切り替え :約3000文字 :コメディー
午後。とあるチェーンの飲食店。昼時の混雑はすでに過ぎ、店内にはちらほらと空席が目立っていた。天井のスピーカーから穏やかなBGMが流れ、どこかのんびりとした空気が漂っていた。そんな店内の一角で、一人の男が席に座り、顔の前にメニュー表を広げていた。
料理の写真を眺めながら、時おりメニュー表をほんの少し横にずらす。視線の先には小柄な女店員の姿があった。目が合うと、彼女はにこりと笑みを向けてきた。それを受けて男も口元を緩め、小さく微笑み返した。
「すみませーん」
男が手を上げると、女店員は「はーい」と間延びした返事をして、小走りで駆け寄ってきた。
「何にするか決まった?」
「うーん、いやあ、ちょっと悩んじゃって。おすすめとかあります?」
「ふふっ、何その言葉遣い」
女店員は口元に手を添え、くすりと笑った。男も照れくさそうに笑った。
「いや、今は店員と客なんだからさ。ちゃんとやらないと」
「えー、もう」
二人は恋人同士。男は彼女のアルバイト先に足を運んだのだ。以前から一度やってみたいと思っていたことでもあり、少々気分が浮き立っていた。
声を潜めてくすくすと笑い合う二人。やがて彼女はわざとらしいほど丁寧な口調で、「こちらなどおすすめですよ」とメニュー表を指さした。そのままメニュー表の裏側にそっと指先を伸ばし、彼氏の指に触れた。
彼氏はにやりと笑った。そして二人の指が絡み合った――そのときだった。
「すみませーん」
近くの席から呼ぶ声がした。
彼女はぱっと顔を上げ、「はいはーいっ」とまだ弾んだ調子で返事をした。
「ほら、呼ばれてるからっ」
「へへっ」
彼女が軽く手を引くと、彼氏は名残惜しそうに指を離した。
彼女は「もう」と可愛らしさを意識したような声で呟き、呼ばれた席へ歩いていった。
「ご注文はお決まりですか」
先ほどまでとは打って変わった、きりっとした接客用の声。それを耳にした彼氏はその切り替えの早さに感心し、さすがだなとほくそ笑んだ。
「えっと、このセットってライス、パン、サラダ、スープのうちどれか一つを選ぶ感じなの?」
客の男がメニュー表を指さして訊ねた。
「いえ、こちらはライス、パン、パスタの中からお一つお選びいただけます。サラダとスープはセットにあらかじめ含まれております」
「あ、へー、パスタも選べるんだ。悩んじゃうな」
「ごゆっくりお決めください」
「あれ? お姉さん」
男はぐっと身を乗り出した。
「はい?」
「めちゃくちゃかわいくない?」
「え、いや、そんな……」
「いやいや、ほんとかわいいって。彼氏とかいるの?」
「えー、今はいないんですよお」
「えっ!?」
彼氏は思わず声を上げた。
「え、マジ? へえ……」
「ちょ、すみませーん!」
彼氏は慌てて席から身を乗り出し、大きく手を上げた。
「あ、では、ご注文がお決まりになりましたら、またお呼びくださいね」
彼女は小さく会釈して会話を切り上げると、彼氏の席へ戻った。
「注文決まった?」
「いや……今の何?」
彼氏は彼女を見上げて訊ねた。
「今のって?」
「今の、ナンパみたいなやつ……」
「ナンパ?」
「いや、向こうでされてただろ」
「あー……聞こえたんだ。なに、もしかして嫉妬してる? ふふふ」
「いや、驚いてる」
彼氏は唖然とした表情のまま言葉を続けた。
「彼氏いないって言ったよな。いるじゃん。しかもここに」
「あー、ふふっ、ちょっと嫉妬させようと思って」
「あー……いや、じゃあおかしくない?」
「おかしい?」
「さっき誤魔化そうとしたの変だろ。え、まさか本当におれの存在自体を忘れてた? なあ」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ」
「すみませーん」
再び先ほどの席から声が上がった。
「あ、はーい」
「お、おい。行くのかよ」
「今は店員だからっ」
彼女はそう言い残し、彼氏の席を離れて男の席へ向かった。
「はーい。何にするか決まった?」
「いやあ、まだ決まってないんだけど。お姉さん、やっぱりかわいいね。ほんとに彼氏いないの?」
「ほんとにいないんですよお」
「爪もすごく綺麗」
