密室、暗闇、お約束
名残惜しそうに唇を離した十五を、蝶子の熱を帯び潤んだ瞳が捉えた。
暗闇に随分慣れたのだろう、蝶子の様子が分かったらしく、十五は小さくクスッと微笑んだのがわかる。
十五の悪戯っぽい笑みに蝶子はますます顔を赤らめて、身を捩りながら逃走を試みるも、十五は抱きしめる腕に力を込めてそれを許さなかった。
「逃がしません」
はっきりとした言葉に、蝶子の心臓がドクンッと跳ねた。
十五の言葉はどれもキザで、けれどそれが似合ってしまうあたりは憎めない。
今まで異性に特別な意識を持ったことがない蝶子にとっては、十五の言葉一つ一つが、体の熱を一気に上昇させ、その熱で火傷をしてしまうのではないかと思うくらい恥ずかしいのだ。
「センセ……恥ずかしいです……」
素直に自分の気持ちを伝えて離れてもらおうと試みるも、十五の態度は変わらない。
それどころか、無言になってしまった十五に、蝶子は不思議に思って暗闇の中に目を凝らした。
「また、先生ですか……」
「あっ……で、でも……学校……」
「二人きりの時に場所は関係ありません」
キッパリと言った十五の言葉に、蝶子は腕の中で「うぅ……」と唸る。
これ以上は無理だと蝶子が耐えかねたように目に涙を浮かべ始めたとき、十五の優しい声が聞こえた。
「離れたくないのが本心ですが、これでは蝶子さんの部活動に支障が出てしまいますね。そこで提案です」
「ま、また提案ですかっ?」
「またとは何です?ああ、失礼しました。……提案ではなく、強制です」
「きょ、強制?」
「ええ、強制です。今度の土曜日、デートをしましょう」
「……ほひ……」
「……それは肯定ですか、否定ですか?」
自分でもよく分からない、と蝶子は顔を赤くして口を閉ざした。
突然のデートの約束、しかも強制だと言うならば行くしかないのではないだろうか。
十五は強制と言いながらもちゃんと蝶子の都合を聞いてくれようとしているのだ。
分かりにくい十五の優しさに、蝶子は悩んだ。
土曜日に用事はない。
けれど一週間の天気予報では、土曜日は晴れマークになっていた。
秋も終わりに近いこの寒い季節に、半分一人暮らしをしている蝶子にとって、洗濯日和を逃すのは実に惜しい。
ようするに、洗濯物を選ぶか、十五を選ぶか……ということになるのだが。
普通ならすぐに十五を選ぶべきだが、蝶子はどうしても洗濯日和も捨てきれないでいる。
朝に洗濯物を干して出掛け、夕方頃まで帰宅できれば取り込むことも可能。
しかし予報が外れて雨が降り出したらたまらない。
頭の中でその日の予定を必死に組み立てているせいで、無言になってしまった蝶子を、十五は不思議そうに顔を近づけた。
「蝶子さん?」
呼びかけられた十五の言葉にも、考え事をしていたせいでうまく反応できない。
キョトンとしながら何か言われた気がすると、確認するために顔をあげ、小さく首を傾げれば、暗闇にまぎれて十五の顔が赤く染まるのを感じた。
「っ!……蝶子さん……それは反則です……よ?」
「え?……んっ……」
再び塞がれた唇に、蝶子は驚きから目を閉じた。
その自分の反射的な行動に、自分自身で驚きながら触れ合う唇に神経が集中していく。
苦しいほどギュッと抱きしめられ、そのせいで爪先立ちになってしまった蝶子は、完全に十五に体を預けている状態だ。
十五もまた、扉に自分の背を押し付け、蝶子の後頭部をさらに自分の方へ引き寄せて、柔らかな蝶子の唇を楽しんだ。
息も詰まるほど苦しくなる。
やっとのことで唇を少しだけ離すも先端は触れ合ったままになっている。
求めていた呼吸をようやく出来たかと思えば、十五の唇が角度を変えてまた塞いでしまう。
ドクドクと耳元に感じる自分の鼓動。
掌は十五の胸に当てられ、また十五の鼓動も蝶子と等しく暴走をしていた。
そのキスは次第に、蝶子を攻め立てるように深くなっていく。
全身がピリピリと電気を帯びたような感覚に、蝶子は次第に全身の力が抜けていくのがわかった。
「蝶子さん……抵抗してください……」
少しだけ離された唇から、十五が余裕もないように呟いては、また唇を塞いでくる。
