勘違いと後悔と
バタバタと白衣をなびかせながら廊下を走る十五の姿は、誰がどうみても異様なものだった。
いつもは冷静沈着で慌てることを知らないのではないかと思わせるくらいの男だ。
誰もが驚いて振り返るに決まっている。
ところが当の本人はよほど急いでいるのか、周りの雰囲気などものともせずに、一目散に走っている。
どこへ向かっているのか、何があるのか、と彼の行く先に興味はあるが、もうそろそろ一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴るため、追うことはない。
いったい、彼がなぜ走っているのかが分からないまま、生徒達はもやもやとした気持ちで教室へと入っていった。
いつもはほとんど近寄ることのない職員室に、行った時のことだ。
今日が週始めというのもあって、朝から職員朝礼があるために嫌々足を運んでいた。
十五に色目を使ってくるのは何も生徒達ばかりではない。
社会に出ることもなく限られた出会いの中で、意中の相手をなかなか見つけられずに年と教師としてのキャリアのみを重ねてきた女性教師達が、香水の匂いをぷんぷんと漂わせて近寄ってくる。
それにひどい嫌気が指すのも無理はない。
生物準備室が日常生活に適した場所とは言い難いが、鼻のもげそうになる香水の匂いを嗅ぎながらよりは数百倍マシだ。
とにかく学校では一人きりになることに徹底していた十五にも、避けられない状況があるというのはお分かり頂けただろう。
職員室に十五の姿を見つけた途端、我先にと女性教師達が数人争うように十五の元へと歩み寄る。
様々な香水の匂いが入り交じり、十五の鼻を掠めたかと思えば、十五は無表情から少しだけ眉をひそめた。
女性教師達は次々に十五に質問を投げかけるが、当の本人は顔をしかめるだけで返答しない。
休日はどうやって過ごしていたのか、週の始まりだというの言うのに週末飲みに行かないか等々、自分を十五の視界に入れてもらおうと必死になっている。
彼女たちが結婚出来ない理由は、こういう間違ったアプローチの仕方にあるのではないかと思ってしまう。
まあ、自分の蝶子に対するアプローチの仕方も正しいとは言い難いが、こんなに争うように言わなくとも……とさえ思ってしまう。
結局のところ、どうでもよかったりするのだが、他の男性教師から恨めしい視線を向けられているのも結構うざったい気持ちになって、十五は誰にも悟られぬよう、小さくため息をもらした時だった。
職員室のドアが慌ただしく開いたかと思えば、何となく見覚えのあるその生徒の出現に、周りの教師達は教師らしい面もちを取り戻して……。
いや、ある意味邪魔をされた……と、気分を害した気むずかしい顔をしてその生徒を睨んだ。
もうすぐ朝礼が始まる時間だ。
この時間帯の生徒の訪問は、邪魔以外の何でもない。
けれど十五だけは救いの神のような存在の生徒に歩み寄り、職員室訪問の理由を尋ねた。
「どうかしましたか?」
無表情のまま十五が尋ねると、その女子生徒は一瞬戸惑いの色を見せ、職員室の中に視線を泳がすと、目的の人が居なかったらしく、すぐに目の前に立つ十五に尋ねる。
「保健室の安達先生は……?」
「安達先生は研修の為に不在ですが」
確かそうだったはずだと、十五は自分自身に確認しながらそう言えば、生徒は困ったような顔をして十五を見上げた。
「あの……先輩が……階段から足を踏み外して落ちてしまって……。今、私の友人が付き添って保健室へ向かったんですが先生が不在でしたので……」
彼女の落ち着いた雰囲気から、その階段から落ちた先輩とやらは大事に至ってないらしい。
けれど怪我人をそのまま放っておくわけにもいかないと、十五が口を開きかければ、先ほどから十五の周囲にいた女性教師の一人が、生徒を睨むようにして言った。
「今から朝礼が始まるから、それが終わったらすぐに向かうから、貴方は先に教室に戻りなさい」
「でも先輩……足を引きずって……」
「だから後から……」
生徒の一大事だというのに、生徒を後回しにしようとする女性教師の態度が気に食わず、十五は静かに振り返り睨んだ。
その視線に、女性教師が押し黙ってしまったのを確認すると、十五はすぐに女子生徒に振り返って静かに言う。
