようなものを十五と蝶子にひとつずつ渡す。

膝を畳につき、テーブルの上にお絞りを並べれば、女将は静かに言った。


「今日は山梨産の新鮮な天然あわびが入っておりますわ」


「ではそれを焼いてもらおう。あとウーロンを二つ先に持ってきてほしい。後はその時に注文しますので」


「かしこまりました」


女将はゆっくりとうなづいて立ち上がると、そのまま静かに部屋を後にする。

蝶子はそれを見送りながら十五を見れば、十五は女将から手渡された手帳のようなものに視線を落としながら尋ねてきた。


「蝶子さん、何が食べたいですか?お好きなものを選んでください」


蝶子は何も答えないまま自分に手渡された手帳を広げる。

そこには高級食材を多く使ったコース料理や寿司の名前が間を空けて並んでいた。


「せ、先生」


「どうしたんです?」


「このメニュー……値段が書かれていませんけど……」


「……?値段が書かれているメニューなんてあるんですか?」


蝶子の問いに、十五がそう問い返したことで、蝶子はギョッとした。

車のことといい、このお店のことといい、蝶子には理解できない十五の金銭感覚に眩暈を覚える。

申し訳なさそうにメニューを閉じ、それからおずおずと遠慮がちに十五に尋ねた。


「あの……つかぬ事をお伺いするようで失礼なんですが……」


「はい、なんでしょう?」


「先生のお父様はこちらのお店を設計されたとおっしゃいましたが、設計士の方なんですか?」


「設計士でもありますね」


「……?では普段は何をなさっていらっしゃる方なんですか?」


「動産、不動産の売買を目的とする会社を経営しております」


「動産、不動産……」


十五の言葉に蝶子はふと脳裏によぎるものがあった。

いやいやまさかとは思い、けれど動産、不動産と聞き、十五の苗字が黒澤と聞けば誰もが思い浮かぶものがある。

蝶子はひどく緊張した面持ちでもう一度十五に尋ねた。


「も、もしかして……もしかしてですよ?……先生のお父様は……黒澤不動産の社長さんですか?」


「はい」


あれほど緊張して尋ねたのにもかかわらず、あっさりと肯定された言葉に、蝶子は言葉を失った。


黒澤不動産といえば、誰もが知っているほどの大企業であり、黒澤不動産イコール黒澤財閥。

日本でも五指に入るほどの超一流財閥だ。



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