ワタナベさん 終
あくる日、長沼は近日の行動を「サボり」とされて、書類の処理を一手に任され、夜分遅くにまで残業することになった。
できるだけ会社になど居たくない長沼は仕事を急いだが、全て終わらせる頃には窓の外に帳が下りていた。
下りのエレベーターに向かおうとした長沼を呼びとめたのは、清掃員の結城だった。
この女、パートの癖にこんな遅くまで居るのかと思ったが、結城は力強く長沼を休憩室に誘い、心身ともに疲弊した長沼はそれを断り切れなかった。
◆
清掃員用の休憩室は結城の私物で溢れ、飲み物を保管する目的の小さな冷蔵庫には、簡単な食材すら入っていた。
「長沼君は内地の子だったのよね」
本州から来た人間を内地人と呼ばわるのが、この地方の人間の特徴だ。
結城は小さめのホットプレートに、図々しくも持ち込んでいたパックの羊肉を入れて、即席の鍋にした。馴染みの無さそうな地方料理で気を引こうと思ったのだろうか。この女、完全に休憩室を別荘にしていた。
「こんな時間まで働いて、お腹がすいてるでしょう?私は歩いて帰るんだけど、たまにこうやって、誰もいない会社で晩酌していくのよね」
休憩室をテリトリーにして、あわよくば女郎蜘蛛のように男子社員を誘いこもうとしていることを、長沼は知っていた。
それでも心細さと空腹感が、目の前の香ばしい鍋の匂いに負かされ、長沼は小さなテーブルを結城と挟む事になった。
一気飲みが苦で無い大きさの缶ビールと、取り皿が二人分並べられ、奇妙な晩餐が始まった。
結城は延々と、返事を求めて居ないかのように好き放題にゴシップを語った。ユーモアに富んだ話題で仲を近づけようとしていたのだが、たいていの場合それは男性社員に通用しなかった。
少量のアルコールで、少しだけ体温の上がった間隔を覚えた長沼は、このまま行き遅れの結城の思う壺にはまってしまうのか、と内心焦ったが、それを払いのけて誰もいない廊下に戻っていくのが、どうしてもできなかった。
酔ったせいか、目の前の結城も日中目にするような、単なるオバさんと違うように見えた。元々年齢の解り難い人物であるが、長沼の見る結城の姿は、そら寒くなる程に現実感が無かった。結局、勢いがあれば相手が何歳でも良いのかと、長沼は自分が情けなくなった。
ままよ、と腹をくくった長沼の頭は、悪酔い無状態になっていた。結城の視線が長沼をまっすぐ見据え、その唇が三日月形に笑い、長沼は喉に唾が溜まる間隔を覚えた。
「――――ワタナベさんが気になってるんだって?」
結城の口から飛び出した言葉に、長沼の全身から熱が逃げて行った。
「隠さなくても良いわよお。この会社の話なら、なんだって私の耳に入って来るんだから」
結城はくすくすと笑いながら、具の少なくなったホットプレートを箸でかき回す。
2,3回、箸の先が円を描くと、「ワタナベさんのことが知りたいの?」と、勿体つけて囁いた。長沼は、今自分がどういう要因でどきりとしているのか解らなくなっていた。ただ、その首はゆっくりと、縦に大きく頷いた。
「大平さんの話を聞いてしまったのよね。普段なら、私が半ば見張りのようにされてるんだけれど、あの時は気分じゃなくて」
「気分じゃなかった?」
「だってそうじゃない。私、面白い話を人に教えるのが好きなの。だからね、秘密を秘密のままに守り通すっていうのは、趣味じゃないのよ」
そこまで聞いて長沼は、自分が結城に見逃された事に気付いた。
結城は長沼をわざと無視して、大平達の話を聞かせたのだ。それが気紛れによるものとはいえ、おかげで長沼は奇妙な体験をすることになった。
「ワタナベさんの事は、知らなきゃ大抵気付かないんだけれどね。あなたの場合は熱心に、ワタナベさんに会おうとしたでしょう。それに普段は怠け者だったみたいだし、ワタナベさんにも気に入られたんじゃ無いかしらね」