「私が行きましょう。先生、あとで朝礼の伝達事項を教えていただいて構いませんか?」
あえて反感を買わぬよう、どちらともフォローを入れながらそう言えば、睨まれた女性教師はまた十五に話しかけるきっかけが出来たと素直に喜び頷いた。
それを見ていた女子生徒は、少しだけ納得いかないような浮かない表情をしたが、十五はあえてそれに気づかぬ振りをして話しかけた。
「それで、貴方と貴方の友人と、それから階段から落ちてしまった先輩の名前は?ご自分で、担任の先生に授業に遅れることを報告しておいて頂きたいのですが」
「タカチ……じゃなかったわ……高本先輩です。デザイン科二年の高本先輩」
十五の質問に、女子生徒が素直に答えれば。
ようやく階段から落ちた生徒が自分の実弟と知り、十五はひどく驚きの色を見せた。
途端、居ても立ってもいられなくなり、十五は慌ただしく職員室を飛び出した。
突然の十五の行動に、他の教師や女子生徒は驚きの表情を浮かべたが、すぐに自分たちのやるべき事に頭を切り替えて、それぞれの行動に移ったのだった。
普段は平凡を装っている茅だが、本来は人よりも優れた運動神経を持ち合わせている。
面倒なことや目立つことが嫌いな為、無駄な労力は使わぬ主義だ。
それは兄弟である十五はよく知っていることだし、だからこそ彼がただの間抜けで階段から落ちてしまうだなんて考えられない。
そうすれば何か事件か事故に巻き込まれた可能性が高くなる。
そして職員室に来た女子生徒。
今更思い出したが、彼女は確か蝶子と行動を共にしていたクラスメイトだ。
どこかで見たことがあると思っていたが、蝶子以外の人間にはとことん興味がなかった。
彼女を思い出すのに時間を要した原因はそういうことになる。
自分が焦りながら走る姿に、周囲の生徒達は驚きの表情を浮かべるも、考え込みながら走っていたため見えてなどいない。
むしろ、茅が怪我をしたのは自分のせいのような気がしてならないのは、たぶん蝶子に茅との関係を話した時の会話があるからだ。
黒澤財閥の息子でありながら、とことん平凡を追求し、恋沙汰などには無頓着に思えていた茅も、どうやら恋い焦がれる相手が居るらしい。
しかも蝶子の友人という話だ。
確か彼女の親しい友人はもう一人居たはず……。
勘違い……というので有り得る話だと十五は内心、茅に何度も謝りながら、保健室へと急いだ。
保健室のドアを開けた途端、どう茅に謝りを入れ、蝶子の友人にどう言い訳をしようかと、無表情ながら内心緊張していた十五は、その異様な雰囲気に肩すかしを食らった気分になった。
椅子に腰掛けながら、見たこともないほど不機嫌で膨れた顔をしている茅の左足は素足で。
赤く晴れ上がる踝の部分に、蝶子がしゃがみ込んで氷水の入った氷嚢を当てている姿が目に入る。
第三者が保健室へ入ってきたことに反応し、蝶子は氷嚢をあてがいながら振り返ると、十五の姿を見た途端、かなり呆れた表情を浮かべていた。
そんな蝶子の態度に、十五は少しだけ困った顔をすれば、蝶子は視線を別の方向へ向ける。
蝶子の視線の先に居たのは、たぶん彼女の友人だ。
仁王立ちしながらも茅と同じ表情を浮かべて、納得いかないように茅を睨み続けている。
十五はなんとなく現状がどういった感じなのかを読みとりながら、再び茅に視線を向け、視界に飛び込んできた情報により、自分の考えが的中したことを悟った。
先ほどは足ばかりに気を取られていた為、ろくに見ていなかったが、茅の右頬にくっきりと赤い手形が残っていたのだ。
これは完璧に……と、自分の悪い予感が100%的中したことを察して、十五は茅と蝶子に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
とりあえずそう話しかければ、茅は十五を見ないまま吐き捨てるように言う。
「大丈夫なように見えたなら先生の目は節穴だっ」
悪魔でも十五を先生と呼び、しかしながら口調は兄弟としての十五に向けられたもので……。
十五が肩をすくめて居れば、今まで黙っていた蝶子の友人、栞がようやく口を開いて暴言を吐き捨てた。
「タカチが悪いんでしょう!」
