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揺れる眸  作者: 佐倉硯
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思いがけないプレゼント

何も言わないまま歩いていく十五の背中を、蝶子は必死に追いかけた。

廊下を歩いていけば、十五が生徒を引き連れて歩くのがよほど珍しいのか、生徒だけならず先生までもが二人の姿を見て驚きの表情を向けた。

その視線が気になって仕方のない蝶子は半ば俯き加減で歩調を早めて十五の後へついて行く。


当の本人はその視線に気がついているのかいないのか、涼しい顔をしたまま悠々と歩く。

その顔は歩く先しか見ておらず、無表情で何を考えているのかわからない。

蝶子はそれに怯え、緊張しながらも自分の意志を確認するように心の中で何度も繰り返した。


ちゃんとお断りさせてもらおうと。


昨日は自分でも意味の分からないまま返答してしまったことを素直に謝罪してしまおうとしていた。

けれどそれは同時にあの恐ろしくも冷たい十五から何を言われるかという恐怖も沸いてくる。

知ってしまった彼の実態は、蝶子の緊張を高める材料としては十分だった。


渡り廊下を歩いていき、第一校舎の一番隅の細い廊下をまっすぐに歩いていく。

そこは特別教室が並ぶ別館のようになっていて、第三校舎からはかなり離れた場所だ。

授業でも稀にしか使われないその場所は、生徒の姿は全くなく静まりかえっていた。


ようやく十五が足を止め、蝶子も合間をあけて立ち止まれば、目の前にあったのは生物室の準備室だった。

十五は白衣のポケットから鍵を取り出しドアノブに差し込めば、カチャリと抵抗のない音が聞こえてドアが開く。

十五はドアを引くと、蝶子に先にはいるように促した。

蝶子は促されるまま一歩足を踏み入れれば、そこは思ったよりも清潔感があり綺麗に整頓されていた。

部屋の両側に並んでいるショーケースには黒い布がかぶせられていたが決して無造作なものではなく綺麗に整えられている。

窓際には水道がありその横にはポットやコーヒーカップが無造作に並べられている。

そこには小さいながらも冷蔵庫があり、蝶子の目の前には事務机が置いてあった。

生活感のある準備室に少しだけ違和感を覚えながら見渡していれば、後方で静かに施錠の音が聞こえて振り向いた。


どうやら十五が鍵を閉めたようだ。

なぜ鍵をかけたのか理解できず、蝶子は緊張と戸惑いから身を強ばらせる。

端から見てもその様子が伺えて、十五は蝶子の緊張をほぐすように言った。


「大丈夫です。何もしません。二人の時間を誰にも邪魔されたくないだけです」


十五の素直な言葉に、蝶子は胸をなで下ろしながらも少しだけ赤面して十五を見つめた。

先ほどの冷たさはまったく感じられず、穏やかな人間味のある眸を蝶子に向けている。

少しだけ戸惑いながら遠慮がちに十五は蝶子に尋ねた。


「怒っていますか?」


十五の問いの意味が分からず、蝶子は少しだけ首を傾げれば、十五はおずおずと再び尋ねた。


「その……授業中に……手を握ってしまったことです」


ようやく十五の質問の意図を理解し、蝶子は首をフルフルと横に振った。

困惑したのは確かだが、怒っているわけではない。

蝶子が素直に反応すれば、十五は「よかった」と安堵の表情を浮かべ、それからゆっくりと蝶子に近づいた。


「貴方に……触れたくて仕方なかった……」


苦しそうにそう呟けば、十五は蝶子の手を取り、ゆっくりと持ち上げ、手の甲に唇を這わせた。

途端、蝶子の体はビクリと震え、思わず手を引こうとしたが十五がそれを許さなかった。


「そんなに怯えないでください」


「あ……あ……あのっ、私っ!」


十五の突然の行動に蝶子は慌てふためきながら、頭の中で繰り返していたはずの言葉を引き出そうとしてくる。

けれど蝶子を見つめる十五の視線が酷く切なげで、慈しむ眸をしていたことに蝶子は思わず言葉を飲み込んだ。

十五はふっと微笑み、蝶子の手を握りしめたままちらりと壁に掛かる時計を見て眉をひそめた。


「ようやく二人きりになれたと思って喜んでいたのに……どうやら時間は僕たちにヤキモチを焼いているらしい……」


十五の言葉の意味を何となく理解し、蝶子も視線をずらしてみれば、休み時間も残り時間は五分となっている。

蝶子が時計から視線を改めて十五に向け、言わなければと自分に言い聞かせていれば、十五は握りしめたままになっていた蝶子の手をゆっくりと掌が上に向くように広げれば、白衣の胸ポケットから何かを取り出して蝶子のそこに乗せた。


