明るい未来の方へ
はらはらと、静かに涙を流す蝶子を見て、十五は苦笑いを浮かべた。
向かい合ってソファの隣に座る蝶子の頬を、十五の不器用な指先が優しく触れる。
そっと涙を拭っても、やむことのない涙の雨に、十五は自分の指を濡らした。
「すまない……」
沈黙に耐えかねたように、十五が小さくつぶやけば。
蝶子は首をゆるゆると横に振りながら十五の差しだしていた手を両手で握りしめた。
「先生が……十五さんが謝ることじゃありません……。……私の方こそ……ごめんなさい」
「なぜ君が謝る?」
困ったように十五が尋ねれば、蝶子はうつむき、十五の手を握りしめたまま、それを自分の口元へ運んだ。
「……何て言えばいいのかわからないことが……」
その言葉を最後に、また蝶子は涙を流し始めた。
涙の理由は自分でもわからなかった。
辛い過去を思い出し、無理に聞き出してしまった自分の浅はかな行動に対するものなのか。
それとも辛い過去に共感して流れ出したものなのか。
それでもひとつだけ確かなものがあった。
彼が、十五がありのままを話してくれた喜び。
自分を必要とし、頼ってくれたことが何より嬉しかったのだ。
けれどその気持ちを素直に表現する言葉が蝶子にはわからなかった。
もどかしくて、苦しくて、息も詰まる思い。
言いたいことはたくさんある。
十五にかけるべき言葉だってたくさんあるはずなのに、どれをとってもその場しのぎで、価値のある言葉をその中から選ぶ術を、蝶子は知らなかった。
「大切に……していらしたんですね……彼女のことを……」
「……なぜ……そんな考えが出てくるのかわからないんだが……。君は不思議な子だね」
ようやく出した答えに、十五は納得がいかないようで小さくため息混じりの笑みを漏らす。
そんな十五の態度に顔をあげ、蝶子はまっすぐに十五を見つめて凛とした声で言った。
「十五さんは、彼女が大切だったんです。だから、彼女を、彼女の近くで見守り続けたんです。憎んでも、憎んでも、結局は本心から逃げられずに。本心を隠して……だから傍にいたんです」
「違う……俺はそんなつもりじゃ……」
「逃げないでください」
蝶子のピシャリと言い放った言葉に、十五は驚きの表情を見せた。
けれど、蝶子があまりにもまっすぐに、まるで自分を見透かすような眸で見つめてくるものだから、十五は耐えられずに顔を背ける。
そうすれば、十五の手を握りしめていた蝶子の両手がそれを解放し、そのまま十五の頬を包み込むように添えられたかと思えば、無理矢理自分の方を向けさせられてしまった。
「そらさないでください。逃げないでください。貴方が好きだと言ってくれた私です。似ていても、似ていなくても、私なんです。……私から逃げないでください」
脆く、儚い……そう思っていた少女が逞しく見えた。
いや、違う……。
脆くて儚いのは自分だった。
過去に囚われ、自分を見失い、別の誰かを恨むことで自分の犯した罪を許してきた、そんな弱い自分から逃げ続けてきた。
そうでもしなければ自分はもっと自分でいなくなっていただろう。
不思議だった。
どれだけ悔やんでも悔やんでも許せることのなかった、あの女との出会いが、少しだけよかったと思えている自分がいた。
後悔しても後悔しても、報われることなどないと思っていた。
ずっと、後悔して生き続けていくものだと思っていたのに……。
千鶴との出会いがなければ、目の前にいる少女には出会えなかった。
きっと、出会っていたとしても恋に落ちることなどなかっただろう。
心許せる相手が、傍にいる心地よさが身にしみた。
頬から伝わる蝶子の体温が、温もりが、言葉に出来ない愛しさを思わせる。
目を細め、慈しむような眸を向けてくる十五に対し、蝶子は柔らかな笑みを漏らし額を寄せた。
「許してあげてください」
「……彼女……を?」
「いいえ……ご自分を……」
目を閉じ、額をすりよせる蝶子を見つめながら、十五は次の言葉を待つ。
「もう、十分苦しんだでしょう?貴方は人のために自分を犠牲に出来る、優しい人なんです。もう……一人で傷つかないでください……。傍にいますから……私が、ずっと居ますから……。私では不満でしょうか?」
最後の問いに、十五はそんなことあるはずがないと言いたかった。
