震える背中
一睡も出来ないまま朝を迎えた。
静かな自室で一人、蝶子はベッドの上で膝を抱え、昨日起きた出来事を何度も頭の中で繰り返していた。
無駄なことだと理解できても納得がいかない。
十五は確かに彼女を恨んでいると言っていたが、果たしてそれが真実なのだろうか?
獅子堂千鶴の生い立ちは、彼女が獅子堂財閥を継ぐときに大きくメディアで取り上げられていたのを覚えている。
一年も前のことなのに、未だに覚えているのはそれほど衝撃的なものだったのだ。
千鶴の母親が駆け落ち同然で獅子堂財閥を捨て、二人の子を出産。
しかしながら、お嬢様育ちでワガママだった母親は、一般家庭に馴染めず、夫と二人の子をアッサリと捨て実家に舞い戻った。
優美な暮らしを再び手にしたのもつかの間、母親は交通事故で他界。
一方、取り残された夫と二人の子にも、その身勝手な振る舞いをした母親の影響を受けていた。
一人の子は留学し独立。
残された子は父親に性的虐待を受けるようになった。
母親の身代わりにされ、体を求められ、軟禁され、それはひどい仕打ちだったという。
そうした事実が発覚したのは、その子が父親の子を身ごもったという、信じられない出来事があったからだ。
父親は逮捕、残された子は当時担任の教師であり、姉の恋人であった男に保護されたという。
本来施設に送られてもおかしくないだろう、精神不安定のその子と婚姻関係を結んでまで保護した彼の行動も不審な点が多かったが、周囲は黙認していたそうだ。
そして最悪の結末を迎える。
留置所からでた父親が担任教師を殺害。
後、自分の命を絶ったのだ。
その一連の顛末に関係していた子こそ、獅子堂千鶴、その人だという。
その報道は当時、日本経済の中枢である獅子堂財閥を脅かすものになるのではないかと噂されていた。
当然批判するものが相次ぎ、財閥の前総帥である千鶴の祖父が判断を誤ったとひどい仕打ちだった。
しかしそんな話に感動のエピソードが付け加えられていた。
彼女の現在の夫である笹木健吾。
彼との愛を貫くために彼女が選んだ道がそれだった。
今の今まで、自分が獅子堂家の血を受け継いでいると知っていたのに、それに頼ることなく生きてきた。
笹木健吾をSASAKIコーポレーションの御曹司であるとは知らずに恋におち、身分違いとして引き離され、それでも彼を愛するが故に獅子堂財閥に赴いたのだという。
彼女の経営能力は、すでに身内に公認されるほどすばらしいものだった。
彼女が若くして獅子堂財閥総帥の地位についたのは、それ相応の努力もあったのだ。
だからこそ敵わないと思った。
これほど印象に残る出来事を巻き起こした、日本の頂点に立つ彼女だからこそ敵わないと。
何一つ敵うものなんかありはしない。
張り合うこと自体間違っている。
似ていると言われても実際彼女を見たことがないからわからない。
けれど、彼女の夫である笹木健吾がそういったのだから間違いないだろう。
蝶子は抱えた膝をぎゅっと自分のもとに引き寄せた。
これ以上自分が小さくなって消えることはなくとも、無意識にしてしまった行動だ。
消えてしまいたいだなんてそんなのは嘘だ。
十五の横で、十五の幸せを望む存在でありたいと願う。
ちっぽけでどうしようもない自分が出来ることは何だろうと思った。
けれど結局結論が出ないまま朝を向かえ、電源の切ってある携帯電話を見つめていて。
球技大会が終わって、まだ電源を入れていた時には十五から何度も電話があった。
けれど出ることが出来ず、臆病な自分を認めるかのように電源を切ったのだ。
真実を聞かされて、自分は本当に耐えられるだろうか。
どれが真実なのかもわからないまま逃げ出している自分の臆病さに心底腹が立つ。
それでも十五を信じたい気持ちは変わらない。
きっと誰よりも自分のことを思ってくれている。
窓から入ってくる、冷たい太陽の光に身を震わせ、蝶子は静かに目を閉じる。
自分にできること。
自分がしたいことをしよう。
ようやくたどり着いた答えに、蝶子は眠い頭を震わせて、ベッドから立ち上がると静かに準備を始めた。
―*―
身支度を済ませた蝶子は十五のマンションを訪れた。
何度チャイムを鳴らしても、家の主は蝶子を招きいれることなく、冷たい鉄の扉がまるで蝶子を歓迎しないかのように口を閉ざしている。
出かけたのだろうかと小さなカバンの中を漁って携帯電話の姿を探したが、どうやら電源を切ったまま置いてきてしまったらしい。
ここで待つしかないのだろうかと蝶子が無意識にドアノブに手を掛けると、今まで頑なとして口を閉ざしていたドアがあっさりと開いた。
小さく息を呑みながら、蝶子はおずおずと中を覗き込む。
「……先生?」
