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第15話

朝の光が差し込む厨房で、ギルバートは分厚い出刃包丁を握り、ぬめりのある巨大な魚体へ刃を立てた。


まな板の上に横たわっているのは、常連の騎士が討伐して持ち込んだ「赤鱗の泥魚」だ。辺境の沼地に生息する凶暴な魔物であり、その鋭い牙と強靭な尾に苦戦したと騎士は笑っていた。


身には上質な脂が乗っているが、血と内臓には強い痺れ毒が含まれている。王都では見向きもされない危険な食材だ。


ギルバートは迷いのない手つきで腹を引き裂き、毒腺を傷つけないよう慎重に内臓を取り除く。


昨夜、密偵が残していった不穏な気配が、まだ胸の奥にへばりついている。それを振り払うかのように、彼は調理の工程に没頭した。食材と向き合っている間だけは、心の平穏を保つことができる。


「『清浄』」


指先から淡い光を放ち、身に残った微かな毒素を分解する。さらに、辺境の森で採れた特有のハーブをすり鉢で潰し、魚の切り身に揉み込んだ。この雑草のような植物が、泥臭さを消し去り、毒の残滓を完全に中和してくれるのだ。


鍋に火をかけ、じっくりと煮込む。やがて、厨房いっぱいに食欲をそそる芳醇な香りが漂い始めた。澄んだ白濁色のスープは、誰も食べたことのない絶品の一皿へと昇華していく。


「……よし」


火を止め、ギルバートは小さく息を吐いた。どれほど周囲が騒がしくなろうとも、自分はここで目の前の客に温かい食事を出すだけだ。そう自分に言い聞かせる。



一方、王都の宮廷厨房は阿鼻叫喚の様相を呈していた。


「なぜだ! なぜ誰もあの味を再現できない!」


クロードの怒声が、大理石の壁に虚しく響き渡る。彼の足元には、手付かずのまま下げられた華やかな皿が散乱していた。


王宮の晩餐は完全に崩壊していた。クロードが就任して以来、見た目の華やかさと刺激的な香辛料を多用した品ばかりが提供されてきた。その結果、貴族たちの間で味覚障害が蔓延し、ついに若き王までもが激しい腹痛と吐き気を訴えて倒れたのだ。


「料理長、王の体調不良は、特定の食材に対する拒絶反応ではないかと……」


若い料理人が震える声で報告するが、クロードはそれを鋭く睨みつけた。


「馬鹿なことを言うな! 私の完璧な盛り付けと最新の味付けに、欠陥などあるはずがない!」


クロードは自身の保身のため、必死に解決策を探していた。ギルバートが長年、あえて地味な食事を出し続けていた理由。それは、若き王の隠された体質を庇うためだったのではないか。その疑念が、今になってクロードの胃の奥を冷たく締め付けている。


「あの老害の残したレシピノートはどこだ! どこかに隠してあるはずだ、探せ!」


部下たちを怒鳴り散らしながら、クロードは爪を噛んだ。魔物食材の毒抜きもできず、王の体質に合わせた調理法もわからない。自分が凡庸な人間であることが、白日の下に晒されようとしている。


それだけは絶対に避けなければならない。


「……すでに手は打ってある」


クロードは血走った目で虚空を睨んだ。辺境へ放った実力行使部隊。中でも、確実に標的を仕留める伝説の刺客。


あの男さえ消えれば、すべての責任を「前料理長の残した呪い」として処理できる。クロードの心は、もはや料理人としての矜持を完全に失い、醜悪な保身の泥沼に沈み込んでいた。



