第24話
夜。
客が引き、静寂が戻った厨房で、ギルバートは明日のスープに使う鶏ガラを大鍋で煮込む。
確固たる居場所を築き上げた静かな満足感が、胸の奥底に温かく広がる。
権力や名声など必要ない。目の前の客が旨そうに食べる姿を見ることこそが、彼のすべてだった。
だが、王都の闇が完全に晴れたわけではない。
使節団が激怒して帰国したという事実は、すでに王宮を揺るがすはずだ。
クロードを追放し、実権を握った新料理長派閥。彼らが自らの失態を隠蔽するため、次なる矛先をどこへ向けるのか。
追い詰められた者たちの最後の足掻きが、静かに迫りつつある。
宿場町を包む深い闇の中、黒装束の集団が音もなく食堂へと接近する。
王宮の権威失墜を逆恨みした腐敗貴族たちが放った、腕利きの暗殺者たちだ。彼らの目的は一つ。目障りな元宮廷料理長を消し去り、すべての責任を辺境の地に葬り去ること。
冷たい殺意を隠し持ち、彼らは店の勝手口へと忍び寄る。
刃に毒を塗り、木製の扉へ手をかけようとした男の首筋に、冷たい金属が当てられた。
「……悪いが、今日の営業はもう終わったぜ」
闇の中から現れたのは、かつてギルバートの薬膳スープで味覚を取り戻した元・暗殺者だった。
驚愕に目を見開く刺客たちの背後を、今度は圧倒的な熱量が塞ぐ。赤い髪を揺らす青年——人化した炎の竜が、退屈そうに首を鳴らした。
「俺たちの飯場を荒らそうなんて、いい度胸だ。灰すら残さないでおいてやるよ」
路地裏の暗がりで、短い悲鳴すら上がる間もなく、刺客たちは次々と無力化されていく。
同じ頃、厨房ではギルバートが静かに根菜の皮を剥き続ける。
隣では、厨房の下働きに降格したクロードが、不器用な手つきで泥だらけの芋と格闘を繰り広げる。
外で微かな風切り音が鳴った気がして、ギルバートは手を止めた。
「何か、物音がしませんでしたか」
「……ただの風でしょう。それより、この芋の芽はどこまで抉ればいいのですか」
クロードが眉間に皺を寄せ、抉りすぎて一回り小さくなった芋を突き出す。ギルバートは小さく息を吐き、包丁の峰で手本を示した。
「芽の根元に刃を当て、手首を返すようにして取り除きます。深く抉りすぎれば、食べられる部分まで無駄にしてしまう」
クロードは無言で頷き、再び芋に向き直る。
店の外で繰り広げられた知られざる防衛戦は、店主の知らぬ間に完全なる勝利で幕を閉じた。
翌朝。
宿場町の平穏は、けたたましい警鐘の音によって破られた。
北の山脈から、未曾有の超大型魔物が町に向かって進行を開始したという知らせが飛び込んできたのだ。
地響きが徐々に近づき、家々の窓ガラスがビリビリと震える。町民たちがパニックに陥りかける中、食堂の扉が勢いよく開く。
「ギルバート! 一番でかい鍋に湯を沸かして、臭み消しの香草をありったけ刻んでおけ!」
赤い髪の青年がニヤリと笑い、エルフやドワーフといった常連客たちを引き連れて飛び出していく。
町の外れに姿を現したのは、小山ほどもある巨大な四つ足の魔獣だった。
分厚い装甲のような皮膚と、大木を容易くへし折る鋭い牙。未知の脅威を前に、警備隊の兵士たちすら足がすくむ。
だが、その威容が町を蹂躙することはなかった。
炎の竜が放つ業火が魔獣の視界を奪い、ドワーフの戦槌が地を揺らして脚を砕く。体勢を崩した巨体の急所を、エルフの矢が正確に射抜く。
圧倒的な連携の前に、超大型魔物は瞬く間に討伐された。
数時間後。
広場には、解体された巨大な魔物肉が山のように積まれる。
「見事な肉質ですね。これなら、町中のみんなで腹一杯食べられます」
ギルバートは腕まくりをし、愛用の包丁を握り直した。
巨大な肉の塊を前にしても、彼の動きに迷いはない。筋の入り方を見極め、的確な角度で刃を入れていく。硬い部位は煮込み用に、柔らかい部位は香草焼き用に切り分ける。
魔物の肉は特有の臭みを持つことが多いが、ギルバートは辺境特有のハーブを巧みに使いこなし、その野性味を極上の旨味へと昇華させていく。
広場の中央に設営された大鍋から、食欲をそそる香りが立ち上り始めた。
鉄板の上では、厚切りの肉が豪快な音を立てて焼かれる。
「さあ、どんどん運んでちょうだい!」
リリィが両手に皿を抱え、満面の笑みで町民たちの間を駆け回る。
町を挙げた大宴会の始まりだった。
恐怖を乗り越えた町民たちは、極上の料理に舌鼓を打ち、ジョッキを打ち鳴らして勝利と豊穣を祝う。
辺境の結束と活気は、かつてないほどの高まりを見せる。
宴が終わり、夜の帳が下りた厨房。
祭りの後の静けさの中、クロードが一人、調理台に向かう。
彼は農家から買い取った規格外の不格好な野菜を水桶に沈め、宴で余った魔物肉の端材をまな板に広げた。
「……やってみるか」
クロードは小さく呟き、包丁を手に取った。
王宮時代、彼は見た目の華やかさと高価な香辛料ばかりを重視し、食材の真の持ち味を無視し続けた。その結果が、味覚障害の蔓延と自身の追放だ。
辺境の食堂で下働きを始めてからも、失敗ばかりを繰り返す。
だが、今日の宴で町民たちが心底旨そうに笑う姿を見て、彼の中で何かが確実に変わり始める。
不格好な野菜の泥を丁寧に洗い落とし、皮を剥く。
形がいびつな分、火の通りが均一になるよう切り方を工夫する。
魔物肉の端材は、筋を叩いて柔らかくし、野菜とともに鍋へ投入する。
派手な香辛料は使わない。食材が本来持っている甘みと旨味を引き出すため、火加減を細かく調整しながら、じっくりと煮込んでいく。
灰汁をこまめにすくい取り、スープが澄んでいくのを見守る。
数時間後。
厨房の入り口で腕を組むギルバートの前に、湯気を立てる小鉢が差し出された。
「……味見を、お願いできますか」
クロードの声には、かつての傲慢さは微塵もなかった。
ギルバートは無言で匙を受け取り、琥珀色のスープを口に運ぶ。
野菜の素朴な甘みが、魔物肉の力強いコクを優しく包み込む。見た目は地味で、宮廷の晩餐には決して並ばない代物だ。
だが、冷えた体を芯から温めるような、確かな滋味がそこにあった。
「火入れの時間は、もう少し短くてもいい。肉の食感がわずかに損なわれます」
ギルバートは静かに器を置いた。
クロードが僅かに肩を落としかけた、次の刹那。
「ですが、食べる者の体を労わる、良い味です。明日から、これを賄いの正式な献立に加えましょう」
クロードは弾かれたように顔を上げた。
その瞳の奥に、言葉にならない感情が揺れる。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる弟子の背中を見つめながら、ギルバートは微かに目を細めた。
食材を慈しみ、客を想う心。
自分が長年大切にしてきた料理の真髄が、かつて自分を追放した男の中に確かに芽吹き始める。
すべてを失い、どん底まで落ちたクロード。
彼が真の料理人として再び歩み出せる日は、そう遠くないのかもしれない。