けれど間近で開かれた蝶子の眸に息を呑み……。
「幸せになりましょうね……。ちゃんと二人で、幸せになる方法を見つけていきましょう。明るい方へ……明るい未来の方へ……。二人で歩いていきましょう」
優しい蝶子の声に、柔らかな笑みに、十五は小さく頷いて。
触れるだけの唇が、こんなに幸せだと思わなかった。
優しさに、愛に、抱擁されるように。
十五は静かに蝶子を抱き寄せ、胸中で誓った。
この子を幸せにしよう。
この子と幸せになろう。
そしてやっと
自分を許せるときが来る。
明るい方へ
明るい未来の方へ
二人で手を取り合って
歩いていこう
―*―
そわそわと落ち着かない蝶子に対し、出されたコーヒーを優雅に飲んでいる十五が、なんだか恨ましく思えた。
膝の上で握り拳を作りながら、蝶子は思わず隣に座る十五を睨めば、十五はキョトンとした眸を向けてくる。
「どうかしたか?」
「な……なんでそんなに余裕なんですか?」
「緊張してるさ」
「そんな風には全然見えませんよ」
「見せないようにしてるだけだ」
ケロリとそう言ってのける十五に、蝶子は思わずうぅっとうなる。
この状況でかれこれ30分は待っている。
最初にここへ訪れた時よりは、幾分か緊張も失われていたが、待たされる時間が長ければ長くなるほど焦りが生まれる。
第一、自分には似つかわしくない場所に居ると思うだけで失神しそうなのに……。
十五がようやく自分の過去を話してくれてから丸一日が経過した。
あの後、蝶子は荒れ果てた十五のリビングの片付けを始め、二日酔い気味だった十五の看病に専念した。
結局あのまま十五のマンションにまた泊まる羽目になったのだが、前のように体を重ねることはなかった。
そのようなことをしなくとも、今は傍にいるだけで心が満たされ、微かに触れ合うだけで幸せな気持ちになったからだ。
決して暗いことばかりではなかった十五の昔話を聞いて、二人で笑っては語り合って。
そして十五の決意に、蝶子はつきあうことになり、今現在の状況に至るのだが。
十五が彼女、千鶴に会い、すべての真実を打ち明けると決めた。
それはそれで喜ばしく、大きな進展だったのだが、重大なことを忘れていたのは蝶子の方だった。
獅子堂千鶴と言えば、日本の経済界におけるトップの存在。
つまりは雲の上のお人なのだ。
十五がどういった経緯で彼女に会えるようアポイントメントをとったのかは分からないが、十五に連れられここに来てからようやくそのことに気がついた。
豪邸という言葉では物足りない、まさにそびえ立つ城のような獅子堂財閥本家。
現代風の作りになっているものの、メイドやら執事やらが本気で居る家に訪れるのは生まれて初めてだ。
入り口に立っただけで冷や汗を流していた蝶子に対し、十五は意気揚々と中へ入っていった時は驚いたのだが。
すっかり忘れていたが、彼もまた、財閥の御曹司だったのだ。
本家を見ただけで足下が竦んでしまった蝶子が、苦し紛れに「大きなお屋敷ですね」と十五に言えば、十五は「俺の実家より少し大きいくらいかな」と抜かしやがったことには心底腹が立ったが。
何はともあれ、屋敷の一室に通された蝶子達は、屋敷の主をひたすら待ち続けていたということだ。
精神的疲労もピークにさしかかったころ、今まで静かだった部屋の中に、ドアの開く音が響いた。
「……待たせて済まない」
凛とした低めの女の人の声が聞こえた。
十五の背がピンッと張り、しかしながら振り返ることの出来ない様子に、蝶子はそっと十五の手を握りしめる。
微かに震える十五の手に、蝶子が盗み見るように十五を見つめれば、十五は怯えたような表情のまま固まっていた。
きっと、緊張を通り越した恐怖が十五を支配し始めている。
蝶子が自分の存在を知らしめるよう、十五の手を力強く握りしめれば。
ようやくハッとした表情で、十五と蝶子の視線がかち合った。
“大丈夫”
蝶子の視線がそう告げた。
そうすれば十五はちゃんと理解したように目を細め、蝶子の手を握り返して静かに立ち上がる。
手を握られた蝶子も、つられるように立ち上がれば、ゆっくりと振り返ってその人物を見つめた。
黒く艶のあるストレートの髪が優しく揺れる。
切れ目の美しい漆黒の瞳。
薄手の黒いタートルネックの長袖にジーンズという、お金持ちらしからぬ庶民的な服装。