「プレゼントです。受け取ってください」


ようやく十五の手から解放され、蝶子が自分の掌の上に乗せられたものが何かを悟った瞬間、驚いて十五に言った。


「そんなっ……受け取れません!」


「なぜです?」


「け……携帯なんて……。使い方わからないし、申し訳ないです」


蝶子は突き返すようにそれを十五に差しだした。


十五が蝶子にプレゼントしたのは携帯電話だった。

真新しく真っ白な外観を持つ機種であったが、携帯を持ったことがない蝶子にとっては猫に小判といったようなものだ。

必死に断ろうとする蝶子の姿を見て、十五は悲しそうな顔をしながら差し出された蝶子の手をそのまま握りしめた。


「これは僕の我が儘なんです。あなたの声が毎日聞きたい。携帯の使い方なら僕が教えます。どうか受け取ってください」


「でも……」


「蝶子さん、もうすぐ授業が始まります。サイレントモードにしておきましたので授業中に音が鳴ることはありません。安心してお持ちください。今、簡単にメールの見方だけお教えしますから、時々メールのチェックをしてください。必ずですよ?」


蝶子にはまったくわからない単語を並べられ、困惑していればどうやら断るタイミングを完璧に失ってしまったらしい。

十五は蝶子の隣へ行き、横から携帯をのぞき込んでメールの見方を丁寧に教えてくれた。


短い時間で何とか蝶子はそれを覚えると、十五が見ている手前、仕方なくそれをスカートのポケットにねじ込んだ。


それと同時に遠くからチャイムの音が聞こえ、蝶子はハッと顔を上げた。


「あ……ありがとうございました先生……失礼します」


慌てるように蝶子が十五に礼を述べ、背を向けてドアノブに手をかけた瞬間、ドアを後ろから押され開くことができなかった。


十五が蝶子の背後に密着し、抱きしめるようにドアに両手をついていたのだ。


蝶子は突然背中に感じた温もりに身を震わせ、それでも振り返られないままで居れば、チャイムはいつの間にか終わってしまった。


鼻をくすぐる男の人の香り。


耳元に吐息がかかったかと思えば、十五の優しい声が直接蝶子の耳に響いた。


「二人きりの時は十五と呼んでください」


胸が壊れてしまうのではないかと心配するほど蝶子の心臓は大きく高鳴った。

急にそんな要望を出され、忠実に守れるほど蝶子は器用な性格をしていない。

蝶子はどうしても振り返ることができず、震える声でもう一度「失礼します」と呟けば、十五は素直に蝶子を解放し、蝶子は慌てるように準備室を出ていった。


「お帰り蝶子」


「無事の帰還、おめでとう。先生まだいらしてないわ」


慌てて戻ってきた蝶子に、教室で待っていた栞と要が話しかけてきた。

教室はさっきの静けさとは打って変わって今の状態でもまだざわめきを失っていない。

蝶子は息を荒げながら自分の席に歩いていけば、栞は蝶子を視線で追いながら笑って尋ねた。


「なんか変なことされなかったかぁ?」


「大丈夫よ」


本当は沢山されたけれど……と心の中で付け足して、蝶子は自分の席に着く。

丁度その時、先生が入ってきた為、栞と要が前を向けば、ようやく、ほっとした表情を浮かべて蝶子は机の中から教科書を取り出した。


十五の授業中とはまったくの別人のような態度が蝶子の頭の中を駆けめぐっている。

彼に尋ねたいことは山ほどあるし、まだ自分の本当の気持ちを伝えていない。

携帯を受け取ってしまったら、なおのこと断りにくくなった。

あまりにも間抜けすぎる自分の素行に大きなため息をつくしかないだろう。


一体彼の相手がなぜ自分なのか、彼は何を考えているのか見当もつかない。

十五の言動、ひとつひとつが蝶子を困惑させ、同時にドキドキさせられる。

