ワタナベさん 2
次の日、長沼は大平にワタナベさんについてそれとなく聞いてみたが、その瞬間に大平は眉間に深い皺を作った。
「良いからとっとと仕事をしろ。千葉が抜けて人手も減ったんだから、解ったな!」
だったらリストラなんかするなと長沼は思ったが、大平の剣幕に委縮して、渋々と自分のデスクに戻った。
しかし、大平があまりに一方的に話を打ち切る事には違和感を覚えた。
「なるほど、リストラ担当者と社員が関わりを持てば、少なからず情も持つ。まして自分のように個人的に気に入られようとする人間も出てくるだろうしな」
そういう事を懸念しているのだと長沼は確信した。
逆に言うと、長沼が考えたように気に入られさえすれば、リストラされ難くなるかもしれないということだ。だったら尚更、ワタナベさんに会ってやらないと。決意はより硬くなるだけとなった。
リストラ担当なら人事部に居るだろうと考えた長沼は、こうしては居られないと席を立ったのだが、ふと机の上を見てみると、何やらもやっとした感覚を覚えた。
「あれ。誰か、俺の机片付けた?」
周りの席の連中は、一様に首を振った。しかし、机に置いておいたはずの革の手帳が無い。デザインが気に入って買ったが、結局中身はまっさらなままの物だ。
「別に無くなって困る物じゃないが、どこに行ったかな。おそらく鞄かどこかに入っているんだろうけど」
さほど気にもせず、長沼は廊下に出ていった。
◆
「…………どこから話を聞いたのか知らないけど、ワタナベさんは居ないよ。というか、探しても会えないんじゃないか、忙しい人だからね。用があるなら私が言伝を預かるし、無いなら帰りたまえ」
人事部へ訪ねたところ、部長の松代には、長沼が話を割り込ませられない程にまくしたてられて追い出された。
どうも部長二人は、ワタナベさんについてよほど触れられたく無いらしい。松代は最初、大平とは違って、驚いたように目を丸くしていたのも気になった。話している最中、目線がふわふわと泳いでいたのも妙だ。第一、ワタナベさんという呼び方は何だろう。さん付けで呼ぶからには、部長以上の役職だったりするのだろうか。まさか専務ではあるまい。あまり偉い相手になると、取り入ろうとするにも尻込みしてしまうし、そこまで行ったらいっそ、社長に気に入られた方が話が早くなる。だけれど、流石に、社長に直接ゴマを摺りにいくのも腰が引けてしまう。
先ほどまで揚々としていた長沼の気持ちは、そんな風に凋んでいく風に見えた。
「やっぱ、うまい話は無いのかなあ」
諦めてしまおうか、という考えもよぎったが、それよりも長沼が気になるのは、大平や松代の態度だった。
いくらなんでも、あの反応は必死すぎる。ひっかかるものはあるが、これ以上事態が進展しなさそうなので、長沼の中でこの話は忘れようかと思い始めていた。
その時、足早に近づいてくる音が聞こえた。
「君、ちょっと良いかな」
先ほど話したばかりの松代だ。長沼が退室した後、少し時間を空けて追ってきたのだ。
「ワタナベさんの話、どこで聞いた」
短く低い声に、長沼は嘘をつくのが憚られた。「大平部長と階段で話しているのを聞いて……」と、叱られた子供のように本当の事を口にした。「そうか」とだけ言うと、松代は喉に何か詰まらせたような顔で、ぼそぼそと何か呟いた。
一瞬、清掃員の結城の名前が聞こえた気がした。
そして「もうワタナベさんに関しての話はするな。誰にもするな。誰かに口に出したら、クビも視野に入ると思いなさい」と脅すだけ脅して、長沼の肩を叩いた。とても冗談には思えない態度のせいで、長沼もただただ、首を縦に振った。
念に念を入れてようやく、松代はその場から去って行ったが、残された長沼はぽかん、とするばかりだった。
「……ワタナベさんって、何なんだ?」
ワタナベさんへ抱いた希望は、完全に混乱にとってかわられた。