「だから、それはお前の勘違いだって言ってるだろう!」
「勘違い?!何が勘違いなんだよ!蝶子を弄んだ挙げ句、髪を切っちゃうほど酷い振り方して!まだ蝶子に甘えるつもり?!蝶子も蝶子だ!そんな男ほっとけよ!」
「栞ちゃん……だからそれは誤解で……」
「そうやってタカチを庇っても何の得にもなりゃしない!もうやめときなよ蝶子!」
「……そういうことですか」
ぎゃんぎゃんと喚くことを止めない栞の言葉を聞いて、十五はようやく彼女がどういう風に勘違いしていたのかを悟る。
そりゃあ、週末前まで長かった髪がこんなにバッサリと切ってきたなら、よほどの気分転換か、それとも失恋かの2択しか彼女の中にはないらしい。
蝶子が何の前触れもなく気分転換で髪を切るような性格をしていないとわかっているから、自然と失恋の条件が当てはまってしまったようだ。
十五は額に手を当てて、並んでこちらを見つめる茅と蝶子を見ると、素直に謝罪した。
「その……すみません」
「まったくだよ!」
十五の謝罪に、茅が間髪入れずにそう言えば、栞は納得いかないように茅を睨む。
「何で黒澤先生が謝るのよ!謝るならタカチでしょ!」
「いえ、私が悪いんです」
怒りの収まらない栞に、十五が素早くその発言を否定する。
栞はそんな十五の態度に理解できないといったような驚きの表情を浮かべていれば、自分も……と蝶子が口を開いた。
「私も悪かったんです。栞ちゃんにちゃんと説明していなかったから、結果的に高本先輩を巻き込んでしまって」
「それは否定しないけどね。髪を切った原因は明らかに先生にあるわけだし」
蝶子が申し訳なさそうに言えば、茅は膨れ面のままそう言って十五を睨む。
話が通じている三人に対し、一人だけ置いてけぼりを食らっていると悟った栞は、自分なりに冷静になりながら眉間に皺を寄せた。
「何?どういうこと?何で黒澤先生が関係してくるの?訳わかんない」
自分だけが分からない状況に、イライラを募らせる栞に対し、蝶子は少しだけ緊張しながら栞に告げた。
「黒澤先生なの」
「は?何が?」
「だからね……私が……その……お付き合いしている方……黒澤先生なの」
意を決して蝶子がそう言えば、栞は一瞬ポカンとした表情を浮かべて蝶子を凝視する。
が、次の瞬間には弾けたように馬鹿笑いして栞は腹を抱えた。
「やだ、もー蝶子にしては面白い冗談だわ。いくらタカチとの関係をうやむやにしたいからって黒澤先生を巻き込むだなんて」
そう言いながらケラケラと笑い続ける栞を、三人はただただ呆れた表情で見つめる。
どうしてもこの真実は受け入れ難いらしく、彼女は自分の中で、それを冗談として処理してしまったらしい。
先ほどまでの怒りをあっさり裏切り、笑いの止まらない栞を見つめていた十五が、小さくため息を漏らして、自分の隣に立つ蝶子を横目で見た。
「論より証拠、百聞は一見にしかず……ってところですかね」
「えっ?あ……んっ…………」
十五の漏らした言葉に蝶子が反応して顔を上げた瞬間、その唇を自分の同じ物で塞いだ。
途端、栞の笑い声はピタリと止み、十五の突然の行為に目を皿のように丸くした。
一方の茅は、ピューっと軽く口笛を吹いて茶化せば、栞は開いた口が塞がらずに金魚のようにぱくぱくさせた。
「ちょっ……十五さん!」
蝶子が慌てて十五の胸元を押し返せば、十五の体はすんなりと蝶子から離れた。
顔を赤く染めながら蝶子が十五を睨めば、十五は無表情のまま放心状態の栞に振り返り、静かに尋ねた。
「これで信じていただけましたか?」
サラリと恐ろしい真実を告げた十五の言葉に、栞はストップしていた思考をフル回転させる。
よろよろとよろめきながら、保険医用のディスクに寄りかかると、ようやく現実に戻ってきた栞の意識は、考える間もなく叫び声に変わった。
「うそでしょおぉぉおぉっ!」
悶絶に近い様子で栞が叫べば、茅はようやく自分への誤解が解けたと呆れたため息をつきながら栞に言う。
「だから何度も説明してるじゃん。俺は蝶子ちゃんと付き合ってなんかないって」
「だ……だだだだって!入部テストの時に蝶子に悪さした相手にめちゃくちゃ怒ったのって?!」
「人が苦労して撮った写真をめちゃくちゃにしたんだ。それが蝶子ちゃんの写真でなくても俺は怒るよ」
