ナビゲーションは何処へ……
病室のカーテン越しに、夕方の光が薄く差していた。
消毒液の匂いと、空調の乾いた音だけが静かに響いている。
ベッドに半身を起こした高梨は、ぼんやりと天井を見つめていた。左脚には重たいギプス、腕には包帯。命に別状はないが、数ヶ月は入院になると言われている。
ノックの音がして、ドアが開いた。
「生きてるか」
佐伯が紙袋を提げて入ってきた。
「見ての通りな、生きてるよな俺」
高梨は小さく笑った。
佐伯は椅子に腰を下ろし、ゼリーや果物をテーブルに並べた。しばらくギプスを見つめてから、小さく息を吐く。
「……来る前に、現場寄ってきた」
「え?」
「警察がまだ検証してた。ガードレール、かなり曲がってたぞ」
少し間を置いて続ける。
「警察の人に聞いたんだ。あそこ、同じ場所で何度も車が落ちてるらしい」
高梨は黙って聞いていた。
「夜だとカーブが分かりにくいんだよ。俺も見て思った。確かに、事故が起きそうな場所だった」
事故。
その言葉で、あの夜の記憶がゆっくり戻ってくる。
「……話せよ」
佐伯が言った。
「ナビがどうしたって。電話じゃよく分かんなかった」
高梨は少し迷ったが、ゆっくり頷いた。
「中古車、買っただろ」
「ああ、事故車のやつな」
「高級車が激安の値段で出ててさ。店の人もちゃんと事故車だって言ってた。修復歴ってのに当たる部分は壊れてないから、走るのに問題はないって」
「正直な店だな」
「俺もそう思ったから決めたんだ」
納車してからは、何も問題なかった。通勤にも使っていたし、走りも静かで快適だった。
事故が起きたのは、納車して初めての休日前の夜だった。
仕事帰り、外食ついでに少し遠回りしてみようと思い、ナビに店をセットした。
「最初は普通だったんだよ。本当に」
地図も正常。音声もいつもの機械の声。
だが、途中で。
「急に、音声だけ変になった」
「変って?」
「地図は店に向かってるのに、音声だけ違う方向を指示し始めたんだ」
最初は、ただの不調だと思った。
そのとき、短くザーッとノイズが入った。
ほんの一瞬だけ、別の声が重なった気がした。
気のせいだと思った。
「壊れてるのかなって思った。でも……興味本位でこのナビ、どこに行かせたいんだろうって」
音声の指示に従って走ってみる。
すると、道は少しずつ細くなっていった。街灯が減り、住宅が途切れ、畑と林ばかりになる。
その頃から、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(あれ……?)
同じ指示を、二回言う。
『右です』
少し間を置いて、
『……右です』
二回目の声が、少しだけ違う気がした。
機械っぽくない。
そこで一度、引き返そうかと思った。
でも、「まあ壊れてるだけだろ」と思い直して、そのまま進んだ。
さらに進むと、距離の案内が消えた。
『300メートル先を右です』だったのが、
『右』だけになる。
言い方も短く、ぶつ切りになっていく。
(……なんか、変だな)
もう一度、引き返そうかと思った。
だが、まだ戻るほどじゃないと自分に言い聞かせた。
道はさらに暗くなっていく。
窓は閉めているのに、湿った土の匂いがする。
対向車は一台も来ない。
ナビが、突然案内を出した。
「この先、左方向です」
画面を見ると、そこに道は表示されていなかった。
地図には、ただの黒い空白しかない。
(……は?)
思わず画面を見直す。
だがナビは、まるで当然のように繰り返した。
「左方向です」
実際には、細い獣道のような脇道しかない。
(こんな道……通っていいのか?)
それでもナビは、迷いなく誘導を続ける。
さらに暗い道へ。
さらに細い道へ。
ガードレールもない山道へ。
(……やっぱり、戻った方がいいか?)
そう思い始めた。
そして、三度目に思った。
(これ、引き返さないとヤバいんじゃないか)
広い場所を見つけて、Uターンしようと決めた。
ハンドルを切る。
そのとき、ナビがノイズ混じりに鳴った。
そして、はっきり聞こえた。
「……もうすぐ会えそうだね」
高梨はそこで、確信した。
壊れているんじゃない。
何かが、話しかけている。
ぞっとして、すぐにUターンした。
元の道に戻ろうとする。
その瞬間。
すぐ隣から聞こえるように、女の声が言った。
「帰らないで、私の所へ来て」
背筋が凍った。
とにかくその場から離れたくて、アクセルを踏み込んだ。
逃げるようにスピードを上げる。
次のカーブに気づいたときには、もう遅かった。
暗闇の中で、ガードレールの切れ目が見えた。
ブレーキを踏む間もなく、車は真っ直ぐ崖へ突っ込んだ。
気がついたときには斜面に投げ出され、遠くでサイレンが鳴っていた。
話し終えると、病室に静けさが戻った。
二人はしばらく黙っていた。
退院してしばらくしてから、高梨は車を探し始めた。
怖くないわけではない。
だが、車がなければ生活が不便だった。
中古車店を何軒か回った、そのときだった。
展示されている車の一台に、ふと目が止まった。
ダッシュボード中央のナビ。
同じ型。
同じ位置にある、小さな傷。
足が止まる。
店員が近づいてくる。
「その車、状態いいですよ。ナビもまだ使えますし」
高梨は何気ないふりをして聞いた。
「ナビって、最初から付いてたんですか?」
「いえ、別の車から移したやつですね。まだ十分使えますから」
高梨は、それ以上何も言わずに店を出ようとした。
ふと、振り返る。
夕日がフロントガラスに反射し、車内が一瞬だけ明るくなる。
そのとき。
消えているはずのナビの画面に、
女性の顔が映っているように見えた。
はっきりとは見えない。
それなのに。
とても寂しげな表情をしていることだけは、分かった。
見えた気がしただけなのに、
胸の奥に、説明できない寂しさが残った。
「……今、見えたか?」
佐伯が小さく言う。
高梨はゆっくり頷いた。
「見えた気がした」
その車は、まだ売れていない。
ナビも、まだそこにある。
あのナビは――
これから、何処に行くのだろう。