呟くように尋ねてみるも返事はなく、寝ているのだろうかと思考を張り巡らせる。
不法侵入だろうかと一瞬と惑ったものの、どうしても今会わなければ、持ち合わせてきた勇気が失われてしまう気がして、蝶子はゆっくりと足を進めた。
玄関に入った瞬間、異様な匂いに蝶子は顔をゆがめた。
その匂いの元が何なのかを悟ったが、まさかと思い蝶子は靴を脱いでリビングへと進んでいく。
外れて欲しいと思っていた事実に直面した蝶子は、言葉を失い、そこに居た家の主の姿に愕然とした。
空になったワイン瓶や酒の缶がいくつもそこに転がっている中で、いつも整えられている服装もシワシワになって、髪すらクシの通っていないその荒れた姿をした十五が寝転んでいる。
ガラステーブルの上には吸殻でいっぱいになった灰皿があり、そこに入りきらなかった灰がガラステーブルを汚している。
何が起こったのか、どういう状況なのかはすぐに理解できた。
床に散らばったそれをうまく避けながら十五に歩み寄れば、十五は眼鏡をかけていない、虚ろな眸で蝶子を見上げる。
「先生……」
「……何……しに来た……」
「貴方に会いに……」
「帰れ」
冷たい十五の呟きが、蝶子をぐっと黙らせた。
けれど蝶子はそれに臆することなく、寝転んだままの十五を見つめると、十五は失笑してゆっくりと上半身を起こした。
「……散々電話を無視した挙句……別れ話は直接じゃないと気がすまないわけか……。とんだお嬢様だな」
「そんなこと……」
まさか彼は蝶子が別れ話をしにここにやって来たのだと思っているとは思いもしなかった。
電源を切っていたのは確かに自分が悪い。
けれど別れる気持ちなどまったく持ち合わせていなかった蝶子には、十五の言葉が酷く胸に突き刺さった。
「出て行け」
「……行きません」
「このまま俺に襲われたいか?」
「貴方がそうしたいなら」
蝶子がそう口にした瞬間、十五は酷く歪んだ形相を浮かべ、蝶子をその場に押し倒した。
力任せに押し倒されたものだから、背中を強く打ち、蝶子が顔をゆがめる。
けれどそんな蝶子に侘びを入れることなく、十五は強引に蝶子に口付けた。
「ぐっ……んっ……」
荒々しい口付けに、息をする間もなく、蝶子はただひたすらそれを振りほどこうとするも身動きが取れない。
侵入してくる舌に、触れる唇に、酔いしれながらも、酸素の足りないせいで頭がボーっとしてくる。
苦しくてもがいても、十五は唇を離すことはない。
追い縋る様に、求め続けてくる十五の唇を、これ以上拒否することができなった。
ようやく。
ゆっくりと十五が唇を離した。
足りなかった酸素を補給するように、荒い息を上げる蝶子を悲しげな眸で見つめながら、十五は自分の唇をかみ締める。
自分のしたことに対して、すぐに後悔の念が彼を襲ったらしく、十五は蝶子から離れると、静かに立ち上がり背を向けた。
「これ以上……傍に寄るな……もういいから……君を解放するから……」
十五の背中がかすかに震えた。
蝶子は寝ていないせいもあって、重い体をゆっくりと起こすと、十五の背後に静かに立つ。
解放するだなんて間違っている。
別れるといわれるよりも遥かに辛い言葉だというのを、彼自身は自覚しているのだろうか?
それはきっと自分の言葉じゃないかとすら思うのだ。
彼を解放したら、彼は彼女の元に行くだろうか?
いや……きっとまた一人になって、彼は自分を見失うだろう。
そんなことはさせない。
そんなこと、させたくなんかない。
自分が要らないと言われるまで、この人の傍に居たいというのは、たとえ我儘であっても貫きたい想いだ。
ゆっくりと。
その震える背中に手を当てれば、ビクッと震えた十五の体を、蝶子は後ろからギュッと抱きしめた。
「一人で居る事に……慣れないでください……。寂しさを紛らわせるために誰かを求めるなら、私を求めてください……。貴方には私が居るでしょう?」
「……っ!……もう無理だ……君が……君を……離せなくなる……」
「離さないで。傍に居させて……。それが私の幸せなの」
蝶子がハッキリとそう言えば。
十五はゆっくりと振り返る。
あふれ出す涙をぬぐうことなく蝶子を真正面から抱きしめる。
小さく聞こえる嗚咽に、蝶子はゆっくりと十五の背に手を回して。
優しく、なだめる様に、彼の頭を静かに撫でた。
「十五さん……貴方には私が居るわ……。大丈夫よ……」
子供をあやすような言葉を自分で漏らしておきながら、蝶子は自然と涙が零れたことに気づかなかった。
あふれ出す涙が語る。
好きです
好きです
貴方だけが全てです
言葉にならぬ想いが、感情が、涙に形を変えて出てくる。
そして
十五が語りだした真実に
蝶子は耳を傾けた。