「じゃ……じゃあ!蝶子のこと大切にするって言ったのは?!」
「部活の後輩としてって意味で聞かれたんだとばかり思って答えたよ」
「はぁ?!えっ?!ちょ……い、いつからよ!いつから付き合い始めたのよ?!」
淡々と真実を告げていく茅から、蝶子に視線を向けなおした栞の形相は、それはもう必死というか、現状を理解しようと躍起になっているようにも見受けられる。
蝶子は少しだけ戸惑いながらも十五を横目でチラリと見ると、すぐに栞に視線を戻して答えた。
「い……一週間前……」
「一週間?!」
つい最近のことじゃないか、と、栞が驚きの表情を浮かべたまま十五を見つめれば。
十五は涼しい顔……というか、いつもの無表情のままハッキリと言った。
「私が彼女にずっと片思いをしていたんです。告白をしたのは丁度一週間前の放課後。たまたま彼女が第一校舎に来ていたのを見つけて勢いで……」
「か……片思い?!黒澤先生が?!蝶子に?!」
栞の遠慮なしの言葉に、蝶子は内心ハラハラとし始めた。
まだまだ聞きたいことが山ほどあるだろうが、ここは保健室で、いつ誰が来るかはわからない。
そんな状況を省みずに叫び狂う栞の声を誰かが聞いていたりなんかしていたら、十五との関係がバレてしまう。
どちらかが学校から居なくなるという状況は避けたい蝶子にとって、現状が段々と悪い方向へ向かっていった時だった。
「中本、聞かれちゃヤバい話なんだから声のトーン落としなよ。親友が学校からいなくなるなんてことは避けたいだろう?」
蝶子の気持ちを察してか、茅が半ば脅しを含んでそう言えば、栞は「あっ」とようやく気づいて気まずそうに口を閉ざす。
茅の発言に感謝しつつホッとした蝶子だったが、十五だけはしかめた顔をして保健室のドアに歩み寄り、ガラリとドアを開いた。
「……手遅れですね」
十五がガックリうなだれながらそう言った。
ドアの向こうには何となく呆然としている要の姿、そして顔を蒼白させているアルの姿があったのだ。
それには保健室にいた誰もが驚き落胆した。
要にはいずれまた話すことにはなっただろうが、アルに関してはその予定はまったくない。
この状況をどう切り抜ければいいのか猛スピードで思考を回転させる蝶子達の怪訝な態度をみて、アルは泣きそうになりながら胸元で両手を握りしめた。
「す……すんまそんっ!ごめんクサイ!き、聞くつもりはなかったんやヨ!」
「あ……いえ、その……」
「すんまそん!すんまそん!」
アルはまるで自分が悪かったように謝りながら近くにあったパイプイスを持ち出すと、ツカツカと十五に歩み寄りそれを差しだした。
「忘れますから殴ってクサイ!」
「そんなもので殴ったら忘れるどころか死にます」
「お、落ち着いてくださいアル先輩!」
「誰だよ……殴ったら記憶飛ぶとかいう嘘教えたの」
「荒川先輩じゃないかしら?」
「わかりやすい……」
パニックになるアルを取り巻き、そんな会話が繰り広げられる。
いつになったらこの騒ぎが収まるのだろうかと蝶子が心配していると、栞がアルを落ち着かせるように話しかけた。
「アル先輩はどうしてここに?」
栞の言葉に、アルは暴走をやめて目尻に涙を浮かべながらキョトンとした表情で栞を見つめる。
言われた意味が理解できなかったのだろうかと栞がもう一度……と口を開きかけた時、保健室のドアを閉めながらアルの代わりに要が答えた。
「タカチ先輩の鞄を持ってきていただいたのよ。保健室の先生がお休みなら、ちゃんと病院へ行って見てもらった方がよろしいかと思って。タカチ先輩、足を痛めていらっしゃるし、アル先輩に肩を貸していただけるようお願いしたの」
淡々と答える要の言葉にようやく納得し、栞は再びアルを見る。
アルはようやく自分の暴走に終止符を打てたようで、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべながらパイプイスを元に戻した。
「それでは私が車を出しましょうか。幸い、今日の午前は授業がありませんし」
とりあえず今の状況からぬけだそうと、十五が提案するも、茅は怪訝めいた表情で首を横に振る。