怠け者だから気に入られるというのが、長沼には酷く恐ろしい情報に思えた。千葉の顔が、脳裏を浮かんで消えなくなった。
「ワタナベさんってのは何なんですか」
長沼の質問は核心に迫った。もはやそれを、人間や常識的なものとは思っていなかった。
「長沼君は、内地の人なのよね」
先ほど聞いたことを、結城は改めて反復した。長沼が頷くと、結城は眼を細めて、見てきた事を深く思い出すかのような口ぶりで話し始めた。
「……開拓時代にはね、北海道は貧しい人間が多かったわ。新天地に当ての無い夢を抱いた人も、事情で内地に居られなくなった人も居たでしょう。ごちゃごちゃとした寄せ集めのような人が集まって、寒い土地に畑を開いて、村を作っていったのよね」
結城は煮えすぎた野菜を箸で拾って、ゆらゆらと横に振って見せた。
「この街も、今でこそビルが並ぶような都会になったけれど、開拓当初は単なる村に過ぎなかったわ。政府の手まわしも十分じゃないようなころ、誰もみんな貧しくて、ひもじくて、雪を食んでも生きてきたのよ」
「……まるで、実際に体験したみたいな話し方ですよね」
「人間、所詮は動物だからね。寝なきゃ生きていけないし、食べなきゃ生きていけない。勿論、もうひとつの欲も我慢してばかりじゃ居られない。娯楽が無い僻地だと、それは余計に激しかったわ。出来た子供を養えるかどうか、考えられるほど利口では無かったし。だから人は増えていったのよ」
結城の口からそういう話が語られるのは、長沼にはいやに生々しく感じられた。それが余計に、その場の空気に説得力のようなものを持たせていた。
「そういう貧しい連中も、集落を作って助け合って生きていたのね。適材適所と言うか、どんな役割でも役にさえ立てば仕事として認められたのよ。そんな時代、この会社のビルがあったこの土地には、小さな寺が建っていたわ」
長沼にとっては初耳だった。今の情景からは全く想像できない、開拓時代の北の大地。有名企業として名をはせるこの場所の、かつての姿として寺と言う文字が出てくるのは、意外だっただろう。
「勿論、まっとうな宗派じゃなくてね。元々はお医者さんの勉強をしていた人が、尼の真似事を始めたの。やっていたことは、今で言う精神科医みたいな物なのかしらね。歴史も伝統も無いけれど、拝む事で人の気持ちが楽になるならと思って、自分で寺を名乗っただけ。けれど、信仰っていうのは心を楽にするのね。その寺は村民からは受け入れられていたわ。死人を供養するフリだけでも、残された人間の気持ちは救われたのでしょうし」
宗教なんてそんなものだろう。要は心の薬のようなものだ。厳しい時代には特に、それは強く浸透していく。
長沼は未だ、話の行き先が飲み込めては居なかった。だが、寺が関わってきた事に、ぼんやりと、常識で説明のつかない何かの空気を感じ取っていた。
「けれど、拝むだけで楽にならない事もあるからね。飢えなんかはまさにそう。気持ちの上で我慢したって、腹は減るし体は痩せる。雨乞いで雨が降るなら簡単な事だけど、そんなわけはなかったし。流石に食糧を増やすなんてのは出来なかった」
それはそうだ。そんな事が出来たら、それこそ化け物の類だろう、と長沼は相槌を打った。
「せめて人々の暮らしが楽になればと思って、今で言うゴミ収集みたいな事をやってたの。いくら物が少ないとはいえ、ゴミはゴミ。腐った物を食べて体を壊す人もいたから、そういう物は危ないと、進んで処分を請け負っていったの。」
利口な人だと長沼は思ったようだ。いくら物に乏しいとはいえ、害のある物まで後生大事に持っていて、逆に被害が出る事もある。同時に、いらない物を進んで処分するというその行いには、長沼はワタナベさんの存在を思い起こした。