この状況でどう抵抗すればよいのか、頭が全然回らなくなっている蝶子は十五の白衣をギュッと掴んだ。
「誘って……いるん……ですか?」
ようやく解放された唇が空気を求めれば、はぁはぁと熱のある吐息に変わる。
紅潮した頬に、潤んだ瞳、艶のある唇に、十五は順番に唇で優しく触れ、それから目を細めた。
「その顔、僕の前だけにしてくださいね?他の男には決して見せないでください」
誰がそうさせたのだ、と反抗したくなり、蝶子は呼吸を整え、ギッと十五を睨んだ。
余裕そうな表情を見せる十五に酷く腹立たしさを覚える。
「せ……先生の淫行……」
精一杯の反抗だった。
ゴンッと大きな音がしたかと思えば、十五の腕はアッサリと蝶子を解放する。
蝶子は突然の解放によろめいたが、すぐに先生を押しのけると、設備室から誰も居ないことを確認する間もなく飛び出した。
「淫行……淫行って……」
ぶつけた頭を押さえながら、十五はショックを受け、設備室からなかなか出てこなかったのは……知る由もない。
―*―
次の日は部活動へ行かなかった。
十五と学校で顔を合わせれば、きっとあの事ばかりが思い出されて平常心で居られないからだ。
とは言え、もう品評会が間近に迫っていることもあり、今日はどうしても足を運ばなければならないと思う。
そう考えいるものの、なかなか足が部室へ向かわないのは仕方のないことで。
「もぅ……先生の馬鹿……」
隠し切れないもどかしさを、誰も居ない教室の中でポツリとつぶやいてみせる。
誰も応えてくれるはずなどないのに、それが幾分かホッとさえしてしまう。
当たり前だろう。これで誰かが応えてくれるようなものなら、とんでもない騒ぎになるだろう。
まぁこの程度の呟きを聞くだけでは、ただ単純に気に食わない先生に対する悪口になるとは本人が理解していないのでよしとする。
放課後の教室でいつまでも一人でいるのは可笑しいと分かっているものの、本日何度目か分からなくなってきているため息を漏らした。
と、同時に遠くから聞こえてくる足音を察して顔をあげる。
多分こちらの教室に近づいてくる駆け足の音。
誰だろうと思って身構えていると、教室のドアを勢いよくガラリと開けたのは見慣れた人だった。
「蝶子いたー!」
「栞ちゃん?」
軽快に息を切らして飛び込んできたのは栞だった。
てっきり彼女は自分の部活動を勤しむために体育館にいるものだとばかり思っていたのに、まさか戻ってくるとは思わなかった。
確かに部活動に行きたがらない蝶子を不審そうに見つめていたものの、結局は先に自分の部活動へと向かっていたはずだったのに。
栞は教室に一人で居る蝶子を見つけた途端、息を呑んで呼吸を整え、見たこともない笑顔を向けながら歩み寄ってきた。
「蝶子聞いたよ!何で教えてくれないのっ!?」
いつにも増して元気のいい大きな声を張り上げる栞の言葉に、蝶子はただただ頭の上に疑問符を浮かべるだけで。
歩み寄ってきた栞はようやく蝶子の前にたどり着くと、満面の笑みを浮かべてとんでもないことを言い出した。
「アンタ、タカチ先輩と付き合ってるんだって!?」
「ふぇ!?」
本人すら寝耳に水な情報を突きつけられ、蝶子は唐突な声を上げた。
「いやーびっくりしたって!ウワサになってるし!私だって蝶子の親友だと思ってたのに全然教えてくれなくてさぁ!」
「あ、あの栞ちゃ……」
ウワサ?一体何のことだろうか。こっちが知りたいくらいだ。
が、なかなか口を挟むことができないほど、栞は興奮しながら続けた。
「なんか大変だったんだって?あの“氷王子”が顧問になってから入部希望者が押し寄せて?なんか作品駄目にされちゃったんだって?あ、それは残念だったね……私だったら遠慮なしにド突くのにー」
よく分からないが、先日の話がもうウワサになっていたらしい。
さすがに“氷王子”と呼ばれるだけあって、彼が関わると話の広がりようがハンパない。
蝶子はますます十五の存在に恐縮しながら、興奮冷めやらぬ栞の話に耳を傾けた。