今まで感じたことのない胸の高鳴りを蝶子はどう呼ぶのか知らないでいる。


昔から友人達には恋愛とはどういうものかを延々と聞かされてきた。

けれど自分がその立場になっているとは考えたくない。

蝶子はスカートのポケットの部分に外側からそっと触れ、感じる膨らみに夢のようなあの出来事を現実だと受け入れるしかない。

思いがけないプレゼントは蝶子の困惑をさらに増幅させたことは間違いない。


蝶子は雑念を払うように首を小さく横に振ると、授業に集中するために考えることをやめた。



―*―



「今田さん?」


ふと声をかけられ、ハッと顔をあげれば、不思議そうに心配そうに蝶子の顔を覗き込んでいる高本の顔が視界に入った。

暗室に入っていたため、しっかりと顔が見えたわけではないけれど、たぶんそういう顔をしていただろう。


「もう出していいころじゃない?」


高本の声に蝶子はもう一度自分の手元を見て、写真の水洗という作業中だったことを忘れ、慌てふためいた。

慌てて取り出そうとすれば、高本の手が蝶子の手を止めて落ち着かせてくれる。


「ゆっくりでいいから」


「す、すいません」


申し訳なさそうに蝶子がそう呟きながら落ち着きを取り戻しながら作業を再開すれば、高本は安堵したように蝶子を見つめた。


「どうしたの?何か考え事?」


バットに入れた水から取り出した写真を専用の洗濯ばさみのようなものにぶら下げながら蝶子は高本の問いに答えられずにいる。

実際考え事をしていたのだけれど、それを言ってしまえば高本はきっとその考え事の内容を追求してくるだろう。

プライベートにそれほど口うるさい人ではないけれど、もしものことがあれば蝶子は自分の性格上、言葉を詰まらせ嘘をつけなくなってしまうと自分自身でよく理解していたので何も言わないようにした。

そんな蝶子の態度を不信がることもなく、高本は蝶子の隣でそれを手伝った。


ようやくすべての写真を乾燥させるためにぶら下げ、片づけをはじめれば、高本は先に暗室から出て行く。

それを横目で見送って、蝶子は静かにため息をついた。

あれから一度も十五に会わないまま放課後になった。

栞と要がずっと一緒だったため、メールのチェックも行っていない。

トイレなどで一人になった時に行えばよいのだが、蝶子はそこまで頭が回らなかった。

携帯を友人二人に見せたものなら、それをどうしたのかと問い詰めてくるだろうし、使い方がわかっていない時点で二人に見せるのは非常に危険だ。

メールなどで先生との関係がバレてしまっても困る。

二人に先生とのことを話そうか酷く悩んでいたけれど、結局話せないままだ。

蝶子自身、断ることをまだ諦めてはおらず、断ってしまえばなかったことになる。

それをわざわざ二人に教える必要もないだろうと考え、とにかく今は自分ひとりで解決しなければという気持ちでいっぱいだった。


片付けを終え、蝶子は暗室から出てきた。

高本は自分の撮影したネガをチェックしているようで、蝶子が出てきても振り返りもしない。

写真部で毎日部活に出てきているのは高本と蝶子の二人だけだった。

神高では三人から同好会を設立することが許され、五人で部活と認定される。

蝶子の所属する写真部は部活と認定されるギリギリの五人で構成されているが、後の三人は幽霊部員でほとんど部活には現れない。

決して悪い人たちではないのだけれど、一人は理数科で勉強重視のため、とりあえず部活に所属しておけばいいという内申目的の所属者だ。

あとの二人は写真は好きだけれど、蝶子や高本ほど熱を入れて写真に取り組んでいるわけではなく、時々自分たちのデジカメで物を撮影して月に一度の品評会に顔を出す程度だった。