「えー、触ってみる?」
「いや、だから! ちょっとすみませーん!」
「あ、ちょっとごめんね」
「ううん」
彼女は小さく手を振り、彼氏の席へ戻った。
「……何? 今は彼女じゃなくて店員なんだから、独り占めしようとか考えないで」
「いや、うるさ」
「え?」
「いや、なんで嘘つくんだよ」
「嘘?」
「『ほんとにいないんですよお』ってやつ」
「ほんとにいないんですよお?」
「だから、なんでいちいち誤魔化すんだよ! さっき言ってただろうが」
「お客様。他のお客様のご迷惑になりますので大きな声はご遠慮ください」
「こわ……急に切り替えてくるじゃん」
「切り替えるも何もございません。ただいま勤務中ですので、業務と関係のないお話は控えてください。ご注文はお決まりでしょうか。まだでしたら、お決まりになってからお呼びください。当方忙しいので」
「感じ悪……それに暇だろ」
「暇……でございますか。平日の昼過ぎにだらだらと店に居座っている人が、働いている人間に向かって、『暇だろ』とおっしゃいますか」
「バイトは休みなんだよ。知ってるだろ。それに来たばかりだし」
「でしたら、ご自身のご研鑽のために時間をお使いになってはいかがでしょうか。あなた様と同世代の男性たちは、こうしている間にも知識を蓄え、体を鍛え、自分自身を磨いていることでしょう。たとえ記念日でなくとも彼女にプレゼントを一つや二つ、三つ、四つと渡せるような甲斐性のある男性を目指し、『眠いから』などという寝ぼけた理由で彼女からの電話を切り、愚痴の一つも聞いてやれないような男には成り果てないでしょうね」
「うるさ……。不満と要望を混ぜてくるなよ……」
「すみませーん」
再び男の席から声がかかった。
「はいはーい!」
「声のトーンおかしくない?」
彼女は彼氏にくるりと背を向けて、男の席へ歩み寄った。彼氏は身を乗り出し、聞き耳を立てる。
「大丈夫? なんか詰められてなかった?」
「あ、うん。ちょっとカスハラみたいな感じ」
「はあ!?」
「え……。おれ、言おうか?」
「ううん、大丈夫。ああいう人には慣れてるから。でも、本当に危なそうなときは助けてもらっちゃおうかな」
「うん、任せてよ。一応男だしさ」
「ふふっ。それで、何にするか決まったあ?」
「切り替えたんじゃねえのかよ」
「そうだなあ、決めきれないなあ……とか言って、本当は呼びたかっただけだったりして」
「もーう、ふふふ、もう、ふふ、もーう」
「いや、ちょ、すみませーん!」
再び呼ばれ、彼女は小さく息をついて、彼氏の席へ戻った。
「……はい、ご注文はお決まりでしょうか」
「いや、まだだけど」
「まだかよ」
「態度悪」
「お決まりになってからお呼びくださいねー」
「いや、向こうの男に対する態度がおかしいだろ。店員として普通に接しろよ」
「いいえ。至って普通の対応でございます。まだお決まりでないようでしたら、失礼いたします」
「いや、待てって。そんなにかっこいいのかよ」
「んー、上の中」
「じゃあ、おれは?」
「中の中」
「普通かよ。クソッ」
「はい、今ので中の下。いや、下の上!」
「付き合ってもいないのにもう強気かよ」
「すみませーん」
「はいはい、はーいっ!」
「いや、待てって! すみませーん! すみませーん! ……え、無視!?」
「何にするか決めたあ?」
「うーん、まだ」
「ふふふ、そろそろ決めてよお。何でも受け入れるから」
「言い方がおかしいだろ」
「そうだなあ。じゃあ、ハンバーグセットを一つ。ライスで。あとドリンクバーを……あ、ごめん」
「んーん。ふふっ」
ポケットの中でスマートフォンが震えたらしい。取り出して画面を見た男は、ふっと口元を緩めた。
「彼氏からだ。じゃあ、注文よろしくね。もしもしー、うふふふふっ」
男はスマートフォンを耳に当てたまま席を立ち、そのままドリンクバーのほうへ歩いていった。
彼女はその背中を見つめ、しばらく立ち尽くしたあと、静かにテーブルの上のメニュー表を片付け始めた。
「……すみませーん」
彼氏がそっと手を上げた。
「はいはーいっ。注文決まった? こっそりポテトおまけしちゃうねっ」
「いや、切り替え早っ」