「俺、今日スクーターで来ちゃったんだ。遅刻しそうになって慌ててたから。学校に置いていけないよ」
「何でまた今日に限って……」
茅のカミングアウトに、十五は額に手を当てため息を漏らす。
茅も茅で、本来ならこんなはずじゃなかったとブツブツ文句を言いながら口元に手を当てた。
この学校は通学手段にそれほど厳しくはない。
生徒が自分があり得るパターンでの通学方法を入学してからすぐに申請しておけば、どんな方法で通学しても構わないことになっている。
茅も普段は徒歩での通学だが、スクーターの申請もしてあったらしく、しかしながら蝶子にとっては初耳のことだった。
「僕、いらんかった?」
アルがしゅんとした表情でそう言ったものだから、茅は慌てて顔を上げてフォローを入れる。
「違う違う。アルは悪くないから。悪いのは……」
そう漏らした茅の言葉に、一瞬なんだ?と首を傾げたが、あまりにもニンマリと意地の悪い茅の笑みがそちらに向けられ、誰もがハッとして恐る恐る栞を見る。
茅に企みある笑みを向けられた栞は、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、蒼白した顔色を浮かべていた。
「……悪いのは、自分勝手に早とちりした挙げ句、人のことひっぱたいて階段から落とし、そして未だに謝罪された記憶がない誰かさんだよ」
ズバズバと今までの流れを簡潔に話し出した茅の言葉に、栞は「うっ……」と声を詰まらせる。
茅は栞が好きなはずなのに、どうしてそんな酷いことを言うのだろうかと、蝶子がハラハラしていると。
十五が静かに蝶子に歩み寄り、小さくため息をついた。
「勝負に出ましたね……」
「え?え?どういうことですか?」
「……怪我の功名ってわかります?」
「それはわかりますけど……」
一体何が言いたいのだろうかと蝶子が首をひねっていれば。
「わ……悪かったわよ」
「週末の球技大会、どうしようかな。俺サッカーなのに」
「う……だ、だから私が悪かったって言ってるじゃない!」
「人に怪我させといて逆ギレ?そんなことで済ませるつもりなの?」
「そ……そんなこと言ったって……ち、治療費はもちろん負担させてもらう!」
「金で解決できる問題じゃないなぁ。この様子だと全治一週間は掛かりそうだし、その間の生活にも影響が……」
「なっ!回りくどいわよ!言いたいことがあるなら言いなさい!」
「じゃあ足治るまで下僕」
「……へ?」
「当然でしょ?俺、一人暮らしだし不便で仕方がないに決まってる。誰かの手助けが必要になるし、それは加害者であるお前がやるべきことだと思うけど?」
何の躊躇もなく淡々と言ってのける茅の言葉に、栞は顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。
信じられない!とでも言いたげな栞の様子に、茅はくすくすと笑いながら栞を挑発した。
「それとも中本家のお嬢様のプライドがあるから出来ないかな?中本って何も出来なさそうだもんね」
「あ!あああんたっ!私をバカにし過ぎてない?!」
「俺は思ったことを言ったまでだけど?」
「あーそうかい!やってやろうじゃんよ!」
短絡的な思考しか持ち合わせていない栞は見事に挑発に乗った。
その発言を聞いた途端、茅はニンマリとほくそ笑み、静かな声で言った。
「じゃあ怪我が治るまで、俺の命令は絶対ね?もちろん、で・き・る・よ・ね?」
撤回の猶予を与えない茅の態度に、栞はとうとう自分が犯した最大の失態を自覚した。
たぶん今更になってかなり後悔していると思う。
ことの発端は自分に原因があるとはわかっていながら、茅が何を企んでいるかようやく理解できた蝶子は、心の中で何度も栞に謝罪した。
「じゃあ俺病院行くわ。中本、ついてきて」
「は?わ、私が?」
「当然だろう。スクーター乗って帰らなきゃいけないし、幸いに捻ったのは利き足とは逆だ。けどどんな時に俺が転んで事故っちゃうかわからないからね」
茅がそう言って姿勢を正せば、アルは茅の鞄を抱えながら慌てて茅に駆け寄った。
隣に来てくれたアルの力を借りて、ようやく立ち上がった茅は、鞄を受け取りながら栞を促した。
「早く用意してこいよ」
「あ、う……はい……」