「それをタカチ先輩が怒涛のごとく怒ったって話じゃない?もー蝶子ったらマジ愛されてるねー」
「えっ、なんで……」
そんなことになっているの? と聞きたかったけれど、それをさえぎったのは第三者の声だった。
「今田居るー? ……って、あれ?」
教室を覗き込んだのはまさに渦中の人物と言える高本だった。わざわざ蝶子達の教室に出向くのは珍しく、栞に至ってはいよいよ噂の彼氏が彼女を迎えに来たのだという構成が脳内に仕上がっているらしく、嬉々として交互に見てくる。
栞と蝶子の元に歩み寄ってきた高本は、にこやかな笑みを絶やさぬまま二人を見つめる。
「黒澤先生が様子見て来いって言うから。今日は部活来る?」
高本はあくまで淡々と事務的な要件を話している風にしか見えないのだが、栞にはどうやら違う風に見えるらしい。
にやにやと口元が緩みっぱなしの笑みを浮かべながら尋ねる。
「本当に黒澤先生が言ってたから来たの?」
「え?うん、そうだけど。まぁ、俺もちょっと心配だったし。ほら、今田って無断で部活を休むヤツじゃないからさ。昨日はどうしたのかなぁ?って」
どう考えてもそういう風に仕向けた会話になっている気がして、蝶子は「ちょっと、栞ちゃん……」と咎めようとするも、彼女はそれを照れと勘違いしているらしく「いいじゃん」と笑うだけで。
「蝶子のこと大切にしてよね」
唐突な栞の言葉に、今度は蝶子と高本が同じ反応を示した。驚きのあまり言葉を失うと言えばいいのか、高本に至っては一瞬大きく目を見開いたものの、すぐに笑って「もちろん」という。
高本の回答にますます表情を曇らせたのはほかでもない蝶子なのだが、全員が勘違いしたままの会話は栞が「それはそれは、お邪魔しました」と妙な気を遣って退場してしまったことにより、強制終了を余儀なくされたのだった。
「アイツ元気だなぁ」
「そうですね……」
全容をわかっていない高本がのほほんとした様子で笑えば、蝶子は正反対にぐったりとした表情を浮かべる。それを見た高本はまた勘違いをしたらしく「大丈夫か?」と顔を覗き込んでくる。
「昨日も休んでたけど、体調でも悪いのか? 今日も休むなら先生に伝えとくけど」
「い、いいえ。大丈夫です」
蝶子の言葉をそのまま受け取ったらしい高本は「そう?」とだけ付け加えただけで、彼女の動揺を深くは追求してこない。
それから少しだけ様子をうかがっているようだったが、蝶子がのろのろと緩やかに自分のカバンを手に取り、部活へ向かう身支度を簡単に整えると彼女は高本に「行きましょうか」とだけ告げて、それ以上は口を開かないまま並んで廊下に歩み出た。
どうにも自分が考えていることが伝わりにくい。
周囲のスピードについていけないのがそもそもの原因なのかもしれないが、それでもうまく立ち回ることができない自分が嫌になる。
隣に並んで歩く高本は、思い出したかのように「そういえば」と写真の話題を取り上げ始め、蝶子は彼の嬉しそうな声にテンポよく相槌を入れる。
実際は彼の話す内容の半分も頭に入ってこないのだが、色々と億劫なことが重なっている現状では会話を楽しむ事が出来ないのだ。
栞が耳にした噂というのはいったいどこまで広がっているものだろうか。
それがもし十五の耳に入っていようものなら、どんな反応を示されるかわからない。
彼は噂よりちゃんと自分の言葉を信じてくれるだろうか。
いつも不安ばかりが先走って思うようにいかないのがひどくもどかしい。
部室への到着を一秒でも遅くしたいがために緩やかな歩調を選んでみたものの、いささか共に歩いていた高本の歩調にいつの間にか自分が合わせていた。
それほど速くもなかったが、蝶子が思っているより少しペースの速いソレは、ますます不安を増長させる一因になっていることに自身で気づいてはいない。
どんなに抵抗しても、歩いてさえいれば目的地にはいつか到着するものだ。
目の前にある部室のドアがいつもより重厚的に思えてならなかったが、蝶子の意思を無視して高本の手によってあっさりと開かれてしまったのだが。
「あれ? 黒澤先生」
