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ナビゲーションは何処へ……

作者: どうさん
掲載日:2026/03/07

 病室のカーテン越しに、夕方の光が薄く差していた。

 消毒液の匂いと、空調の乾いた音だけが静かに響いている。


 ベッドに半身を起こした高梨は、ぼんやりと天井を見つめていた。左脚には重たいギプス、腕には包帯。命に別状はないが、数ヶ月は入院になると言われている。


 ノックの音がして、ドアが開いた。


「生きてるか」


 佐伯が紙袋を提げて入ってきた。


「見ての通りな、生きてるよな俺」


 高梨は小さく笑った。


 佐伯は椅子に腰を下ろし、ゼリーや果物をテーブルに並べた。しばらくギプスを見つめてから、小さく息を吐く。


「……来る前に、現場寄ってきた」


「え?」


「警察がまだ検証してた。ガードレール、かなり曲がってたぞ」


 少し間を置いて続ける。


「警察の人に聞いたんだ。あそこ、同じ場所で何度も車が落ちてるらしい」


 高梨は黙って聞いていた。


「夜だとカーブが分かりにくいんだよ。俺も見て思った。確かに、事故が起きそうな場所だった」


 事故。

 その言葉で、あの夜の記憶がゆっくり戻ってくる。


「……話せよ」


 佐伯が言った。


「ナビがどうしたって。電話じゃよく分かんなかった」


 高梨は少し迷ったが、ゆっくり頷いた。


「中古車、買っただろ」


「ああ、事故車のやつな」


「高級車が激安の値段で出ててさ。店の人もちゃんと事故車だって言ってた。修復歴ってのに当たる部分は壊れてないから、走るのに問題はないって」


「正直な店だな」


「俺もそう思ったから決めたんだ」


 納車してからは、何も問題なかった。通勤にも使っていたし、走りも静かで快適だった。


 事故が起きたのは、納車して初めての休日前の夜だった。


 仕事帰り、外食ついでに少し遠回りしてみようと思い、ナビに店をセットした。


「最初は普通だったんだよ。本当に」


 地図も正常。音声もいつもの機械の声。


 だが、途中で。


「急に、音声だけ変になった」


「変って?」


「地図は店に向かってるのに、音声だけ違う方向を指示し始めたんだ」


 最初は、ただの不調だと思った。


 そのとき、短くザーッとノイズが入った。


 ほんの一瞬だけ、別の声が重なった気がした。


 気のせいだと思った。


「壊れてるのかなって思った。でも……興味本位でこのナビ、どこに行かせたいんだろうって」


 音声の指示に従って走ってみる。


 すると、道は少しずつ細くなっていった。街灯が減り、住宅が途切れ、畑と林ばかりになる。


 その頃から、胸の奥に小さな違和感が生まれた。


(あれ……?)


 同じ指示を、二回言う。


『右です』

 少し間を置いて、

『……右です』


 二回目の声が、少しだけ違う気がした。

 機械っぽくない。


 そこで一度、引き返そうかと思った。


 でも、「まあ壊れてるだけだろ」と思い直して、そのまま進んだ。


 さらに進むと、距離の案内が消えた。


『300メートル先を右です』だったのが、

『右』だけになる。


 言い方も短く、ぶつ切りになっていく。


(……なんか、変だな)


 もう一度、引き返そうかと思った。


 だが、まだ戻るほどじゃないと自分に言い聞かせた。


 道はさらに暗くなっていく。


 窓は閉めているのに、湿った土の匂いがする。


 対向車は一台も来ない。


 ナビが、突然案内を出した。


「この先、左方向です」


 画面を見ると、そこに道は表示されていなかった。


 地図には、ただの黒い空白しかない。


(……は?)


 思わず画面を見直す。


 だがナビは、まるで当然のように繰り返した。


「左方向です」


 実際には、細い獣道のような脇道しかない。


(こんな道……通っていいのか?)


 それでもナビは、迷いなく誘導を続ける。


 さらに暗い道へ。


 さらに細い道へ。


 ガードレールもない山道へ。


(……やっぱり、戻った方がいいか?)


 そう思い始めた。


 そして、三度目に思った。


(これ、引き返さないとヤバいんじゃないか)


 広い場所を見つけて、Uターンしようと決めた。


 ハンドルを切る。


 そのとき、ナビがノイズ混じりに鳴った。


 そして、はっきり聞こえた。


「……もうすぐ会えそうだね」


 高梨はそこで、確信した。


 壊れているんじゃない。


 何かが、話しかけている。


 ぞっとして、すぐにUターンした。


 元の道に戻ろうとする。


 その瞬間。


 すぐ隣から聞こえるように、女の声が言った。


「帰らないで、私の所へ来て」


 背筋が凍った。


 とにかくその場から離れたくて、アクセルを踏み込んだ。


 逃げるようにスピードを上げる。


 次のカーブに気づいたときには、もう遅かった。


 暗闇の中で、ガードレールの切れ目が見えた。


 ブレーキを踏む間もなく、車は真っ直ぐ崖へ突っ込んだ。


 気がついたときには斜面に投げ出され、遠くでサイレンが鳴っていた。


 話し終えると、病室に静けさが戻った。


 二人はしばらく黙っていた。


 退院してしばらくしてから、高梨は車を探し始めた。


 怖くないわけではない。

 だが、車がなければ生活が不便だった。


 中古車店を何軒か回った、そのときだった。


 展示されている車の一台に、ふと目が止まった。


 ダッシュボード中央のナビ。


 同じ型。

 同じ位置にある、小さな傷。


 足が止まる。


 店員が近づいてくる。


「その車、状態いいですよ。ナビもまだ使えますし」


 高梨は何気ないふりをして聞いた。


「ナビって、最初から付いてたんですか?」


「いえ、別の車から移したやつですね。まだ十分使えますから」


 高梨は、それ以上何も言わずに店を出ようとした。


 ふと、振り返る。


 夕日がフロントガラスに反射し、車内が一瞬だけ明るくなる。


 そのとき。


 消えているはずのナビの画面に、

 女性の顔が映っているように見えた。


 はっきりとは見えない。


 それなのに。


 とても寂しげな表情をしていることだけは、分かった。


 見えた気がしただけなのに、

 胸の奥に、説明できない寂しさが残った。


「……今、見えたか?」


 佐伯が小さく言う。


 高梨はゆっくり頷いた。


「見えた気がした」


 その車は、まだ売れていない。


 ナビも、まだそこにある。


 あのナビは――

 これから、何処に行くのだろう。

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