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ワタナベさん 3

 それから長沼は、表立ってワタナベさんについて調べる事は無くなった。

 もはや下心は無くなっていたが、興味だけはむしろ大きくなっていた。

 庶務の人間は、快く資料室のカギを貸しだした。要件を言わなくても済んだあたり、セキュリティ的には問題がありそうだが、日ごろリストラ予備軍と揶揄されている連中だけに、やる気の無さが出たようだ。

 長沼の目当ては、社員名簿だった。しかしこの会社は役員以外の名前をいちいち記載した名簿が無いようで、ワタナベさんが役員で無いことは解ったが、役職の無いヒラの名前までは調べられなかったのだ。

「やけに片付いているな」

あのだらけた庶務の連中も、整理整頓は力を入れているのだろうか、資料室の中は整然としていた。おかげで長沼にとって役立ちそうな書類はすぐに見つかった。

「企画書には担当者名が書いてあるし、過去の人事異動についても記した物がある。社内ゴルフコンペの参加名簿も、まあ役には立ちそうだな」

 缶コーヒーまで持ち込んだ長沼は、それなりの時間をかけて根気よく探したが、どこにもワタナベという名前は出てこなかった。こうなって来ると、ますますおかしな話だと思う。

「まさか、うちの社員じゃないのか? 外注のリストラアドバイザーとか、そういうのが居たって可笑しくないもんな」

 そう言って長沼は本を閉じ、近くの床に無造作に置いた。そして、壁にもたれて、ぼんやりと天井へと視線を向けた。



 資料室と言うのんびりした環境に気が抜けたのか、手がすべった。

 あっ、と言った時には缶が倒れ、開いていた資料の上に毀れていった。「まずい、まずい」あわてて資料を拾い上げるが、開いて置いてあったために、思い切りページにコーヒーが染み込んでしまった。読めないという事は無いが、これでは乾かしてもヨレヨレになるし、ページが張り付いてしまうかもしれない。

「しまったなあ。これはもう使えないか」どうせ、ゴルフコンペの記録簿だ。それほど使う物でもあるまい。

 とりあえず濡れた資料は仕方ないと思い、無事だったページを使って毀れたコーヒーを拭いた。こっそり処分するしかないと、さほど悪びれもせず、コーヒーまみれのそれを一旦、床に退けて、残りの資料を汚す前にとっとと棚に戻した。



 結局、資料室での収穫はゼロ。コーヒーを思えばむしろマイナスだ。

「やれやれ、どうするかな」

 長沼は頭を掻きながら、ため息をつく。なんだか運にまで邪魔されている気がしたらしい。だいたい、これ以上仕事に関係ない事を調べていたら、それこそサボり魔扱いされてしまいそうだ。この辺で遊びは終わりにするか、と、掌が床の上をなぞった。

 ぞわ、とした冷たさが長沼の背中に走った。

 床の上に、資料は無い。

 それどころか、少しは残っていたはずのコーヒーも、空になった缶も無い。

 その日、大平の小言も耳に入れずに、長沼の帰宅は定時になった。



 トイレで鏡に向かった長沼は、脂汗をかいている自分の顔を眺めた。

 今までにも、小物が消えてなくなる事はあった。特に使いかけの消しゴムだとか、ボールペンのキャップのような、無くても致命的に困りはしない程度のものは、注意を向けることも少ないためによく無くした。

 「……でも、あんなことがあるか」

 連日、くだらない事に気を向けて疲れたのだろう、と自分を納得させることで、やっと帰路につく事が出来た。締りの悪い蛇口が起こす、しと、しと、という音が、その日は不思議と聞こえなかった。



 長沼の生活は変貌した。

 細かい変化に気を配らずに居られなくなった長沼は、自分の持ち物を逐一確認するようになった。大平はそれをマメになったと感心したようだが、長沼にとっては生易しい話では無かった。

 注意深くなった長沼がまず不気味に思ったのは、部署にあるゴミ箱の事だ。

 誰か気のきく女子社員あたりが片付けているのだろうと思っていた。しかし、注意深くゴミ箱を見守ったその日は、長沼のゴミ箱には煙草の空き箱が入ったままだった。にも関わらず、隣の席のゴミ箱は、いつのまにやら綺麗に中身が捨てられていた。

 シュレッダーの紙屑入れも、掃除する人間を見た覚えがない。長沼が見てないうちに清掃員が処理していると考えればそれまでだが、延々と詰まることなく書類を裂き続ける機械の大口は、長沼の目には今となっては不気味に映った。

「要らない物はワタナベさんに任せればいい」というセリフが、鼓膜に焼きついたように残っている。

 未だに馬鹿みたいな話だという思いはぬぐえないが、仮にこう言うものを片付けるのが「ワタナベさん」なのだとしたら、それは果たして普通の存在なのだろうか。

 そもそも、いい加減な長沼は、こんな事は今まで気にも留めなかった

 。日常的に注意深く過ごしているわけではない。要らない物が無くなった所で、それを気にする意味も無い。

 しかし、資料室での一件から、長沼の目にはそれがはっきり、不可解な現象として映っていた。ワタナベさんについて近づこうと考えたことが原因だと、長沼は認めようとできなかった。

 だが、長沼が気紛れにワタナベさんを探し始めるまでは、間違いなく平穏な日々の中に居られたのだ。

 何より、長沼の恐怖を最も煽るのは千葉の一件だ。

 大平と松代は、千葉のリストラはワタナベさんに任せたと言った。

 それが何を意味しているのか、長沼は考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。

 はたして千葉はどうなってしまったのか、長沼はそれが気になって、せめて彼に連絡を取ろうとしたが、携帯電話のアドレス帳に彼を登録しては居なかった。

 解雇された人間のためか、千葉の連絡先を控えている者もいなかった。

 そもそも、千葉が居なくなれば、オフィスに空の机が一つできているはずなのだが、そこにある机は最初からその配置でまとまっていたかのように、隙なく並べられていた。

 長沼はもはや、本当に千葉のアドレスを登録していなかったのかすら、定かには確信できなくなっていた。

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