赤い半透明の太めのフレームが印象的な眼鏡。
その出で立ちからは、それほどすごい人のようには思えないが、確かに見る人によっては美人の部類に入る人だった。
ごくっ……と生唾を飲む音が頭に響いた。
覚悟はしていた。
していたはずなのに、なんだか酷く落胆し、自分が惨めに思えてたまらない。
この人に自分が似ているだなんて失礼すぎると蝶子は思ったのだ。
メディアに顔を出さないことで有名な彼女は、たとえメディアに取り上げられても古ぼけた幼い頃の写真が精一杯だ。
だからこそ。
目の前にいる人が放つオーラのようなものに、蝶子は押しつぶされそうになっていた。
逃げ出したい気持ちが全身を駆けめぐる。
けれど自分が逃げるわけにはいかない。
戦うのは自分ではなく十五なのだから。
支えていこうと決めたのに、支える自分が逃げ出しては意味がない。
繋がれたままの手が汗ばむような感覚。
それが自分の手なのか、十五の手なのかは分からないけれど、互いに緊張しているのはよくわかる。
ただ呆然と、震える足に力を込めながら千鶴を見つめれば。
千鶴は目を細めながら十五を見つめた。
「久しぶりだな……」
その声に、十五はまっすぐに蝶子を見返して震える声で答える。
「……お久し……ぶりです……」
十五の言葉に、千鶴がホッとしたように笑みを漏らした。
とたん、十五は目を見開き、驚きの様子で千鶴を見つめる。
何か今の挨拶の中で、驚くことがあっただろうかと十五と千鶴を交互に見つめれば。
蝶子の気持ちを察したように、千鶴は困ったように微笑みながら蝶子に尋ねた。
「……今田蝶子さん?」
「は、はいっ」
「健吾から話は聞いたよ。ここに来たということは、コイツとそういう関係だと解釈してもかまわないかな?」
一瞬、何のことかと不思議に思ったが、健吾の存在がいったいどういう存在かを再確認した途端、顔を蒼白させた。
忘れていたわけではないが、認識が甘すぎた。
自分と十五は生徒と先生の関係であり、付き合っているという事実は決して表沙汰にしてはならないことだ。
それが千鶴にバレたとなれば当然、夫である健吾にもバレている。
学校にバレたら、皆にバレたら、十五と一緒に居られなくなる。
それだけはどうしても避けたい。
全身を巡る恐怖と不安に押しつぶされそうになって、蝶子が震える唇を開こうとした時だった。
「怯えなくていい。バラすとか、これをネタに脅すとか、そんなことをする必要は私にはないからな」
「あ……」
「ただ知りたいだけだ。コイツを……支えてくれている人の存在をね」
そう穏やかに笑む千鶴の姿に、蝶子はホッとして十五を見つめる。
けれど十五は相変わらず驚きと戸惑いが入り交じった表情で千鶴を見つめて。
きゅっと唇を噛みしめたかと思うと、睨むように言った。
「…………んで……」
「……十五さん?」
「何で笑ってるんですか…………あんなに……ピクリとも笑わなかったじゃないですか……。一度も……一度だって……笑ってくれなかっ…………」
苦痛に歪む十五の顔が脳裏に焼き付いた。
悔しいわけではないのだと思う。
苦しいのか、怯えてるのか、そのどれでもないようで、それが全てであるような感情。
複雑すぎるそれを理解することはできなかった。
きっと知ろうとすれば難しいものになってくるはずだ。
怖い……。
人の感情がこれほどに歪む様を、目の当たりにした蝶子はブルッと体を震わせた。
「……十五」
刹那、千鶴の唇が十五の名を刻んだ。
慈しみと哀れみの含むその声に、十五の全身が素直に反応を見せる。
ゆっくりと歩み寄ってきた千鶴に、身動きのできない十五と蝶子は、ただひたすらに彼女がここへたどり着くのを待った。
「……十五」
千鶴がもう一度、十五の名前を呼んだ。
スッと伸ばされた千鶴の手が、指先が、十五の頬ギリギリをかすめる。
「……るな……」
十五の呟きに千鶴の動きが止まったかと思えば、十五は怯えた目を千鶴に向けた。
「触るなっ!」
一瞬だった。
蝶子の手から十五の温もりが消えたかと思えば、十五は千鶴を押し倒すと馬乗りになって彼女の首を絞めた。
狂ったように殺そうとする十五に、蝶子は勢いよく駆け寄りはがそうとする。