冷たい夜雨が、辺境の宿場町を打ち据えていた。


客足がすっかり途絶えた夜更け。ギルバートが配膳台を拭き上げていると、重い木の扉がギィと軋んだ。


「ようこそ。こんな夜更けに、よくおいでなすった」


ギルバートが静かに声をかけると、ずぶ濡れの外套を羽織った男が店内に足を踏み入れた。


年齢は三十代半ばだろうか。落ち窪んだ眼窩と、感情の一切を削ぎ落としたような冷たい瞳。男は客席の長机の隅に腰を下ろし、周囲の様子を油断なく窺っている。


ギルバートは男の顔色の悪さと、微かに震える指先を見逃さなかった。極度の疲労と、慢性的な胃腸の冷え。長年、過酷な環境に身を置き続けてきた者の肉体だ。


「温かいものをお出ししましょう」


ギルバートは厨房に戻り、朝方に仕込んでおいた赤鱗の泥魚の薬膳スープを温め直した。


男は伝説の暗殺者だった。長年にわたり、裏社会で数々の要人を葬り去り、時には毒見役として自らの体を酷使してきた。その過酷な任務の代償として、彼は味覚と感情を完全に失っていた。


彼に与えられた任務は、この辺境の食堂の店主を事故に見せかけて始末すること。


ギルバートが湯気の立つ木椀を男の前に置く。


「どうぞ。冷えた体には、これが一番です」


男は無言のまま木椀を見つめた。毒が仕込まれていないか、長年の習性で無意識に匂いを嗅ぎ、色を確認する。しかし、そこにあるのはただの素朴なスープだった。


男は木製の匙を手に取り、一口だけ口に含んだ。


味などしないはずだった。何を口にしても、砂を噛むような無機質な感覚しか得られないはずだった。


だが、刹那。


舌の奥底で、微かな温もりが弾けた。泥魚の濃厚な旨味と、辺境のハーブがもたらす爽やかな香りが、失われていた感覚の扉を静かに叩く。


それは、男が暗殺者となる前、遠い昔に故郷で飲んだ小川の澄んだ水のような、優しくて懐かしい滋味だった。


「……あ」


男の口から、掠れた声が漏れた。


匙を持つ手が震え、木椀の中にポツリと水滴が落ちる。男は自分が泣いていることに気づいていなかった。枯れ果てていたはずの涙腺から、止めどなく涙が溢れ出している。


ギルバートは何も言わず、ただ静かに男の様子を見守っていた。


やがて、男は匙を置き、懐から黒い布に包まれた短剣を取り出して机の上に置いた。


「……負けだ」


男は両手で顔を覆い、絞り出すように呟いた。


「こんな温かいものを作る人間を、私は殺せない」


ギルバートの眉が微かに動く。男が刺客であることは、その身のこなしから薄々察していた。しかし、男の口から紡がれた言葉は、ギルバートの予想を遥かに超える重い事実だった。


「王宮は、すでに地獄です」


男は涙を拭うこともせず、虚ろな目で語り始めた。


「あなたが耳にしているであろう貴族たちの体調不良など、もはや些末な問題に過ぎません。若き王の衰弱は、ついに命に関わる段階にまで達しました。しかし新料理長は己の失態を隠蔽するため、王の死すらも『前料理長の呪い』として処理しようとしている。私がここへ送られたのは、その筋書きを完成させるためだったのです」


ギルバートの胸の奥で、冷たい風が吹き抜けた。


幼い頃から胃腸が弱かった王の、青白い顔が脳裏をよぎる。香辛料の刺激に耐えられないあの華奢な体が、今どれほどの苦痛に晒されているのか。想像するだけで、ギルバートの胃の腑が鉛のように重くなった。


「私は……」


ギルバートは配膳台の縁を強く握りしめた。


権力闘争に疲れ果て、自分の作りたいものを作るために辺境へ逃げてきた。ここで穏やかな第二の人生を送れると信じていた。


だが、自分が逃げ出した結果が、王宮の惨状を招いたのだとしたら。


男の告白は、ギルバートに重い十字架を突きつけていた。窓の外では、夜雨が激しさを増し、屋根を打ち据える音が店内に響き渡る。


温かな厨房の明かりの中で、ギルバートはただ一人、深い喪失感と無力感に苛まれていた。自分の選んだ道は、本当に正しかったのか。


答えの出ない問いが、静かな不安となって胸の奥底に澱のように溜まっていく。

雨音だけが、彼の沈黙を冷たく包み込んでいた。

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