「そうね、生ごみの回収が主だったわ。ただ、それだけじゃなくて、別のものも引き取っていたの」
「…………別のもの、ですか」
「口減らしと言うかしらね」
長沼は耳を疑った。そういう事が昔はあった、と知識では知っていたが、この話の流れから、その言葉は嫌な予想ばかりを掻きたてた。
「考えなしに作った子供は、働けるような歳になるまでは穀潰しでしかない。養えなくなる親も大勢いたのよ。けれど親の情っていうものがある。山に捨ててくるなんて簡単に出来る物じゃない。そんな時、仏の導きならばと寺に子供を差し出す方が、幾分か気分もマシだったんでしょう」
「その子供達は、どうなったんですか」
「口減らしって言ったでしょう。養護施設みたいに子供達を一人で養えるほど、寺も裕福じゃなかったわ。けれど、引き取ってしばらくの間は、見習いの坊主みたいな扱いで教えを説いていたのよ」
「しばらくの間は……」
「そう、しばらくすると一人、また一人、子供の姿を見なくなったわ。その理由を問われたりしても、仏道に入ったんだと言う表現にしていた。村民もそれを深く追求はしなかったんでしょう。元々、口減らしなのだしね」
現代を生きる長沼にとっては、酷くショッキングな話だった。
大昔とはいえ、人間の行う事だとは受け入れがたかったのだろう。我が子を殺されると解っていて他人に預ける人間の精神など、子を持った身で無くとも理解の外にある話だった。
結城の話はそこで一たび止んだ。長沼はビールの空き缶が、水滴ではなく濡れている事を気付いた。
「ま、そういう開拓時代の弱肉強食っていうかね、ひもじい人たちの事を思うと、今の私たちは幸せよね。こんなにおいしい物を食べられる。その時代の人たちがジンギスカン鍋を口にできたのは、何年経ってからの事だったのかしら」
そう言いながら、結城は冷蔵庫から、別の肉のパックを取り出した。
「お酒もおつまみも切れちゃったわね。もうちょっと焼きましょうか?」
モツのパックを空けながら、結城はつづけた。
「私たちはちゃんと、動物のお肉でお腹いっぱいになれるんだもの」
――――ワタナベさん。
その言葉の響きが、長沼の脳内にこだましていた。
◇
長沼はほどなくして会社から姿を消した。
騒々しい男ではあったが、その事について気にする人間はすぐにいなくなった。
「こういう子を処分してくれるのは助かるよ。ああだこうだと文句を垂れそうだからな」
営業部長の大平は、長沼の営業成績を見ながら上機嫌に呟いた。
「まあ、気の毒だが仕方が無いな。現代社会は弱肉強食だ。能力の無い奴から切るしかないんだし」
白々しい男だ。
長沼が話を立ち聞きした事を知っても、彼に退職するよう勧めはしなかった癖に。怯えて自ら居なくなれば、余計なことなど話さないと思ったのだろう。最も、そんな事は先ず無いのだが。
「さてと、それじゃあクラブのヘッドでも磨こうか。接待ゴルフだって大事な仕事だからな、怠けるわけには行くまい」
大平は自分の机で、鼻歌を歌いながら樫の木の塊を磨き始める。辺りでは部署の社員たちが、細かい書類を整理したり、得意先へ電話をかけている。時折、大平のもとに書類が届くが、ちらりと目を通して適当にハンコを押し、再びゴルフクラブの手入れに戻った。
「しかし久々のゴルフだ。向こうから買いたいと言ってくる連中とのゴルフは格別だからな。日ごろの気疲れを発散してくるとするかな。はっはっは」
大平の腹は膨らんでいる。
怠け癖のついた人間特有の、香ばしい脂が乗っている。
彼には管理職としての決定権以外、重要な仕事は与えられていない。外を駆けずり回るヒラ社員たちと違って、その脂肪は膨らみ続けるばかりだ。そしてその事を悪びれる気持ちも、どうやら感じ取れない。
彼がこの場にいなければ、この部屋はもっと片付くだろう。
――――舌なめずりの音が、聞こえた。