椅子
トムは椅子を見て、己の目を疑った。
震える手で、ジャケットのポケットから一枚の写真を取り出し、椅子と見比べた。
「間違いない……」
おぼつかない足取りで、トムは椅子に近寄った。
トムは人生に絶望していた。
一か月前、妻が交通事故に巻き込まれて死んだからだ。
事故の原因は、ドライバーの居眠り運転だった。その事故でドライバーも死んだ。
ドライバーの遺族から、多額の慰謝料を受け取ったが、愛する妻を奪われたトムにとって、それは何の価値もなかった。
生きる意味を失ったその日から、トムの世界から色が消えた。見るものすべてが灰色に見えた。
毎日、亡き妻を思い、涙を流し、妻を奪ったドライバーを呪った。
そんな時だった。
トムの前に一人の男が現れた。彼はジョン・スミスと名乗った。
ジョン・スミスは真っ黒な中折れ帽を被り、漆黒のスーツを身に纏い、静かに佇んでいた。
帽子を目深に被っているため、表情を読み取ることはできない。ただ、口元には笑みを浮かべている。トムにとって、その姿はまるで死神のように見えた。
「貴方の願いを叶えてくれる椅子があります」
そう言って、ジョン・スミスはスーツの内ポケットから、古びた一枚の写真を取り出し、トムに手渡した。
トムは黙ってその写真を受け取る。
写真には何の変哲もない、古びた木の椅子が写っていた。
「……これは?」
「貴方の願いを叶えてくれる椅子です。貴方はいま、とても強い願いを持っている。違いますか?」
――違わない。
ジョン・スミスは、トムの心を読んでいた。
驚きと恐怖を覚えたトムは、喘ぐだけで言葉を発することができなかった。
そんなトムをよそに、ジョン・スミスは話を続ける。
「私は強い願望を持つ人間に呼ばれるのです。貴方の声は私の眠りを妨げる程、とても強固な思い。その為、本日はこの椅子のご紹介にあがった次第です。椅子を探して、貴方の願いを仰いなさい」
ジョン・スミスはそう言うと、うやうやしく帽子を取り、一礼した。
そして、もう一度スーツの内ポケットから、今度は古びた地図を取り出し、トムに手渡した。
「この地図が椅子の在処です。一週間程で辿りつけるでしょう」
「あ、あんたは一体何者なんだ? 死神か? それとも天使か?」
辛うじてトムが口を開いたとき、教会の鐘が鳴り響いた。はっとして顔を上げると、空は燃えるように赤く染まっていた。
「おっと、もうこんな時間です。長居をしすぎました。では、これにて失礼いたします」
ジョン・スミスは一方的にそう言い残すと、トムの目の前から忽然と姿を消した。
トムは手渡された写真と、地図を片手に茫然と立ち尽くした。
その晩、トムは何度も写真と地図を見比べた。まるで狐につままれたような出来事だった。ウィスキーを流し込み、落着きを取り戻そうとするが、全く酔うことができない。
そして、とうとうトムはその椅子を探すことを決意した。
椅子の在処は、何度か足を踏み入れたことのある森だった。しかし、肝心の椅子が見つからない。森の中を何日も彷徨った。
やっとの思いで、椅子を発見したのはジョン・スミスの予告通り一週間後のことだった。
トムは椅子に近寄り、涙を流しながら自分の願いを口にした。
「あのドライバーを生き返らせてくれ」
その瞬間、目の前が明るくなったと同時に、死んだはずのドライバーが椅子に座っていた。
トムはふらりと立ち上がり、ドライバーの前に移動すると、おもむろに銃を取り出した。
「よくも……私の家族を殺したな」
静寂な森の中で、パンッという乾いた音が響いた。
ドライバーは額から血を流し、絶命した。
トムはドライバーの死を確認すると、もう一度銃の引き金を引いた。
トムの体は大きく傾き、そのまま倒れて動かなくなった。
その様子をジョン・スミスは見届けていた。
「せっかくの機会でしたのに……。奥様を生き返らせるのではなく、既に死んだ憎むべき相手を生き返らせて殺すなんて。人間とはよくわからない生き物ですね」
初三人称作品でした。