自分の前に立って先に部室へ足を踏み入れた高本の言葉に、蝶子の心臓は大きく跳ね上がった。
できれば会議か何かで不在でもよかったのにと思っていた本人が存在したからだ。
高本の影になっているせいか彼の姿を自分の目で確かめることはできなかったが、十五は確かに居るらしい。
「居てはいけませんか?」
相変わらず冷たい言葉が彼に向けられたものの、高本は「そんなこと言ってませんて」と平気そうに返す。
あの“氷王子”と呼ばれている十五とこんな風に平然と会話できる高本もまた大物だなと思いつつ、おずおずと彼の影から顔を出すと、十五は備え付けてあった備品のテーブルで書類を広げて何かを眺めているようだった。
「先生、その仕事ってここでやっていいの?」
「テストに出す問題を考えているだけですから問題ありません」
「え、それって俺ら見ていいの?」
「見てもわからないでしょうね。理数科のものなので」
「げっ、ホントだ。わけわからん」
馴れ馴れしくもちゃんと会話が成立している高本と十五を見て、蝶子は胸をなでおろす。
十五だって仮にも先生だ。
自分ばかりに構っていられないのは当然で、自分が特別だと思うのはおこがましくもある。
実際は本当に特別なのだろうけれど、普段から十五が蝶子を特別扱いしてしまえば、それでこそ彼の教師生活はあっさりと幕を閉じるだろう。
遠い――けれど、それが当たり前。
先生と生徒という関係はそれだけの隔たりがある。
何よりも忘れてはいけない現実を突き付けられたようで、蝶子は無言のまま鼻の奥がツンッとする感覚にとらわれた。
ふと、十五の顔がこちらを向いた。途端、蝶子の心臓がこれでもかと跳ね上がる。
バクバクと響く心音に、ただなすすべもなく体を硬直させて自分に突き刺さる視線に冷や汗を垂らす。
いらぬ緊張とはわかっているものの、反射的にそうなってしまうのだから仕方ない。
「例え日常的にほとんど機能していない部活でも、部活にも繁忙期はあります。その繁忙期の最中に休むのであれば、一報を入れるべきではありませんか?」
誰にでも平等な冷たい言葉が蝶子に投げかけられた。
いつもの彼であれば、蝶子を労わり心配してくれる存在であるが、今は“氷王子”の方だと悟る。
面と向かって“氷王子”である彼に会うのはこれが初めてかもしれない。
蝶子は泣きそうな感情を抑え込むようグッと唇をかみしめるも、こちらを見ていない十五には彼女の感情など伝わりはしない。
「私も毎日部室に顔を出せるわけではありませんから、人のことは言えません。私ではなくとも部長に話をしておくのが筋ではありませんか?」
「……はい」
「体調がすぐれないのであれば休むなとは言いません。連絡を怠らないことです」
「っ……、すみませんでした……」
蝶子が頭を下げれば、そのやりとりの一部始終を見ていた高本が「いいよいいよ」と笑って許してくれる。
そんな高本の様子を不服に思ったのか、十五はまた視線を高本に向けて無表情のまま蝶子と二人を見比べるように交互に視線を向けた。
「ああ、貴方達はお付き合いしているんでしたね」
唐突な十五の言葉に蝶子は血の気が引いた。
高本に至っては寝耳に水だったらしく「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げる。
仮にも教師の口から高校生同士の男女付き合いについて、こうもあっさりと指摘されるとは思わなかった。
しかも相手は自分を好いてくれていると言った相手。
想像していた最悪の事態が現実となって自分に降りかかった。
確かに連絡を怠ったのは十五が指摘した通り自分のミスだろうが、それでもいささか冷たすぎると感じたのは、彼がその噂を耳にしていたからかもしれない。
誤解される相手があまりにもマズイ。
どうにもならない感覚に思考が追い付かず、手足が冷えていくのすら実感できずにいる。
高本が十五に向けて「なんですかそれ」と笑って聞き返しているもののそれに対する返事はない。
次の瞬間、自分の苗字が叫ばれる声を遠くに聞きながら、大きく揺れた体を支え切れないまま蝶子は意識を手放した。