「さっきはすいませんでした」


背を向けたままの高本に、蝶子は静かに詫びを入れる。

高本はようやく蝶子が暗室から出てきたことを知ったのか、ふと振り返って笑みを漏らした。


「別に大丈夫だよ。うまく現像できてよかったよ。仕上げ終わったらまた見せて」


「はい」


高本の優しい気遣いに、蝶子はほっと胸をなでおろし、笑顔でそう答える。

蝶子の反応を見て、高本も釣られるように笑えば、途端思い出したように蝶子にたずねた。


「そういえば真知子さん、今はどんなお仕事されてるの?」


「今はブラジルに。昨日、日本を発ったみたいです」


「期間はどれくらい?」


「一ヶ月ほどだと……」


蝶子がそう答えれば、高本は「そうか」とポツリともらしながら窓の外を見てキラキラと目を輝かせた。


真知子というのは蝶子の母の名前だ。

高本は以前から真知子の大ファンだそうで、蝶子が娘だと知ったときは狂喜狂乱した。

真知子の出した写真集をすべて揃えているほどの熱狂振りで、母が家にいるとき、高本を何度か食事に誘ったこともある。

実際は高本が蝶子に真知子に会わせてほしいと拝み倒して実現したものだが、蝶子自身それを嫌だと感じたことはなかった。


高校に入学してから、一番近くで写真に接している高本を見てきた蝶子には彼の気持ちがよくわかる。

自分も同じように母を写真家として尊敬し、自分の母であることを自慢に思う。

母の真知子も自分を尊敬してくれている高本を家族のように扱い、高本もそれに自然に溶け込むようになっている。

高本は写真においては何よりの理解者で、蝶子をよく助けてくれていた第二の保護者のような存在だった。


それは決して真知子の娘だからという扱いではない。

同じ写真が好きだという気持ちを高本は強く大切にしている。

高本の微笑ましい眼差しは、窓の外から再び蝶子に移った。


「じゃあ今田さん、今は一人で?」


「ええ、そうなんです」


苦笑いを浮かべながらそう答えれば、高本は少しだけ考え込むように黙ってしまった。

窓の外はすでに薄暗く、時刻は六時半を指していた。

どうやら現像するのに時間をかけすぎたらしい。

高本は蝶子の家の事情もちゃんと知っている。

それを踏まえたうえで、高本は蝶子に提案を持ちかけた。


「今日は俺が送っていこうか?」


「え?あ、いえ、そんな、申し訳ないですよ。第一、高本先輩、家が反対方向じゃないですか」


「それもそうだけど、やっぱり女の子一人、夜道を歩かせるのは真知子さん心配するでしょう?」


「で……でも……」


「ついでによかったら真知子さんの秘蔵写真見せてよ?」


ニッと笑顔を向ける高本を見て、蝶子は耐えられずにプッと噴出した。


「やだ高本先輩、本当はそっちが目的なんじゃないですか?」


「ははっ、バレたか。けど今田さんのことももちろん心配だよ。何かあったら真知子さんが悲しむ」


「高本先輩、本当、お母さんに恋してるみたい」


クスクスと笑う蝶子の綺麗な笑い声に、高本は肯定も否定もせずに同じように微笑んだ。


結局、蝶子は高本の好意に甘えることにした。

夜道を一人で歩くにはやはり人通りの多い道を歩いていても恐ろしいし、何より一人であの家でご飯を食べるのが億劫だ。

蝶子は高本にご飯を食べていってもらおうと考えながら玄関で靴を履き替えていた。


「蝶子さん」


ふと、声をかけられ何の疑いもなくそちらを向けば、十五がそこに立っていたことに驚いた。

とても悲しそうな顔をして、美しい切れ目が蝶子の姿を捕らえている。

蝶子は靴を履くことを忘れ、唖然と十五を見つめれば、十五はゆっくりと蝶子に歩み寄った。


「今田?遅いぞ、何やって……」


ふと、玄関側からそういいながら高本が顔を覗かせてきた。

蝶子の傍に十五が居るのを見つけると、言葉を切り驚いた表情を浮かべる。

十五も突然の高本の登場に驚いた様子で、けれどすぐに冷たい視線を蝶子と高本に交互に向けた。


しまった……見つかってしまった。


急に全身の血の気が引いたように蝶子は足がすくんで動けなくなる。

この場に居たたまれなくなって、逃げ出したい衝動を必死に抑えて下をうつむいたときだった。


「どうしたんですか黒澤先生?」


驚いていた高本が十五に対し何気なくそう尋ねた。

十五が蝶子のことを名前で呼んだことは聞いていなかったらしい。

とりあえずそのことだけにほっとため息をばれないように漏らせば、十五はふと高本を見て言った。


「こんな時間まで残っている生徒が居るとは思っていなくて。部活動ですか?」


「はい、俺たち写真部なんですけど、現像に時間がかかっちゃって。今一緒に帰るところです。な、今田」


何の悪意もなく高本が蝶子に同意を求めた。

蝶子はぐっと下唇をかみ締め、恐る恐る十五を見る。

十五は冷たい視線を蝶子に向け、それから高本に向き直った。


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