けれど適うはずもなく、ギリギリと締め付ける十五の手は休むこと知らずに責め立てる。
千鶴は抵抗することもなく、息の詰まる瞬間を表情に浮かべる。
どれだけ引き剥がそうとしても、どれだけ十五を叩いても、離れることなく、我を失ったように首を絞め続ける十五の姿に怯えた。
「やだぁっ!やめっ!十五さん!!離して!!死んじゃ……死んじゃうよぉ!!いやぁあぁっ!!」
怖い
ただそれだけだった。
バキッと鈍い音がして、十五の体が吹っ飛んだ。
途端、解放された千鶴は涙目になりながらむせ、取り戻すように荒い息を吐く。
自分を抱き寄せる男性の胸元のシャツをワシ掴みしながら、ただひたすら何かを訴えるように首を横に振る。
「悪い、入ってくるなって言われても無理。愛してる人が殺されそうになるのを黙って見てられるほど俺は大人じゃねぇよ」
そういって床に転がりながらも、上半身を起こして殴られた頬を押さえている十五に、蝶子は泣きながら駆け寄る。
「バカッ!何でっ?!たとえ状況反射だとしてもやっていいことと悪いことの差ぐらい分かるでしょう?!どうしてっ……」
「いいんだ!」
十五を責める蝶子の言葉を遮ったのは千鶴だった。
信じられないといった表情を浮かべた、自分を支えてくれている夫、健吾に対し、千鶴は自分の首を押さえながら十五を見る。
「……いいんだ。ソイツには私を殺す権利がある」
「千鶴!」
窘める健吾の言葉にすら、耳を貸そうとせずに首を横に振る千鶴に、蝶子はカッとなって怒鳴り散らした。
「殺すだとか殺されるだとかそんな権利を簡単に語らないでください!誰もそんな権利はもってないわ!生きてる限り生きなきゃいけないでしょう!勝手に私の大切な人を人殺しにしないで!」
はぁはぁと息を荒げる蝶子に、そこに居た三人は呆然とする。
外見でおとなしい部類と判断していた部分もあったらしく、その悲痛の叫びは確かに三人の心に届いた。
時間が止まったように動かなかった三人の中で、ようやく先に反応を見せたのは健吾だった。
支えていた千鶴を横抱きにして立ち上がれば、千鶴は「ぎゃっ」と品のない声をあげる。
「俺もその意見賛成。それにさ、二人の過去だろうが、俺たちの知らないところで盛り上がってずるくない?どうせなら当事者にしちゃってよ。本当にお互いが殺し殺されの権利があるなら、俺もそれ見極めたいし」
そういって千鶴を抱き抱えたまま、十五達が先ほど座っていたリクライニングソファに、向かい合って設置されていた同じものに千鶴を座らせると、健吾は千鶴の頭を撫でて優しい声で言った。
「先に死ぬなんて許さないから。誰かの手で千鶴が殺されるくらいなら、俺が殺してやる」
「けん……ご……」
「千鶴知らないでしょう?俺は殺したいほど千鶴を愛してるよ」
健吾の言葉に、千鶴が息を呑んだのがわかった。
おどけた様な優しい言葉だっだけれど、その眼差しは真剣で、彼が本気だということを理解させてくれる。
人を殺したいほど愛するという気持ちが理解できないでもなかった。
けれどその言葉を聴いたときに思い浮かんだのは、先ほど十五が起こした行動で。
きっと殺したいほど憎いのではない。
殺したいほど大切で、解放を望んでいるんだ。
互いに、本当に解放されるときを望んでいる。
なんて不器用な人たちなんだろう。
そんな物騒な言葉を使ってでしか、互いの気持ちを理解できないだなんて不器用すぎる。
悶える気持ちが、言葉にならない感情が胸に溢れ、言葉を詰まらせる。
喉の奥で何かが詰まっているような感覚と、それを溶かして出てくるような涙。
千鶴と健吾、二人の絆が恐ろしいほどうらやましいと思えた。
「ごめん……」
背後から抱き寄せてくるぬくもりに、蝶子は驚きのあまりに涙を引っ込める。
自分の失態を見せてしまったことへの謝罪なのか、それとも蝶子を心配させたことに対する謝罪なのか。
どれにしろ、十五が元に戻ってくれた事への安心感が背中の温もりを理解させた。
「もう……二度としないでください」
「わかった……」
「許しませんから……」
「うん……」
蝶子の肩に顔をうずめていた十五は、それからゆっくりと顔をあげ、蝶子を背後から抱きしめたまま千鶴に、健吾に、二人に向かって静かに言った。
「これから話す真実を……。生きて受けてとめてください」