逆らうことの出来ない状況に、栞が頷けば、要も先に授業へ戻ることを蝶子に告げて栞と並んで保健室を出る。
アルも心配そうにしていたが、先ほど聞いたことは他言無用という茅の言葉に必死に頷きながら保健室を出ていく。
保健室に残された茅と蝶子、それに十五の三人は、一瞬気まずい雰囲気に飲み込まれたが、茅がそれを破った。
「さて、俺は行くね」
そう言って鞄の中からたくさんの鍵がついたキーケースを取り出した茅に、蝶子は恐る恐る話しかける。
「本当にすいませんでした……私のせいで……」
「そんなこと思ってないから謝る必要なんてないよ。むしろ今は感謝してるし」
「か……感謝?」
訳が分からないといった表情を浮かべれば、十五がため息をつきながら、片足を浮かせたまま立つ茅に言う。
「あんまりいじめないで差し上げてくださいね」
「どうかな?俺は好きな子ほどいじめたくなるタイプだから約束は出来ないね」
茅の遠慮ない言葉に、蝶子は不安がるものの、十五は呆れた様子で茅を見つめる。
そんな二人の態度を見て、茅はニィッと笑うと自信ありげに言ってのけた。
「一週間」
「え?」
「一週間でオトしてみせるよ」
そう言ってキーケースを手の中でクルクル回しながらひょこひょこと足を引きずって、保健室を出ていく茅の後ろ姿に、蝶子は唖然とした表情を浮かべた。
「……えっと、今更なんですが、高本先輩と十五さんが血縁者だということを思い知らされた気がします」
「……アレと一緒にしないでくださいよ……。茅は兄弟の中である意味一番厄介な奴なんですから……」
「栞ちゃん、大丈夫でしょうか?」
「……たぶん、タダでは済まないでしょうね」
あっけらかんと言った十五の言葉に、蝶子がギョッとすれば。
十五は困ったような笑みを浮かべて言ったのだった。
「手先でクルクルと物を回すクセ。あれは黒澤家共通の本気を出した時のクセなんです」
「ほ……本気?」
「たぶん、茅は一週間で彼女を自分に振り向かせる気でいますよ」
十五の言葉はにわかに信じがたいものがあったが、いつも穏便で優しい面しか見たことがなかった茅の変わりようを見ていれば、信じざるを得ない蝶子だった。
―*―
「は?」
職員室に戻った十五は、たった今聞かされた情報に耳を疑った。
職員室に来た蝶子の親友(名前はまだ知らない)を追い払った女性教師が嬉しそうな笑みを浮かべながら同じことを、今度は肉付けしながら繰り返し十五に伝えた。
「球技大会はクラス対抗戦なのはすでにご存じですよね?」
「はい」
「三年生の部では我々職員でもチームを作って参加することになっているんです。黒澤先生はバスケになりましたわ」
「ちょ……待ってください。そんな勝手に……」
「でも校長がお決めになったことですから」
女性教師はそう言いながら頬を赤く染めた。
この学校では校長命令は絶対だ。
それは他校でも同じことだが、ここの校長は少し人並みから外れたことをよく言ってのける。
当初、ここに赴任してきたばかりの時には、いきなり歓迎会で仮装で参加しろという命令をいただいてかなり躊躇した。
何を馬鹿げたことを……と、最初は相手にもせず、スーツのまま会場の居酒屋へ向かった時には泣きそうになった。
本気で全員仮装していたからだ。
いくら貸しきり状態とはいえ、あの風景はすさまじいものだった。
参加することさえ嫌だったのに、自分の歓迎会だから仕方なく出向いた。
ふつうの格好をしてきた十五は、まるで自分が悪いかのように白い目で見られ、挙げ句の果てに身ぐるみをはがされて強制的に女装させられたのは今でもトラウマだ。
とにかく校長の命令に逆らったら、それでこそ酷い目に遭うと学習していた十五だったが、球技大会に参加なんて冗談じゃないと頭を抱えた。
「私、バレーになったんですけど、試合が終わったら応援に行きますわね」
「いえ、私は出ませんよ」
「あら、校長命令に逆らうおつもり?やめた方がよくてよ?」
「……直談判に行ってきます」
女性教師の忠告を無視し、十五は早足で職員室と隣接する校長室のドアをノックする。
中から返事が聞こえたのを確認して入っていけば、応接用のソファに仰向けになって寝ころんでいるその人の姿を見つけた。
「布団が吹っ飛んだ!」
「……校長」
「あれ?黒ちん笑わない?面白くなかった?」
この……くだらなすぎる定番のオヤジギャグを言った本人こそがこの学校の校長だ。
女のくせに発言に恥がなくまるでオヤジそのもので。
いつもパンツスーツにサングラスというフザケた格好はすでに見慣れている。
が、この校長なくしてこの学校は成り立たない。
校長本人が自由奔放だからこそ、生徒が自由な姿勢で学校生活を満喫し、それらの生徒から多くの支持を集めているのは確かだ。
……自称変人だが。
「つくねは体力つくねー!」
「……面白味が全くありませんが」
「ちっ……黒ちんを笑わせるのにはまだまだ修行が足りんな……」
なんの修行だ。なんの。
自分のオヤジギャグがウケなかったことがよほど不思議らしく、佐倉校長は口元でブツブツといいながら起きあがると、寝癖のついた短い髪を直しもせずにこちらを向く。
「で?何用じゃ?苦しゅうないぞ。近こう寄れ」
「何時代の方ですか?」
十五が思わず無表情なままツッコミを入れれば、佐倉校長はケタケタと愉快そうに笑う。
それに不愉快さを感じながら十五はムスッとした表情を浮かべ、校長にはっきりと言った。
「球技大会のお話ですが、私は辞退させていただきます」
「何で?黒ちん最近運動してる?運動不足は体に毒だぜぃ」
「貴方に言われてもね」
「聞き流し~♪で、却下」
「なぜです?」
「そんなもん、面白そうだからに決まってんだろ」
あっけらかんとそう言った佐倉校長に対し、十五は唖然とした表情を浮かべる。
それを見ていた佐倉校長は、テーブルにあった扇子を手に取り、それを広げて口元を隠しながらニンマリと笑った。
「いつもは見られぬ黒澤先生のスポーツをしている姿……。女性教員のみならず女子生徒たちまでその勇姿に甘いため息を漏らす……そして……バトル!黒ちんを目当てに女同士の凄まじい争いが球技大会に嵐を呼び!愛を呼び!そして男共は黒ちんに嫉妬!燃える!燃えるぜ球技大会!ふははははっ!」
「本気で楽しんでるじゃないですか」
妄想冷めやらぬ変人こと佐倉校長の発言に、呆れを通り越して何とも複雑な感覚にとらわれる。
そして何より、こんな人の相手をしている自分がばからしく思えてきて。
十五はため息を吐きながらまだ高笑いを続ける校長を後目に、自分の意志尊重を断念して校長室を後にする。
パタン……とドアが閉まった瞬間、佐倉校長はピタリと笑うのをやめて、パチンッと扇子を閉じて企みある笑みを浮かべた。
「よろしいのですか?」
突然聞こえてきた第三者の声に、校長は驚くこともなくソファにもたれ掛かりながらクスクスと笑う。
十五が居た時には存在しなかった若い男の姿が、佐倉校長の背後にあった。
「よろしいに決まってるだろう。楽しくなければ意味がないしな」
そう言って楽しそうに笑みを漏らす校長に、若い男……佐倉校長の私用秘書である柚里が呆れたように再び尋ねた。
「そうではなく……バスケには“あの人”も出るんですよ……?今まで直接、黒澤先生と関係することはありませんでしたが……もし“あの人”が黒澤先生を“そう”だと気づけば……貴方だってどうなるかお分かりでしょう?」
心配そうに尋ねてくる柚里の言葉に、校長はクツクツと愉快そうに口元に笑みを浮かべる。
それから背後に立つ柚里に視線だけを向けて静かに言った。
「黒澤は綺麗だよなぁ……僕はね柚里。アイツの酷く醜く歪む顔が見たいんだ。きっと残酷すぎるほど美しいだろう。そう思わないかい?」
「……いくら教師とは言え、彼のプライベートに……過去に関わるようなことは如何かと思いますが」
「そうだね。関係ないよ。関係ないから壊したくなる。……めちゃくちゃに……ボロボロに……ね……?」
「……悪趣味」
「なんとでも言えばいいさ。人の憎しみが争いに変わる瞬間……僕は身震いがするほどワクワクする。楽しませてもらわなきゃつまらないだろう」
そう言って歪な笑みを見せる校長に、柚里は無表情なまま呟いた。
「貴方らしい」
「惚れるなよ?」
「手遅れですよ」
「……柚ちん」
「何です?」
「アルミ缶の上にあるミカン!」
「……くだらないです。仕事してください」
「あー!柚のいけずー!」




